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2023.12.17「光について証したヨハネ」 YouTube

ヨハネによる福音書1章6~8、19~28節(新P.163)

6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、

20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。

21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。

22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」

23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。

25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、

26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。

27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


1.神から遣わされた人

①暗闇の世界に住む者に与えられた喜び

 今日はアドベント、待降節の第三週目の礼拝をささげます。次週の日曜日は本来、待降節第四主日の礼拝をささげるはずなのですが、今年は次の日曜日がちょうど24日でクリスマス・イブの日になります。そこで私たちは次週の日曜日にクリスマス礼拝をささげることになります。

 クリスマスは今や世界の至るところで祝われる祭りとなりました。お隣の中国では宗教政策に厳しい政府がキリスト教会の活動を大幅に制限させようとしています。ですからこのクリスマスも厳しい取り締まりの対象になっていると聞いています。それでも、私がよく見る中国のインターネットストアーのホームページではクリスマス用品がたくさん販売されているのを目にします。しかしそのほとんどの商品にはイエス・キリストを指し示すようなものはありません。

 欧米のようなキリスト教国ではもちろんこのクリスマスは盛大に祝われるようです。以前、アメリカ人宣教師に聞いた話によれば欧米では24日のクリスマス・イブに教会の礼拝に出席して、次の25日には家族が家に集まって食事会のようなパーティーをするのが習慣だそうです。そういう習慣のせいなのでしょうか、欧米ではこの時期、一人暮らしの孤独な生活を送る人の自殺が多発すると聞きます。家族が集まるクリスマスの時期は孤独な生活を送る人にとって、耐え難い寂しさを最も深く感じるときだからでしょう。そのような意味で彼らにとってクリスマスは喜びの時ではなく、絶望のときとなってしまっているのかも知れません。しかし、聖書は本当のクリスマスは絶望に閉ざされた闇の世界に住む者に喜びをもたらすために実現したことを語っています。


②ひかりについて証するヨハネ

 今日の聖書の箇所の主役は皆さんもよく知る洗礼者ヨハネと言う人物です。福音書はこのヨハネが救い主の登場を準備するために人々の間に遣わされたことを教えています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(6~8節)。

 「ひかりについて証する」。それが洗礼者ヨハネに神が与えられた使命でした。人々がこれからやって来られる救い主を喜んで受け入れるために、ヨハネはその準備をさせるために遣わされた人物なのです。

 セールスマンは人々に商品を売るために、その商品がどんなに素晴らしいものなのかをアピールします。しかし、その商品がどんなに素晴らしものであったとしても、肝心の相手がその商品を必要としていなければ買ってもらうことはできません。そこで優れたセールスマンはその商品自身のすばらしさをアピールするだけではなく、相手にとってこの商品がどうして必要なのかを理解させることを心がけます。この商品を購入すれば、今の生活がどのように変化するのかを説明して、相手の購入意欲を引き出そうとするのです。

 それでは「光について証する」洗礼者ヨハネはいったい人々に何をしたのでしょうか。私たちはこのヨハネの証しから、クリスマスの主人公であるイエス・キリストが私たちの人生にとってなくてはならない存在であることを学びたいと思うのです。


2.ヨハネの証しを理解できない人々

①ファリサイ派から遣わされた人々

「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させた…」(19節)。

 ここでの洗礼者ヨハネの証しはそのヨハネのもとにエルサレムのユダヤ人たちから遣わされた「祭司やレビ人たち」による質問に答える形で始まっています。この「祭司やレビ人たち」はエルサレムの神殿でささげられている礼拝に奉仕する人たちです。興味深いのは本来、エルサレム神殿で働く祭司たちは「サドカイ派」と呼ばれる宗教グループに属している人が大半なのでしたが、彼らは違ったようです。なぜなら24節でわざわざ「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」と説明されているからです。

 このファリサイ派は当時のエルサレムでサドカイ派と並ぶ代表的な宗教グループで、彼らは神殿でささげる礼拝だけではなく、毎日の生活の中で神から与えられた律法、つまり神の戒めを守ることを強調しました。彼らはそれを守ることで自分たちの神への信仰を言い表そうとしたの人々でした。むしろ、その点でファリサイ派の人々はサドカイ派よりも当時の民衆に強い影響力を持っていたと考えられています。そして彼らは洗礼者ヨハネが当時人々の間で影響力を持つようになり、新たな勢力を形成し始めたことに警戒を抱いたからこそ、そのヨハネのもとに使いを送ってその正体を知ろうとしたと考えることができます。


