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2023.11.12「イエスの死と私たち」 YouTube

ローマの信徒への手紙6章4〜11節(新P.281)

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

7 死んだ者は、罪から解放されています。

8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。


ハイデルベルク信仰問答書

問43 十字架上でのギリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか。

答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです。

問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。

答 それは、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と。


1.洗礼の意味

①目に見えない霊的な出来事を指し示す洗礼

 有名な宗教改革者マルチン・ルターについて彼にまつわる様々なエピソードが伝えられています。ある時、ルターの元を訪れて次のような質問をした人がいました。「自分は本当に救われたクリスチャンと言えるのか疑問なのです…」。するとルターは「あなたは洗礼を受けていますか。受けているならあなたは間違いなく救われたクリスチャンです」と答えたと言いえます。このお話が実話であるかどうかは私にはよくわかりません。しかしマルチン・ルターが洗礼と言う出来事を大変重要視していたことはよく知られています。たとえば、ルターの生涯を伝える伝記を読むと、彼が生涯に渡って悪魔から激しい試みを受けていたことが記されています。悪魔はたびたびルターの耳元で「お前は本当に自分が救われていると思うのか…?」と語り掛けます。そのたびにルターは「わたしはイエス・キリストの御名によって洗礼を受けている」と言い返し、悪魔の誘惑を退けていたと言うのです。

 今朝、読まれた聖書の言葉、ローマの信徒への手紙の中でも洗礼によって私たちの人生にどのような変化が起こったのかと言うことを教えています。洗礼は人が教会に入るための単なる入会儀式ではありません。私たちの目では見えませんが、洗礼を受けることで私たちの命はそのときに実際に主イエスの命と結び付けられるのです。そしてこの洗礼を通して私たちの古い命がキリストと共に死にます。さらに洗礼の後、私たちの死んだ命はキリストによって新しい命に甦る、そのような霊的な変化が私たちの人生に確かに起こるのです。私たちが教会で受ける洗礼はこのような霊的な出来事を私たちの目に確証させると言う役割を持っているのです。


②キリストの死が私たちの地上の死の意味を変えた

 私たちはこの伝道礼拝で宗教改革の遺産の一つであるハイデルベルク信仰問答から学んでいます。この信仰問答は問40からキリストの死と言う出来事を取り上げて語っています。イエス・キリストの死によって私たちの罪が完全に償われました。聖書は元々、人間の世界に死と言う出来事が入り込んで来たい理由を、最初の人間が犯した罪によるものだと説明しています。つまり、人間の死は罪を犯した者に与えられる罰であり、人は皆、犯した罪の報いによって死ぬ者となったと言っているのです。しかし、イエス・キリストがこの私たちの罪をご自分が十字架の上で死なれることで完全に償ってくださいました。ですから私たちはこのキリストの死によってもはや罪の報いとしての死を受けることがなくなったと言うことになります(問40)。

 信仰問答はイエス・キリストの十字架の死によって私たち人間の死と言う出来事に罪の償いという意味はなくなってしまったことを説明することで、私たちが経験する地上の死と言う現実の意味が変わってしまったことを教えます。そこで信仰問答は私たちの死は「永遠の命の入り口」になったと宣言しているのです(問42)。

 かつてドイツで多くの人々にキリストの福音を伝えたブルームハルトと言う牧師がいました。彼は自分が晩年になり、歳を取って自分の体の機能が衰えていくという日常の体験しながらも次のようなことを人々に語ったと言うのです。「わたしは自分の肉体が衰えていくのと、ちょうど反比例するように私の中でキリストにある希望が日に日に大きくなって行くことを感じています」。彼がこのような信仰の確信を語ることができたのは、イエス・キリストが十字架の死と復活を持って私たちの死に勝利してくださったからです。このようにイエス・キリストは私たちの地上の死でさえも、希望の日に変えてくださったと言えるのです。


