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2023.12.10「キリストの復活」 YouTube

コリントの信徒への手紙一15章12〜20節(新P.320)

13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。

14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。


ハイデルベルク信仰問答書

問45 キリストの「よみがえり」はわたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、ご自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。

第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。

第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。


1.復活の益

①神が提供してくださる「益」

 今日もハイデルベルク信仰問答からキリスト教の重要な教えについて学んで行きたいと思います。私たちが学んでいるこの信仰問答は宗教改革の時代にキリスト者が聖書に基づいて何を信じ、どのように生きているかを表す文書として作られました。この信仰問答にはいろいろな特徴があるのですが、その一つは今日の問答にも登場するように「益」という言葉を使って私たちの信仰を言い表している点です。

 日本でも神社仏閣に参拝しようとする人は、そこに何かの「ご利益」を求めてやって来ます。古くから八百万の神を信じる日本では、その神々の中にも分業体制が組まれていてそれぞれ違った「ご利益」をもたらすと信じられて来ました。そのせいなのかご利益の中には相矛盾するものが多く存在しています。たとえば人々に良縁の「ご利益」を提供するところもあれば、その反対に「縁切り」寺などと呼ばれるところもあります。多くの人は「健康、長寿」の「ご利益」を求めていますが、その一方で「ポックリ地蔵」などと言う場所も存在するのです。長患いをして人に迷惑をかけるより、むしろ簡単にこの世を去りたいという人の願いがそこにはあるのでしょう。

 聖書はただ一人の神だけがおられることを私たちに教えています。この点において、その神が私たち人間に提供してくださる「ご利益」にも矛盾するものはありません。そしてその神はご自分が創造された人間を責任を持って導かれようとされるのです。そのような意味で神が私たちに与えてくださる「益」は、「それがあれば自分の生活はもっとましになる」と言うような程度のものではなく、それが与えられなければ私たちの人生は成り立たない、私たちの人生にとって必要不可欠なものを言っていると考えてよいでしょう。


②私たちの人生とキリストの復活

 ハイデルベルク信仰問答は問45で「キリストの「よみがえり」はわたしたちにどのような益をもたらしますか」と言う質問を記しています。今日の部分はキリストの「よみがえり」、つまりキリストの復活と私たちの人生にはどのような関係があるのかということを語ろうとしていると考えることができるのです。

 「死んだ人間が生き返るなど古代人が作りだした妄想に過ぎない」。聖書の教える「復活」と言う出来事を聞いてそう考える人も多いと思います。しかし、今日のテキストとして選ばれているパウロの記したコリントの信徒への手紙の中でも、その当時の人々の中であっても復活を信じることができない人がいたと言うことが語られています。そのような意味でキリストの復活は人間の経験や知識では理解できない神の神秘であると言うことができます。しかし、このパウロの言葉の中でも「(復活がなければ)わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言われているように、キリストの復活なしのキリスト教信仰はあり得ないと語ることができるのです。

 ハイデルベルク信仰問答はキリストの復活という事実をここで論証しようとはしていません。おそらくどんなに人間の科学が進んだとしてもそれは不可能であると言えるでしょう。その点でこの信仰問答は私たちの人生にとって、キリストの復活が事実でなえればならない、それほどまでに私たちの存在とその出来事は深いつながりで結ばれていることを私たちに教えようとするのです。


2.私達を義とするために

①呪いから祝福へ

 まず信仰問答はキリストの復活が私たちにもたらす第一の益として「この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、ご自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ」と教えています。

 すべての人間が自分の力が無力であるということを痛切に感じるのは、私たちの人生に一度は必ず訪れる「死」と言う現実を前にするときです。どんなに医学が発達しても、人間の力はこの死という現実に勝利することはできません。しかし、私たちの主イエス・キリストだけはその死に勝利して復活されたと聖書は教えます。今日の聖書箇所に続くコリントの信徒への手紙15章の54から55節には「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と言うパウロの記した勝利の宣言が記されています。キリストが復活されることにより、私たち人間を支配していた死の力が打ち破られたことをこの宣言は語っているのです。