②洗礼者ヨハネのそっけない答え

 「彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた」(20~21節)。

 「メシア」とはヘブライ語で「油注がれた者」と言う意味を持つ言葉です。この言葉がギリシャ語で翻訳されると「キリスト」になります。この言葉は当時、神から特別に遣わされる「救い主」を表す名称として用いられていました。また、次に登場するエリアは旧約聖書に現れる有名な預言者の一人です。洗礼者ヨハネが活動していた時代、エリアは救い主が登場する前に、再び神から遣わされると信じられていました。「預言者」も神からゆだねられたメッセージを人々に伝えるために神から遣わされた人物のことを指します。そして彼らのメッセージの中心もやはり「メシア」、「救い主」についてであったと言えるのです。つまり、洗礼者ヨハネに「あなたはだれか」と聞いた人々の関心は「メシア」、「救い主」にあったことが分かるのです。

 しかし、この質問に対するヨハネの答えはとてもそっけないものであるように思えます。なぜなら、彼はその質問のすべてに「ちがう」と言う言葉を繰り返すだけで、その理由を説明しようともしていないからです。洗礼者ヨハネの答えがこれほど不親切に聞こえるのはこのとき洗礼者ヨハネに質問をした人々や、彼らをここに遣わしたファリサイ派の人々が救い主を本当に待ち望んでいたとは考えることができなかったからではないでしょうか。なぜなら彼らは自分たちが抱いている期待に答えてくれる「救い主」には関心がありましたが、本当の意味で「救い主」とはどのような方で、何をするために神から遣わされる方かについては全く関心を持っていなかったからです。

 クリスマスを待ち望む私たちにとって大切なのは、すべての先入観を捨てて、神から私たちのために遣わされた救い主がどのような方であるのかを聖書の言葉を通して理解することであると言えます。この物語に登場するファリサイ派の人々は聖書の中に何度も登場し、救い主イエスと対立し続けた人々として紹介されています。彼らの関心は、洗礼者ヨハネはもちろんのこと、ヨハネが指し示す救い主が自分たちに利用できる存在なのかを知ることだったのです。だから、彼らはこの後に洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕らえられても、何の抗議の声も上げずに彼を助けようとはしませんでした。そして救い主イエスに関してはむしろ自分たちに邪魔な存在として、彼を捕らえて十字架に掛けて殺してしまうと言うことをしたのです。このすべての原因は彼らが勝手に抱いた救い主に対する期待と現実のイエスが違う存在であったこと、つまり彼らの救い主に関する先入観が問題であったと言えるのです。そのような意味で、洗礼者ヨハネはむしろ、私たちが勝手にもっているすべての先入観を捨てて、救い主を待ち望むようにさせようとしたと考えることができます。


3.荒れ野の声

①ヨハネの活動の拠点「荒れ野」

 このように質問者たちの関心にそっけない態度で答えた洗礼者ヨハネでしたが最後に彼らが困ってしまって「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」(22節)とヨハネに語っています。すると洗礼者ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(23節)と初めて自分の素性を語ったのです。この言葉は旧約聖書のイザヤ書40章からの引用でこの礼拝の最初の招きの言葉でも読まれた箇所です。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(3~4節)。

 興味深いのはイザヤ書では「呼びかける声」が語る内容として「主のために、荒れ野に道を備え(よ)」と語りますが。ヨハネは自分自身をここで「荒れ野で叫ぶ声」と呼んでいます。28節で「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」と記されています。このベタニアは聖書地図で確認すると分かりますが死の湖とされる死海に流れ込むヨルダン川の東側にあった町のようです。他の福音書でも洗礼者ヨハネの活動の場所は「荒れ野」(マルコ1章4節)と呼ばれています。この荒れ野は荒涼とした風景が広がっている場所です。

