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2023.11.19「タラントンのたとえ」 YouTube

マタイによる福音書25章14〜30節(新P.49)

14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。

15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、

16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。

17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。

18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、

25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。

27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。

28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


1.世の終わりについての主イエスの教え

①世の終わりを待つ者の心構え

 今年も教会ではクリスマスに備えるシーズンを迎えました。一足早く教会暦では次週の礼拝が一年で最後の礼拝となり、その次の週から教会暦では新しい年となり、待降節が始まります。この教会暦では一年の最後の三週間に渡って主イエスが語られた「世の終わり」についてのお話から学ぶことになっています。

 聖書は私たちの住む世界が神によって創造されたことを教えています。つまりこの世界には始まりがあったことを私たちに伝えているのです。それと同時に聖書はこの世界には終わりがあると言うことも教えています。もちろん、聖書が語る世の終わりは、そこですべてが無くなってしまう、無に戻ってしまうと言うことではありません。むしろ、神の創造された世界は今もその完成に向かって進んでいます。そしてすべてが神の理想通りに完成するときこそが聖書が言う「世の終わり」の出来事だと言うことができるのです。

 主イエスはこの「世の終わり」の出来事の重要性を人々に熱心に教えました。そして主イエスはこの「世の終わり」をどのようにして私たちが迎えればよいのかと言うことも教えて下さったのです。今日のマタイによる福音書の直前に語られている「十人のおとめ」についてのたとえ話(25章1〜13節)も、「世の終わり」の出来事を結婚式で花嫁と共に花婿の到着を待つ十人のおとめにたとえて教えています。主イエスはこのお話を通して「世の終わり」のときに備えて私たちに「目を覚ましていなさい」と教えているのです。もちろん、ここで言う「目を覚ましていなさい」と言う言葉は「絶対に寝てはいけない」と言う睡眠禁止の命令ではありません。そうではなく主イエスは私たちの信仰の心構えをここで語っているのです。今日、私たちは聖書に記された「タラントン」のたとえ話から学びます(14〜30節)。そして前の「十人のおとめ」のお話から考えればこの「タラントン」のお話も、同じように私たちに「世の終わり」のときを待つ信仰の心構えを教えていると考えることができるのです。


②終末論の目的

 私がまだ学生だった頃、「ノストラダムスの大予言」という書物が販売されて日本でも大きな話題になったことがあります。「人類は1999年に滅亡する」というようなメッセージが日本中を騒がせたことを思い出します。人々は「世の終わり」の出来事を興味本位に取り上げては大騒ぎする、そのような歴史が繰り返されています。しかし、聖書が私たちに「世の終わり」について語るのは私たちを驚かせるためでも、恐怖に陥らせるためでもありません。この福音書を書いたマタイが主イエスの語る「世の終わり」についての教えを記した理由は大きく二つに分けて考えることができると言えます。

 第一は今、信仰を守り抜くために激しい試練に襲われている人々を慰め励ますためであると考えることができます。厳しい試練に出会う者にとって深刻な問題は、「この試練はいつまでつづくのだろうか…」と言うことと、「自分はこの試練に勝利することができるのだろうか…」と言うものです。主イエスの語られた「世の終わり」の教えはこの疑問に答える役割を持っています。私たちの受けている試練には必ず終わりがあります。終わりのない試練は一つもありません。なぜなら、神は私たちのために「世の終わり」を準備してすべての試練を終わらせて下さるからです。さらに、たとえ私たち自身は激しい試練に打ち勝つ力を持っていなくても、神は必ず私たちを信仰の勝利へと導いてくださるのです。なぜなら、神は「世の終わり」のときに私たちを必ず信仰の勝利者としてくださるからです。

 さらに福音書が「世の終わり」の教えを語る第二の目的は、今を生きる私たちが毎日の生活を確かな足取りで送るためだと考えることができます。「人生は選択の連続」と良く言われています。私たちは自分でこれから何をしなければならないかを自分の判断で選んでいかなければなりません。しかし、残念なことに私たちはどれが本当に自分にとってふさわしい選択なのかを判断する基準を持っていません。ですから多くの場合、私たちは人の真似をして生きようとするのです。しかし、この方法はとても危険です。なぜなら、私が真似をした人がもし誤った方向に進むなら、自分も同じ誤りを犯すことになるからです。多くの人はこのような人生の過ちを犯したうえで「あの人がそう教えたからいけないのだ…」と責任転嫁をしようとします。しかし、どんなに人を恨んで見てもそのようにして送った人生の時間はもう二度と取り返すことはできないのです。

