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2023.11.26「小さな者の一人となられたキリスト」 YouTube

マタイによる福音書25章31〜46節(新P.50)

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

33 羊を右に、山羊を左に置く。

34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


1.簡単に理解できない物語

①世の終わりに対する備えを教える物語

 教会暦では今日が一年間を通して最後の主日、礼拝の日となっています。そして教会暦でこの日の聖書箇所として選ばれているのは「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(31節)と語られているように、世の終わりのときに主イエスが再び来られるときについてのお話が取り上げられています。私たちの救い主としてこの地上に来られ、十字架にかかって死なれた主イエスは復活の後、天に昇られました。その主イエスが再び来られるとき、今日の聖書はすべての国民を羊と山羊に分ける審き主、王として来られると語っているのです。

 このマタイによる福音書25章は主イエスが世の終わりについて教えたお話を収録しています。これらの話を通して主イエスは世の終わりが突然訪れても大丈夫のように準備をするようにと私たちに教えています。「十人のおとめ」のたとえでは花婿がいつやって来ても大丈夫のように、ともし火の油を準備したおとめたちのように生きるようにと教えています(1〜13節)。また「タラントン」のたとえでは神が私たちに預けてくださったタラントン、それは私たち自身の命であり、また大切な人生の時間と考えてもよいでしょう、さらには神が与えてくださった私たちの賜物を忠実に使うようにと教えておられます(14〜30節)。なぜなら、主人が再び家に戻ったときに、その僕たちは預かったタラントンをどのように用いたのか主人に報告をしなければなりませでした。その上で主人はそのタラントンの用い方によって僕たちにふさわしい報いを与えようとしたからです。


②簡単には理解できないお話

 今日のお話はある意味でこのタラントンのたとえに通じるところがあるかも知れません。なぜなら王である主イエスはすべての国民をその行いによって「羊を右に、山羊を左に」(33節)に分けておられるからです。そして羊たちには祝福に満ちた神の国を受け継がせ、山羊には「永遠の火」つまり滅びの刑罰を与えられるのです。私たちはこの主イエスの教えを読んで、「ああ、私たちもがんばって羊のようにならなくてはならない。山羊のようにならないように注意しよう」と考えるはずです。つまり、これまでの世の終わりについてのお話から考えれば、羊たちは世の終わりについての備えをしていた人たち、そして山羊はその備えを怠った人たちと考えることができるのです。

 しかし、このお話はそんなに単純に割り切ることができないと言えるのです。なぜなら、このお話では羊も山羊も王の審きを受けて「わたしたちはいつ、そのようなことをしたでしょうか?」、あるは「わたしたちはいつ、そのようなことをしなかったのでしょうか」と問い返しているからです。つまりこの言葉から分かるように、羊たちも山羊たちも「世の終わりが来たら大変だ」と考えて何かを準備した訳でも、また準備しなかった訳でもないのです。そう考えると、このお話はいったい私たちに何を教えているのか、そうは簡単に理解することができないように思えるのです。


2.主イエスは誰のためにこの話を語っているのか

 実は今日の聖書のお話についての解釈を巡ってはキリスト教会の中でも様々な理解の仕方が生まれました。代表的なのはここに登場する羊や山羊は最後の審判に対しての知識を持たないままにこの世の生活を送っているように思えます。そう考えると彼らはこの世の生涯で神の福音である聖書の教えを聞くことができなかった人々と考えることができます。福音を知らない人はこの世が終わることも、そのときに神の厳しい審判が自分たちに実施されるということも分かっていません。だから、彼らの審判の際にその基準となるのは信仰ではなく、彼らが「小さい者」たちになした愛の行為だと言うのです。その上でこの「小さい者」が誰であるのかと考えるときに、実はその「小さな者」たちこそ神を信じて生きる人々、信仰者たちだと教える人も現れました。つまり、そう考えるとキリスト者を厳しく迫害する者たち、またむしろその迫害の中でもキリスト者たちに愛の手を伸ばして、彼らを守ろうとした者たちに対して神は世の終わりにふさわしい報いを与えられるということをこのお話は告げていると言うことになります。