 通常何かを人々に知らせたいことがあるなら、人々が多く集まる場所に行ってそのメッセージを伝えることが大切になります。当時であればそれはエルサレムの都であり、その中心に建てられていた神殿が最適な場所と言えるのです。それに対して荒れ野は通常であれば人が足を踏み入れない場所であり、人々にメッセージを伝えるためにはかえって不都合な場所であると言えます。この荒れ野を洗礼者ヨハネがわざわざ自分の活動の場所に選んだ理由は、彼が伝えたかったメッセージと深く関わっていると考えることができます。


②本当の自分と向き合う場所である「荒れ野」

 聖書においてこの荒れ野が登場する代表的な箇所は、まず旧約聖書の出エジプト記に記されるモーセと彼に導かれたイスラエルの民の物語です。このとき神はエジプトで奴隷状態となり苦しんでいたイスラエルの民を救い出すためにモーセと言う人物を遣わされました。神はモーセを通してイスラエルの民を導き、約束の地カナンに向かわせようとしたのです。ところが、イスラエルの民は簡単に約束の地に到着した訳ではありませんでした。彼らは約束の地に入るまでになんと40年間の間、荒れ野を旅し続けなければならなかったのです。この荒れ野でイスラエルの民は様々な試練を経験します。そしてその経験を経ることで彼らは神と向き合い、自分たちを生かすことができる方こそ、神であることを知る必要があったのです。

 また、この荒れ野は新約聖書の物語にも登場します。それは救い主として活動を始められたイエスがまず最初に導かれた場所でした。そしてイエスはそこで悪魔からの誘惑を受けられたのです。このイエスの荒れ野の試練でも、私たちの人生にとって必要なことは神を信頼し、その神に従うことであることが明らかにされています(マタイ4章1~11節)。

 このように荒れ野は本来、自分を守るために何の手段も持たない私たちが、その自分と向き合い、神との関係こそが私たちを生かすことを知ることができる場所だと言えるのです。ですから洗礼者ヨハネはそのような意味で、私たちに本当の自分自身の姿と向き合うことを勧めるために、私たちを荒れ野に導こうとするのです。


➂暗闇の中で輝く光

 このヨハネは荒れ野に集まる人々に水で洗礼を授けました(26、28節)。この洗礼もまた、自分を見つめ直して、その自分の罪と真摯に向かう人々に授けられたものであると言えます。そして神の背を向け、また神なしに生きようとする自分の人生には希望はないことを認め、その神に立ち返ることを決意した者たちに、洗礼者ヨハネは洗礼を授けたのです。このような意味で洗礼者ヨハネはまず、私たちを荒れ野に導き、神なしに生きている私たちがどんなに希望のない、闇の世界に生きている者であるかを自覚させようとするのです。

 洗礼者ヨハネは「光について証しをするため」に神から遣わされた人でした。だからこそこの任務に忠実だったヨハネは私たちが真の救い主と出会うために、私たちをまず荒れ野に導こうとするのです。それは神無しに生きる私たちの人生がどんなに深い闇に閉ざされているかを知らせるためです。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1章5節)と語られています。しかし多くの人はこの暗闇の中に自分自身がいることに気づいていません。だから聖書は「暗闇は光を理解しなかった」(同節)と言うのです。しかし、洗礼者ヨハネに導かれて、自分の人生がこの闇に閉ざされていたことを改めて知る者には、光としてやって来られた救い主の素晴らしさが分かり、またその救い主を自分の救い主として受け入れることができるようになるのです。

 このような意味で私たちがクリスマスの喜びを知るためには、まず荒れ野の洗礼者ヨハネのもとに行き、彼が指し示した光である救い主が私の人生の闇を照らし、私たちを救い出すために来られた方であることを知る必要があることを今日の聖書の言葉は私たちに教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネをどのような人だと紹介していますか。神はすべての人が彼を通してどうなることを願われていますか(6~8節)。

2.この洗礼者ヨハネのもとにエルサレムのユダヤ人から遣わされた人たちはどのような人たちでしたか。彼らはヨハネにどのような質問をしましたか(19~22節)。この質問から彼らがヨハネに対してどのような関心を持っていたことが分かりますか。

3.先生者ヨハネは自分を誰だと紹介していますか(23節)。

4.洗礼者ヨハネの授けていた洗礼について興味を抱いた人々に彼は何と答えましたか(25~27節)。

2023.12.17「光について証したヨハネ」