 聖書が私たちに「世の終わり」の出来事を教えるのは、私たちが正しい人生の選択をすることができるための基準を教えるためです。なぜなら、私たちがこの「世の終わり」に目を向けるなら今、自分にとって何が大切なのかと言うことが分かって来るからです。自分のためにたくさんの穀物を蓄えた金持ちがその死を迎えたときに、結局集めた穀物が無意味になってしまったようなそのような失敗を私たちが犯さないために(ルカ12章13〜21節)主イエスは「世のおわり」について教えてくださったのです。


2.タラントンのたとえ

①主人の信頼とそれに答えた二人の僕

 さて今日のお話は長い旅に出ることになった主人がその僕たちにそれぞれその力に応じて自分の財産を預けたことから始まっています。一人に五タラントン、もう一人に二タラントン、そしてもう一人には一タラントンの財産が預けました。このタラントンという単位ですが、手元の資料によれば一タラントンは6000デナリオンの価値を表すと記されています。当時の労働者の平均的な一日分の賃金は1タラントンでした。ですから、一タラントンは労働者が20年間休まないで働いてやっと得ることができる金額であり、相当の財産であったことが分かります。主人はこの財産を僕たちに預けて旅に出るのです。そしてその主人が僕たちに預けた財産の決算を行ったのは「かなり日がたってから」(19節)と記されています。つまり、この主人は大金を僕たちに預けながら、その間一切、何の干渉もしなかったと言うのです。大金を預かった僕が全財産を持ち逃げするという可能性もあったはずです。しかし、この主人はそれでも自分の大切な財産を僕たちに預けています。ここにはこの主人が自分の僕たちに絶対の信頼を持っているという姿勢が表されていると言えます。そしてこの物語を読み解くカギも、この主人と僕たちの間にあった信頼関係にあると考えることができるのです。

 なぜなら、主人から預けられた財産を使い大きな利益を得ることができた僕たちに共通するのも、その財産を自分に預けてくれた主人に対して彼らも強い信頼を持っていたと言えるからです。二人の僕はそのタラントンを使ってそれぞれ商売をして、預けられたタラントンを二倍に増やしました。しかし商売が必ずしも成功する保証はどこにもありません。商売にはリスクがつきものだかです。二人の僕がこのリスクを恐れずに預けられたタラントンを使うことができたのは、主人を信頼していたからではないでしょうか。「たとえ、その商売に失敗したとしても、主人は自分のした商売の結果だけではなく、その努力を認めてくれるに違いない」。二人の僕はそう考えることができたからこそ、恐れることなく大金を商売に使うことができたのです。


②地面に埋めた僕

 しかし、一タラントンを主人から預かって、それを地面に埋めてしまった僕は次のように主人に語っています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」(24〜25節)。

 彼は「自分の主人は結果しか見ていない」と考えています。だから彼はその主人への恐怖から預けられた財産を全く使わないと言う選択をしてしまったのです。その際に興味深いのはこの僕が主人に語った言葉です。

「あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」(25節)

 お分かりになるでしょうか。この僕は「あなたのタラントン」を後半部では「あなたのお金」と言い換えています。この「お金」と言う言葉はギリシャ語では貨幣を作る銀のような金属を呼ぶ単語で表現されています。つまり、彼にとっては主人から預けられたものは何の価値もない金属の塊にしか思えなかったと言うことをこの言葉は表現しているのです。

 神は私たち一人一人に大切な命を預けてくださいました。また私たちのこの世での人生の時間を預けてくださいました。その人生の時間にはそれぞれに違いがあります。若くしてこの世を去る人もいれば、高齢になるまでこの世に留まる人もいます。しかし、私たちはその命の価値をどのように思っているのでしょうか。もし人生を「食べて寝ての連続。それが人生だ」と考えているとしたら、まさにそれは預けられたタラントンを地面に埋めてしまっているのと言えるかも知れません。なぜなら、神は私たちが預けられたタラントを使って、豊かに祝福された人生を送ることを望んでおられるからです。