 もちろん、私たちの地上の死がもはや無くなってしまったと言う訳ではありません。しかし、キリストが死に勝利することにより人間の死に伴うすべての呪いが取り払われてしまったのです。つまり、私たちの地上の死は私たちを苦しめるためにではなく、ある意味では私たちに祝福を与えるものと変えられたのです。そのことについてハイデルベルク信仰問答はすでに問42で「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです」と説明して、死に勝利されたキリストによって私たちの死でさえも私たちに祝福をもたらすものとなったことを教えています。


②私たちを義とするための復活

 さらに信仰問答はキリストの復活を通して、キリストの義が私たちのものとなったと言うことをここで教えています。主イエス・キリストは十字架の死を通して私たちの罪を贖ってくださいました。ですから私たちはこの主の十字架の御業によって神の前に「義」、つまり義(ただし)い者とされるのです。しかし、どんなにキリストが私たちのために「義」を獲得されても、それが実際に私たちの者にならなければ意味がありません。

 クリスマス・プレゼントをどんなに心を込めて用意しても、実際にそのプレゼントを相手に渡さなければそのプレゼントには意味がありません。同じようにキリストが十字架で死んでしまっただけでは、そこで獲得された義を私たちは受け継ぐことができないのです。ですから、キリストは私たちのために準備した「義」を私たちに与えるために復活してくださったのです。

 キリストがその御業に得た恵みは無尽蔵で、尽きることがありません。そしてキリストはその無尽蔵の恵みを私たちに与え続けるために復活され、その後天に昇られました。キリストはそこから私たちのために日々、聖霊を遣わして、その恵みを与えて続けてくださるのです。まさにキリストの復活は私たちの生活を恵みで満ちたすために実現したと言うことがでるのです。


3.キリストの復活の命にあずかる

 さて信仰問答はキリストの復活が私たちに与える第二の「益」として「その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ」と語っています。聖書の中で弟ラザロの死を経験して悲しみに暮れる姉マルタに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と語っているところがあります。その言葉にマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えたるのですが、主イエスはその言葉を否定するようにこう語っているのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11章25〜26節)。

 この言葉は普通に読むと何を言っているのか分からなくなるかも知れません。「死んでも生きる」とか「決して死なない」と言う言葉が真実なら世界の人口は不死の命を持った人で爆発的に増加することになります。だから、ここで語られている「復活」とか「命」は私たちの肉体の命を語っているのではなく、霊的な命、つまり私たちと神との関係を語っていると考えたほうがよいでしょう。

 キリストが私たちに義を与えてくださることにより、断絶していた私たちと神との関係が回復されました。つまりこの神との関係によって私たちの霊的な命が甦ったのです。木の幹から切り取られた枝は、しばらくの間は青々とした葉をつけているかも知れませんが、やがては必ず枯れて行きます。木の枝はその幹にしっかりと連なっていなければ生きていくことはでないからです。人の命も同じです。神のとの関係が絶たれたままでは、私たちは生きていけず、必ず死ななければなりません。しかし、イエスの復活により私たちの命はしっかりと神と言う幹に連なることができるようになりました。そこから豊かな命を受けて私たちは生きることができるようになったのです(ヨハネ15章)。

 このように私たちの命はキリストの復活によって、神に連なる新たな命として甦ることができたと言うことができるのです。


4.わたしたちの復活の保証

①キリストの復活は初穂

 さて信仰問答はキリストの復活がもたらす第三の「益」として「わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である」と語っています。

