2023.11.5「へりくだる者は高められる」 YouTube
マタイによる福音書23章1〜12節(新P.45)
1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
1.神の前ではすべては兄弟姉妹
最近、私は葬儀やクリスマスの礼拝を行う際に、以前に韓国人の友人の牧師からプレゼントされた牧師用のガウンを着るようにしています。普段の礼拝や教会での活動ではガウンなどは着ていません。ですから私がそれを着ると「あまりに似合わないですね…」とか、「何か牧師らしく見えますよ…」と言うような色々な感想をいただきます。なぜ私が牧師用のガウンを着るようになったのかと言う理由は、最近特に若い頃に購入した式服のサイズが私の体形と合わなくなってしまったからです。その点、この牧師用のガウンはとても便利です。ガウンの下にどんな服を着ていても、それを羽織れば大丈夫だからです。ですから、私は牧師用のガウンを「便利でいい」と言う理由で愛用しているのです。
私たちの改革派教会では礼拝の際に牧師が着なくてはならないような特別な服装は定められていません。それに対してカトリック教会のようなところでは、必ず聖職者はそれにふさわしいとされる服を着用するように義務付けられているようです。カトリックでは教皇をトップにして枢機卿とか大司教、司祭と様々な位(ヒエラルキー)が存在しています。そして服もその位に会うようなものが準備されているのです。おそらく、その理由はその服を着ている人がどのような権威を持っているのかが誰にでもわかるようにするためであると考えることができます。
宗教改革を経て私たち改革派教会の礎を気づいた人たちの中で、特にイギリスで「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれる人々は、牧師がこのように人に対して権威を示すような特別な服を着ることを「聖書的ではない」と言って退けました。ピューリタンはこの権威について「牧師の権威は語られる御言葉にだけある」と主張したのです。つまり、権威とは立派な牧師らしい服を着ている人にあるのではなく、その牧師が語る聖書の御言葉にあると考えたのです。
今日のお話でも主イエスは私たちに人を「先生」と呼んではならないと教えています(8〜10節)。実はこの意味は私たちが従うのは聖書の御言葉であって、特定の地位を持った人間に従うのではないということを言っているのです。ですから、その人が聖書に基づいて正しい御言葉を語っているならば、たとえその人がどのような身分の者であっても、その言葉に私たちは従うべきであると言えるのです。また、相手がたとえ「聖書を教える」と主張する教師であったとしても、その言葉が聖書に基づかない単なる人間の知恵のようなものであるとしたら、その言葉には何の権威もないと言えますし、私たちも従う必要はないのです。なぜなら、私たちは神の前では皆、兄弟姉妹であってそこには従属関係を示すようなランクの違いは存在していないからです。
2.教えるだけで実行しない
①複雑な律法学者の教え
さて、今日の聖書の箇所ではエルサレムに入場された後に主イエスが群衆や弟子たちに教えた言葉が記録されています。ここで主イエスが取り上げているのは当時のエルサレムの宗教界を支配していた律法学者やファリサイ派と呼ばれる人たちの問題です。ここで登場する「律法学者」は文字通り聖書の教える律法を研究する専門家たちのことです。そしてこの律法学者の大半はファリサイ派という宗教グループに所属していました。なぜなら、このファリサイ派に対抗するもう一方のサドカイ派というグループは神殿で働く祭司たちによって構成されていて、彼らは聖書の律法に従って神殿で行われる祭儀に人々が参加することが大切であることを教えました。そしてこのサドカイ派に対してファリサイ派は聖書の教える律法を神殿でささげられる儀式だけではなく、日常の生活で実践することが大切だと教えたのです。
旧約聖書の教える律法の大半はイスラエルの民の先祖たちがまだ荒れ野をさまよう生活をしていたときに神から与えられたものです。やがてこの後、イスラエルの民は約束の地に入り、そこで定住生活を送るようになります。彼らの先祖たちは牛や羊を飼うような牧畜生活を生業にしていたのに対して、主イエスの時代のイスラエルの人々は農業に従事し、商売を行うなど、先祖たちとは違う様々な生活を行っていました。そこで問題となるのは、先祖たちに教えられた律法をその先祖たちとは違う生活を送っている自分たちはどのように守ればよいのかと言うことです。そこで登場するのが先ほどから取り上げられている「律法学者」たちの存在です。彼らは聖書の律法を研究して、今の時代の生活にその律法をどのように適応させるかを考え、また人々に教えたのです。そして時代を追うごとにこの律法学者たちの旧約の律法についての教えは細分化され、膨大なものとなって行ったのです。
主イエスが今日の箇所で「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」(4節)と律法学者やファリサイ派の人々を批判した原因はここにあると言えます。彼らは聖書の教える律法を、複雑で分かりにくいものに変えてしまったのです。私たちは前回の礼拝で主イエスが旧約の律法の要点を二つの掟にまとめたことを学びました(22章34〜40節)。この点でイエスの律法についての考え方は律法学者たちと違い、大変にシンプルであったことが分かるのです。