2.私たちの人生は罪と死に支配されることはない

①キリストの死によって変えられた人生

 昔、聖書を教えていた教会学校の生徒に「天国は死んだ人しか行けないでしょう」と聞かれて、すぐに答えが思い浮かばないで困ってしまったことがありました。もし、キリストの福音が私たちの死後の問題だけを取り扱っているとするなら、それでは私たちを本当に意味で救うことにはならないかも知れません。私たちは、毎日「今日をどのように生きるべき」を考えて人生を歩んでいます。また、「明日の自分はどうなってしまうのか」と言う心配を抱いて生きているのです。それではキリストの福音は今、地上の人生を歩んでいる私たちの生活にどのように影響を与えているのでしょうか。今日、私たちが読んだハイデルベルク信仰問答の問43と44はキリストの十字架の死と言う出来事が、今を生きる私たちの人生にどのような影響を与えているのかについて考えようとしています。そのため信仰問答はここで「十字架上でのキリストの犠牲の死から」今を生きる私たちは「どのような益を受けますか」と言う問いを出し、その死が私たちの地上の人生の意味を全く変えてしまったことを教えているのです。


②自動運転システム

 ここで信仰問答は今日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙の教えに従って、洗礼によってキリストの命と結びつくことになった私たちの命は、キリストの十字架の死と共に古い自分が死んで、葬られたということを取り上げます。ここで言われている「古い自分」とはイエス・キリストの救いと無関係で生きて来た私たちの人生を指しています。信仰問答はその「古い自分」について「肉の邪悪な欲望」に支配されていたとも教えています。これはかつての私たちの生き方がすべて神に背を向けて、その神に罪を犯し続けて来たと言うことを言っているのです。

 最近は自動車の開発が進んで「自動運転」と言う言葉をよく聞くようになりました。まだまだテストの段階のようですが、行く行くは目的地を入力すれば、自分が運転しなくても自動車が勝手に私たちを目的地まで運んでくれると言う、そんな時代がやって来るかも知れません。自動車の自動運転の実現はまだまだ先のことになるかも知れません。しかし私たちの人生の自動運転は私たちの祖先である人間が堕落した時から始まっていると聖書は教えているのです。なぜなら人間は堕落したときから、自分がその人生で何をしたとしても、その行為のすべては神に背く罪を犯すことになり、やがては私たちを「永遠の滅び」と言う目的地に運ぶことになっているからです。「肉の邪悪な欲望」に支配されるとは、このような私たちの人生に組み込まれている自動運転のようなシステムだと考えてよいと思います。そして残念なことに、この自動運転システムは乗っている本人には気づくことができないようにもなっているのです。

 キリストの十字架の死はこのような「肉の邪悪な欲望」の支配から私たちを解放するものだと信仰問答は教えています。そしてキリストは私たちをこのような自動運転システムから解放してくださるだけではなく、私たちに代わって私たちの人生を正しい目的地への導いてくださる方でもあるのです。

 私たちはイエス・キリストによってこのような素晴らし救いを受けるとき、当然、私たちの生きる目的も変わります。このことについて信仰問答は「自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです」と教えているのです。

 こんなお話があります。たくさんのお客を乗せた一台の観光バスが雄大な大自然が広がる山道を進んで行きます。周りの木々はすっかり紅葉で色づいています。またその向こうには雄大な山々が連なっています。しかし、そんな道を走っているバスの中の乗客の顔は一人も楽しそうではありません。むしろ、乗客たちは皆、苦虫をつぶしたような不愉快な表情をしています。なぜ、彼らはそんな顔をしているのか、それは彼らの乗るバスの窓と言う窓すべてに、厚いブラインドカーテンが降ろされていたからです。このたとえ話はキリストに救われていたなかったかつての私たちの人生を表しているとも言えます。かつての私たちの心には厚いブラインドカーテンがかかっていました。だから神様がせっかく私たちのために素晴らしい恵みを与えてくださっていても、それが全く分からなかったのです。しかし、今の私たちの人生は違います。私たちはキリストの救いによって霊的な目が開かれることにより、神の恵みが私たちの人生に豊かに与えられていることを知ることできるのです。そして私たちはその恵みを与えてくださる神様に感謝して、私たちの人生を喜びを持って神にささげることができるようにされるのです。そのように私たちの人生はイエス・キリストの十字架の死によって確かに変わったのだと言うことをこの信仰問答は教えているのです。