 しかし、今までこのマタイによる福音書の25章のお話を読んで来た私たちは、ここで主イエスが世の終わりの出来事を客観的に伝えていると言うよりは、むしろその終わりのときに対して私たちがどのような信仰的な姿勢を示せばよいのかを教えていると言うことを学びました。そのような理解の仕方から考えると、やはり、今日のお話も福音を知らずに生きた人々のことではなく、すでにキリストを自分の救い主として受け入れて生きる私たちキリスト者、今、この聖書を読んでいる私たちの生き方を主イエスは取り上げていると考えることの方がふさわしと言えるのです。


3.世の終わりには別の基準があるのか

 今日のお話を私たちの信仰の問題として考える際に重要になるのは、やはり、このお話に登場する羊と山羊が世の終わりに対して特別に備えをしたり、あるいはしなかったと言うことを問われているのではないと言うことです。むしろこのお話では彼らが地上でなした愛の行為、つまり日常的な行為がその審きの基準とされている点が大切になってくるのです。

 宗教改革者マルチン・ルターが語ったとされる次のような言葉があります。「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える」。実はこの言葉が実際にルターの語ったものなのかどうかには疑問が残されています。しかし、世の終わりに対するルターの考え方を表す言葉としてはふさわしいものだと考えられて来たのです。

 世の終わり、終末に対する聖書の教えは、キリスト教会の長い歴史の中でも様々な問題を引き起こし続けて来ました。なぜなら、一部の過激な信仰者たちはこの言葉を使って人々の不安を煽って、様々な事件を引き起こさせるようなことをしたからです。「明日、世の終わりが来るなら、この世の活動に時間を使うのは無意味だ。すべてのことを止めて祈りに専念しながら主イエスの再臨を待つべきだ」と教える人が現れました。しかし、このような教えを語る人たちはいたずらに人々を混乱に陥れるだけで、何の益も与えることができずに消えて行きました。

 私たちはここで注意しなければならないのは「世の終わりに起こる神の厳しい審きために何か特別なことをしなければならない」と教える人々です。彼らは「普通の信仰生活を送るだけではその審に耐えることはできない」と語るのです。しかし、これは聖書の教えに明らかに反した異端の教えであると考えることができます。なぜなら、私たち罪人を神の審きの前で守り、無罪としてくださるのは主イエスの十字架の贖いだけであると言えるからです。それに対して、私たちがこの世でなした業はどのようにそれが善い行いと言えるようなものであっても、神の審きを逃れさせるためのものとはなり得ないのです。

 このような意味で私たちは世の終わりについての備えを語りながら、そこにイエス・キリストを信じる信仰以外の何かを求めるような人々の教えについて警戒しなければならないと言えます。そしてそのような意味で私たちの信仰生活で大切になるのはルターが「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える」と語ったように、忠実に自分に与えられている信仰生活を送ることだと言えるのです。なぜなら、私たちがタラントンのたとえでも学んだように主人の願いに答えてこの世で忠実に人生の時間を使った僕たちを神は「よくやった」と言って褒めてくださるからです。


4.主イエスに救われた者として生きる

 さてこのように考えて見るときに今日の物語で主イエスが羊として分けられた人々はその主イエスを信じて忠実な信仰生活を送った者たちであると考えることができます。なぜなら、ここに登場する王はその羊たちに「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)と語りかけて下さっているからです。

 使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(3〜4節)と語っています。パウロが言うように私たちが今、主イエスを信じて信仰生活を送れるのは私たちが他の人々より特別に優れているからではありません。神が天地創造の前から私たちをキリストにおいて選んでくださったからなのです。

 それでは主イエスを信じた信仰者たちが小さな者を受け入れ、その人々を愛することができたのはどうしてなのか。私たちにはそんな疑問が最後に残されます。その疑問について私たちは最後に考えたいと思います。