②言うだけで、実行しない
ここでの主イエスの律法学者やファリサイ派の人々への第一の批判は彼らは「言うだけで、実行しないからである」と言う言葉に要約されています。もちろん、当の律法学者やファリサイ派の人々がこの主イエスの言葉を聞いたなら、「何を言うのだ。自分たちこそ誰よりも熱心に律法を守って生きている」と語ったかも知れません。
しかし、彼らの犯した誤りはまさにこの「自分たちは律法を熱心に守っている」と言う彼らの持っていた誇りの中に隠されていました。なぜなら、彼らは自分たちと違い、律法を守ることができない人々を、厳しく批判して、軽蔑していたからです。主イエスの「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(4節)と言う言葉は彼らのそのような態度を指摘していると言うことができるのです。
この福音書を記したマタイはここに書かれた主イエスの言葉を律法学者やファリサイ派の人々に教えるために記したのはでありません。そうではなくてマタイは自分と信仰生活を一緒に送る教会の人々にこの主イエスの言葉を思い出すようにとこの言葉を残したのです。なぜなら、私たちも信仰生活の中で主イエスがここで問題にしているような過ちを私たちも犯しがちだからです。
以前にキリスト教倫理を教える先生からこんなお話を聞いたことがあります。今から自分の命を絶って自殺しようと考える人がいるとします。その人に「聖書は自殺を罪と禁じています。それがたとえ自分の命であっても神様からいただいたものを奪う人はすべて殺人者と言えからです」と教えたとします。するとその人は「それは知りませんでした」と言って自殺を止めることができるでしょうか…。たぶんそうはならないはずです。なぜなら、今から自殺しようとする人に必要なのは、自殺を禁止する聖書の教えを知ることではなく、その人が人生の苦難を乗り越えて生きることができる力と希望を得ることだからです。
一方聖書には律法学者やファリサイ派の人々から律法を守らない「罪人」と言われていた人々が主イエスの周りに集まったことが記録されています。彼らは決して律法を知らないわけではありません。彼らはそれを知った上で、「自分たちには律法を守る力がない」と苦しんでいたのです。だから主イエスはこのような人々を批判するのではなく、彼らに神の愛を伝えようとしたのです。人を批判することは簡単です。しかし、大切なのはその人たちが神の愛に気づき、再び力を得て、立ち上がることができるようすることです。だから主イエスはそのために私たちがお互いに助け、励まし合うことが大切なことを教えたのです。
3.人に見てもらうため
さて、主イエスが続いて律法学者やファリサイ派の人々の信仰生活について指摘する問題の第二は「そのすることは、すべて人に見せるためである」(5節)と言われている点です。
ここで「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」と言う言葉で語られている「聖句の入った小箱」は前回私たちが学んだ「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言うヘブライ語で書かれた聖句の紙が入っている小箱のことです。当時の人はこの小箱に紐が付けて、額や腕に巻き付けて使ったのです。また「衣服の房を長くしたりする」とは、その衣服を着ている人が特別な権威を持っていることを表すものと言えるでしょう。
以前、訪問したあるキリスト教主義の幼稚園では「誰も見ていなくても、神様は見ています」と言う標語が掲げられていました。この言葉を私が最初に見た時、多少びっくりしたのですが、今考えて見ると、とても大切な言葉だと思うようになりました。なぜなら私たちの信仰生活は人に見られるためではなく、神に見ていただくために送るものだと言えるからです。
私たちは普段、人が自分をどのように見ているかを気にして生きています。確かに人から自分の行いが評価されることはうれしいことに違いありません。先日、ラジオ伝道部から私のラジオで放送したメッセージに対するリスナーからの短い感想が届きました。私はその文章を読んで「わたしの作ったメッセージがこんな人にも聞かれているのだ…」と感じて、とても励まされました。しかし、私たちが人に評価されると言う目的で何かを行っているなら、もしそれが評価されなければ、役に立たない意味のないものとなってしまいます。しかし私たちの信仰生活で大切なのは「神様がそれをしなさいと願っておられることをすること」だと言えるのです。なぜなら私たちの人生は神がわたしたちを用いてくださるからこそ本当に価値があるものとなるからです。神は私たちのような小さな存在をその偉大な救いの計画の中で用いてくださる方なのです。だから、私たちは目先の人の評価にだけ振り回されるのではなく、神から与えられたそれぞれの使命を信仰生活で忠実に行っていくことが大切なのです。
4.どうして御言葉には権威があるのか
①その洗礼は有効か?