3.使うことの大切さ

 この主イエスの語られたお話をある説教者は次のように解説しています。この地面に預けられタラントンを埋めてしまった人は当時のユダヤ人たちを指しています。なぜなら、彼らは神からすばらしい聖書の言葉を、福音をゆだねられていたのに、それを他の人々に伝えるのではなく、自分たちのためだけに使おうとしたからです。神は福音を預けられた者たちが自分だけで満足するためにそれを委ねたのではありません。その福音を隣人に伝える使命を彼らは与えられていたのに、その使命を忘れてしまったのです。主イエスはそのユダヤ人の誤りをこのようなたとえで語っているとその説教者は教えます。確かにそう考えるとこの問題はユダヤ人だけではなく、私たちにも関わってくる問題だと言えます。なぜなら、神は私たちが自己満足するためだけに、この福音を私たちに委ねて下さったからではないからです。

 最近、私は毎晩YouTubeで放映されている韓国のダニエル祈祷会の中継を視聴しています。チャン宣教師に勧められて、教会の皆さんにもこの祈祷会を紹介しました。その責任上、私は毎晩時間になるとテレビの前に座ってこの祈祷会に参加しています。はっきり言って、この祈祷会の内容には大きな抵抗感を感じています。なぜなら私の考えているキリスト教信仰のスタイルから考えるとこの祈祷会で表されるキリスト教信仰の間にはかなりの違いがあるからです。祈祷会で毎晩のように立てられる講師の語る証は、不慣れな日本語の同時通訳のせいもあると思いますが、何か私には自慢話を聞かされているように思えてなりません。最もこれはそれは聞く私自身の受け取り方にも問題があるのかも知れませんが…。とにかくまるでテレビのチャリティーショーのように思えるような祈祷会を私は視聴しながら感じたことがありますあ。それは「この人たちの信仰は自分たちの生活に密着している」と言う感想です。なぜならテレビで映し出される人たちは毎日聖書を読み、毎日の自分の人生の選択をするごとに神に祈っているように思えたからです。

 もし、私たちの信仰生活が日曜日に礼拝に来て、聖書を読み、また祈るだけのものであるとしたらどうでしょうか。もちろん日曜日に礼拝に出るのは信仰者にとって絶対に疎かにしてはならいないことです。ですから私たちは世の終わりに主イエスが再臨されるまでこの日曜日の礼拝を休むことはありません。しかし、もし私たちの信仰生活が日曜日だけで、他の曜日には全く関係ないとしたなら、それはせっかく神から信仰を与えられているのに、その信仰を地面に埋めてしまうようなものだと言えるのではないでしょうか。

 神は私たちが毎日、神からの恵みの中に生きることができるようにと私たちに信仰を与えてくださったのです。だから、もし私たちが毎日聖書を読み、また私たちの人生の選択に際して神に祈るなら、私たちの人生は豊かに祝福されるはずです。神は私たちが自分の人生を通してどのような利益をもたらしたか…、そのような結果だけを求めているのではありません。ご自分が信頼して預けたすべてのものを、私たちの命を、私たちの人生の時間を、そして神の福音を、さらには私たちの信仰を地面に埋めてしまうのではなく、使うことを求めてくださっているのです。だから私たちは主イエスの十字架によって赦された命をもっと大胆に使っていこうではありませんか。主イエスはそれを私たちに教えるために今日のタラントンのたとえを語ってくださっているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの語られた今日のたとえ話の中に登場するある人は旅行にでかけるときに何をしましたか(14〜15節)。

2.主人から五タラントンと二タラントンをそれぞれ預けられた僕たちはそれを使って、何をし、どのような結果をもたらしましたか。主人は彼らをどのように評価しましたか(16〜23節)。 3.一タラントンを預かった僕は何をしましたか。彼は自分がそのようにした理由をどのように説明していますか(23〜25節)。

4.主人はこの僕にどのように答えましたか。また、彼をどのように取り扱いましたか(26〜30節)。

5.このお話は主イエスが世の終わりについての備えを語った十人のおとめのたとえに続いて語ったものです。主イエスがこのお話でも世の終わりについての備えを私たちに教えているとしたら、神は私が世の終わりをどのように待つことを望まれているとあなたは思いますか。

2023.11.19「タラントンのたとえ」