 ここでは私たち自身がやがてイエス・キリストと同じように体を伴って復活するという祝福が語られています。かつてパウロがギリシャのアテネに赴いて、そこで哲学などを論じて日々を送っている人たちに聖書の教えを語ったことがありました。そのときギリシャの人々は最初、パウロの語る教えを「新しい教え」と考えて興味をもって耳を傾けていました。しかしその後、パウロが死者の復活について語り出すと途端に彼らは態度を変えてしまったと記録されています(使徒17章16〜34節)。ギリシャ人には「霊魂不滅」と言って、人が死んでもその魂はいつまでも残るという思想がありまし。しかし死者が体を持って再び甦るという思想が存在していなかったのです。これは日本人の宗教ともよく似ています、日本の宗教の多くも霊魂の不滅を教えます。ですから、そのためにたとえば先祖たちの霊を敬うことも教えるのです。しかしその死者が体を持って甦るという考え方は日本の宗教や思想の中にもありません。

 死者の復活、つまり私たちの霊魂が再び新しい体を得て甦るという考え方は聖書の教えに基づくものです。なぜなら、聖書は神によって人間が体と魂を持つ存在として造られたと語っているからです。ですから、聖書は私たちの上に神の救いが完全に実現する最後のときに、私たちも体を持って復活することを教えているのです。そして使徒パウロはこのキリストの復活と私たち自身の復活との関係を今日の聖書の箇所の最後のところでこう語っています。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。

 キリストの復活は「初穂」、つまり最初の実りであるとパウロは言っています。そして神はこのキリストに続いて私たちをもこの復活の恵みにあずからせようとしてくださっているのです。信仰問答はキリストが復活されたという事実こそが、私たちの復活も確かなものであると確信できる「保証」となると教えているのです。


②喜びを持って神からの恵みを受け取る

 このようにキリストの復活は私たちを神の義とし、私たちの霊的な命を甦らせ、やがて私たちも体をもって復活することができることを保証するものであると信仰問答は私たちに教えています。つまり、神はキリストの復活を通してこのようなすばらし恵みを私たちに与えてくださっていると語るのです。

 クリスマスが近づき皆さんも身近な人や日頃お世話になった人にプレゼントを準備しているかも知れません。そのときこちらの用意したプレゼントをうれしそうに相手が受け取ってくれると、自分も「ああ、よかった」とうれしくなります。ところがせっかくプレゼントを送っても特別な反応がなかったり、予想外の反応を示されることがあります。おそらく、その場合はこちらの準備したプレゼントが相手のほしいものではなかったと言うことを意味しているのかも知れません。だからこそプレゼントの準備をするときは、相手のことをよく理解してそれを準備することが大切です。

 しかし、神がイエス・キリストを通して私たちに与えてくださる恵みは私たちが友人に送るプレゼントとは違います。神は私たちに必要なものだけを与えてくださるのです。だから神からの恵みで一つとして私たちのためにならないものはないのです。

 私たちが最後に考えたいのは私たちにイエス・キリストを送ってくださった神は、その恵みを受け取る私たちに対してどのような反応を求めておられかと言うことです。神は私たちが喜んでその恵みを受け取ることを望んでおられるはずなのです。だからこそ私たちの信仰生活で大切なことは私たちに与えられた神からの恵みに目を向けることであり、その恵みに感謝することだと言えるのです。そのような意味で信仰問答はキリストの復活を通しても神は私たちに完璧な恵みをすでに与えてくださっていると教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.あなたもコリントの信徒への手紙15章のパウロの言葉を読んで見ましょう。この中でパウロは「キリストが復活しなかったら」私たちの信仰はどうなると言っていますか。

2.信仰問答はキリストが復活され、死に打ち勝たれたことを語っています。このことによって私たちの地上の死と言う現実、わたしたちにとってどのようなものとなりましたか(信仰問答問42参照)。

3.それでは信仰問答は私たちが神の前で義とされることとキリストの復活とはどのような関係があると教えていますか。

4.それではなぜ私たちはキリストの復活によって新しい命に生きかえることができるのでしょうか。

5.「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15章20節)と言うパウロの言葉からキリストの復活とやがて実現する私たちの復活の間にはどのような関係があることが分かりますか。

2023.12.10「キリストの復活」