律法学者やファリサイ派の人が「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」は自分の権威を人々に示すためだったと言えます。彼らはそのようにして自分の持つ権威を人々に示して、自分の教えに従うようさせようとしたと言えるのです。主イエスはここで「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」(2〜3節)と教えました。彼らが教えた律法はモーセを通して神がイスラエルの民に与えてくださったものと言えます。だからその言葉は神の権威に基づいているのです。だからこそその言葉に従い、守ることは大切だと言えるのです。私たちはそれを教えた人が特別に信仰の深い人物だから、その人の言葉に従うのではありません。
ローマ時代に激しい迫害を受けた初期の教会では人々を指導する教会のリーダーがその迫害に耐えることができずに、信仰を捨ててしまうという出来事が起こりました。その時、教会で問題とされたことはそのようにして信仰を捨ててしまったリーダーたちがかつて教会で行った洗礼式は有効かどうかということでした。教会ではこのことについて激しい議論が交わされました。なぜなら、この問題で洗礼を受け直す必要があると考える人が現れたからです。この問題を取り扱った教会会議の結論は「洗礼式が神の言葉に基づいて執行されているならたとえその式を誰が行ったとしても有効である」というものでした。なぜなら、聖書の言葉に従って神の名のもとに執行された洗礼は神ご自身が授けてくださったものと考えることができるからです。だからこそ、教会にとって必要なのは人々から評価され人気がある特別な人物ではありません。神の言葉を教え、その言葉に忠実に従う信仰者こそが必要であると言えるのです。
②聖書の言葉と共に働いてくださる主イエス
どんなにすぐられた言葉でも、また知恵に満ちた言葉でも人の言葉には何の権威も力もありません。しかし、聖書が伝える神の言葉は違うのです。神の言葉には権威があり、その言葉には私たちを罪と死の呪いから解放する力があります。聖書はその神の言葉の権威の秘密について次のように語っています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章28〜30節)。
律法学者やファリサイ派の人々は人々に重い荷物を負わせるだけで指一本も貸そうとはしません。しかし、主イエスは違います。主は聖書の言葉に従う私たちと共に働いてくださると約束してくださるのです。そして実際に私たちの重荷を共に担ってくださる方であると言えます。まさに聖書の言葉の権威はここにあると言えるのです。神の言葉は私たちに知識だけを伝えるのではありません。その言葉を通して神ご自身が、そして私たちの主イエスが私たちの人生に共に働いてくださるのです。だからこそ、私たちはこの神の言葉を信頼して、権威ある神の言葉にへりくだって生きる信仰生活を送りたいと願うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の教えに対して人々にどのように対処すべきかを教えていますか(1〜3節)。
2.主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の行いについて大きく分けて二つの点を問題にしています。その二つの問題とはどのようなものですか(4〜5節)。
3.律法学者やファリサイ派の人々のように「人の見せるため」の信仰生活とはどのような目的を持っていると言えますか。一方で、私たちの信仰生活が「神に見ていただくため」のものであるとしたら、その目的は何にあると思いますか。
4.どうして主イエスは自分を「先生」と他人に呼ばせてはならないと教えられたのでしょうか(7〜10節)。