 さて主イエスに救われている者たちと、そうでない者たちの行動を分ける大きな基準はやはり、今まで考えてきたように、主イエスを信じた人は安心して世の終わりを待つことができると言うことであると言えます。その反面で世の終わりを恐怖し、不安に思うのは、主イエスを信じることができない人々であると言えるのです。主イエスによって救われたという確信を持たない彼らは何かをしなければならないと考えるからです。

 もし、小さな者たちを愛さなければ神の厳しい審判を受けると考え、その人が必死になって人を愛そうとしたとしたら、それは果たして本当の愛であると言えるでしょうか。むしろこの場合の愛は、自分が救われるための手段となり、純粋にその人を愛することにはなり得ないと言うことができます。このお話に登場する羊たちは自分たちがこの世で小さな者たちを愛したことをまったく意識していません。それはどうしてでしょうか。彼らにとってその行為は当たり前の行為であって何ら特別なことだと言うことはなかったからです。

 彼らがそう考え、また生きることができたのは、やはり羊たちは自分のことを心配する必要はもはやなく、主イエスに救われたキリスト者としての信仰生活を送ることができていたからであると言えます。そして、その上で彼らが表そうとしたのは、主イエスに救われた自分たちがその感謝を主イエスに表したいという願いです。

 彼らが自分たちの救われた感謝を表すためにとった方法は自分の思い付きに基づくような勝手な方法ではありませんでした。聖書が教える神への感謝の方法、そして何よりもそれを自分の生き方を持って示してくださった主イエスの生き方を自分たちの感謝を表す基準としようとしたのです。このお話の中で王は羊たちに次のように語っています。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35〜36節)。

 この言葉はそのまま主イエスが私たち罪人に示した愛を表していると言うことができます。なぜなら、私たちはかつて魂の深刻な飢え渇きを覚えながら、心の平安を受けることができずにこの世をさ迷い、罪の病に苦しみ、またその罪の奴隷として鎖につながれた囚人のような生活をしていたからです。だから主イエスはその私たちのところにやって来てくださり、私たちの魂を生きかえらせて、罪の支配から私たちを解放するために十字架で命をささげ、その尽きることのない愛を私たちに示してくださったのです。

 羊たちはこの主イエスの愛を知っていたからこそ、自分たちもこの世の生活を通して主イエスのように生きようと願ったのです。しかし、どんなに願っていても私たちの力ではやはり、主イエスのように自分も生きることは不可能です。ところが主イエスはそう願う私たちに対して、今も天から聖霊を送って、私たちの信仰生活を助けてくださるのです。宗教改革者のカルヴァンは「すべての善き行いは神が私たちを通して実現してくださった御業であると言える。しかし、神は自らがなしたはずのその善き行いを、世の終わりにおいてあたかも私たちがした行いのように私たちを評価してくださる」と教えています。

 このような意味で神は羊たちが主イエスと同じように小さな者を愛することができるために彼らに聖霊を送り、愛の賜物を与えてくださったのです。そして神は、その賜物を豊かに用いた羊たちに世の終わりのときに、祝福に満たされた神の国を受け継がせてくださるのです。だからこそ、私たちは主イエスの言葉に従って、世の終わりを恐れることなく希望を持って待ち望むことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(31節)。そのとき人の子である主イエスは何をされると聖書は教えていますか(32節)。

2.王である主イエスは羊として分けられた右側にいる人たちに何と語られましたか(34〜36節)。この言葉に正しい人とされた人たちはどんな疑問を語りましか(37〜39節)。

3.この後、王は山羊とされて左側にいる人たちに何と語られましたか(41〜43節)。すると彼らは王に何と答えましたか(44節)。

4.王が語られた言葉(40、45節)から、主イエスが終わりの時にすべての国の民を分けられる基準がどこにあることが分かりますか。また、そのような行為が大切であった理由を聖書は何と説明していますか。

5.あなたにとって聖書が教える世の終わりの出来事は希望を与えるものでしょうか。それとも恐怖や不安を抱かせるものでしょうか。あなたがそう思う原因についても考えてみましょう。

2023.11.26「小さな者の一人となられたキリスト」