3.どんな絶望に支配されない

 このハイデルベルク信仰問答が作られたのは宗教改革の時代です。その当時、新しく生まれたプロテスタント教会と古い体制を維持するカトリック教会の勢力の間では激しい争いが続けられていました。その中で聖書を信じて教会を改革しようする人々は命がけでその信仰を守る必要がありました。この信仰問答を作ったのは学者ではなく、そのような厳しい信仰の戦いの中で生きる信徒たちを導く牧師たちだったと言います。ですから彼らは聖書の言葉に基づいて実際に厳しい信仰の戦いの中に生きる信徒たちを慰め励ます必要がありました。この信仰問答の言葉が難しい神学用語で使うのではなく、人々を慰め励ます言葉で書かれているのはそのような事情があるからです。

 この信仰問答は問44でキリストが「陰府にくだり」と言う言葉を使って、キリストが私たちを「地獄のような不安と痛みから私たちを解放してくださった」と言うことを教えています。パソコンで「よみ」と入力すると必ず「黄泉」と言う文字に変換されます。この言葉は古事記の昔から死者の住む世界を呼ぶ言葉として日本では用いられて来たようです。一方のここで使われてている「陰府」と言う聖書の言葉も死んだ者が行く場所を指しています。特に旧約聖書では死んだ者はすべてこの「陰府」に行くと考えられていたようです。ですから、教会ではイエス・キリストが十字架で死なれた後に、実際にこの死者の国である「陰府」に行ったと解説する人も多いのです。しかし、それではキリストは何のために「陰府」に行かれたのかと言うところで様々な解釈が生まれました。キリストが陰府に行くことで地上ではキリストの福音を聞くことができなかった人に伝道したと言うような解釈をする人もいます。その上で「地上で救われなかった人でも陰府の世界で救われるチャンスが残っている」と主張する人も現れたのです。

 ハイデルベルク信仰問答はキリストが陰府に下られたと言う教えを誰のためにそこに行ったのかと言うような議論をするのではなく、それは今を生きる私たちにどのような意味があるのかと言う方向から説明しようとしています。そのために信仰問答は「陰府にくだり」と言う言葉の意味を場所ではなく、キリストがそこで受けた「言い難い不安と苦痛と恐れ」に言うことに絞って解説しているのです。そしてキリストはこの苦しみを受けることで、私たちを地獄のような不安と痛みから解放してくださったと教えています。

 私たちは厳しい試みを受けるとき「自分だけがこのような苦しみを受けている」と考えがちです。そして「誰も自分の苦しみを分かってはくれない」と言う深い絶望感と孤独感を覚えるのです。そこで私たちは「これから自分はどうなってしまうのだろう」と深い不安にも襲われるのです。しかし、信仰問答はそのような試みに立たされる私たちのためにキリストが陰府に降られたと教えるのです。厳しい試練に会うことがあっても私たちは決して一人ではありません。なぜなら、イエス・キリストがどこにあっても私たちと共にいて下さるからです。それだけではありません。キリストは自ら私たちのために十字架の死と言う苦しみを受けることで、私たちを地獄のような不安と痛みから解放してくださった言うのです。

 旧約聖書の詩編139編は次のような信仰の告白を書き知るしています。

「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(7〜10節)

 イエス・キリストが陰府に下られたのは、どこに行っても私たちから決して離れず私たちを慰め、励まし、やがて私たちを準備された完全な救いに導くためであることを信仰問答は教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問43を読んで見ましょう。この信仰問答は「十字架でのキリストの犠牲と死から、私たちは…どのような益を受ける」と説明していますか。

2.この信仰問答によればかつての私たちの古い自分は何に支配されていたと言っていますか。またキリストの死によりそこから解放された私たちはどのように生きることができるようになったと教えていますか。

3.聖書において「陰府」とは死者が行くところと考えられています。信仰問答問44はイエス・キリストが「陰府」に行かれたことは何のためであったと説明しています。

4.人は激しい試練に会うとき孤独感や絶望感に苦しみます。キリストが陰府にくだられたと言う出来事は激しい試練に会う者にどのような確信を与えますか

2023.11.12「イエスの死と私たち」