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2023.12.24「クリスマスの奇跡」 YouTube

ヨハネによる福音書1章14~18節(新P.163)

14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


1.太陽の神からイエス・キリストへ

 今日は12月24日、クリスマスイブです。教会のカレンダーではこの日曜日はまだクリスマスを待つ待降節第四主日となっています。ところがキリスト教国ではない日本のような国ではクリスマスはお休みの日にはなりません。ですから、日本の教会ではクリスマスに一番近い日曜日の朝にクリスマス礼拝をささげる習慣を持っているのです。そこで私たちはこの朝のクリスマス礼拝で五本のクリスマスキャンドルの四本目に火を灯し、本日の夕方からささげられるクリスマスキャンドル礼拝では最後の五本目のろうそくに火を灯そうと計画しています。

 私はこのクリスマスの時期に何度もお話しするのですが、クリスマスを12月25日にお祝いするのは必ずしも世界共通のことではありません。たとえば、日本にも御茶ノ水の駅前に立派な教会堂が立てられていますが、「正教会」と呼ばれる教派に属する国々の人々は「グレゴリオ暦」という違ったカレンダーを使います。それで正教会に属するロシアの教会などではクリスマスは1月に入ってから行われるのです。(御茶ノ水のニコライ堂では12月を「新暦降誕祭」として祝い、正教会の伝統に従って1月にも降誕祭を行っているようです)。

 クリスマスを12月25日に祝うのはローマ・カトリック教会やそこから宗教改革の時代に分裂して成立した私たちプロテスタント教会などです。おそらく誕生日がいくつもあるという人はいないはずです。それなのになぜクリスマスの日が一つではないのかと言う理由は、実際にイエス・キリストがお生まれになった日が分かっていないからです。聖書にはイエス・キリストの誕生の次第が紹介されていますが、その誕生はローマ皇帝が全領土に住む人々に住民登録をするようにと勅令を出した年であるということだけは分かっています(ルカ2章1節)。ところが情報はそれだけで、イエス・キリストが何月何日に生まれたのかという記述は聖書のどこを探しても書いていないのです。

 このクリスマスの歴史を調べると12月25日にローマでイエス・キリストの誕生をお祝いするようになったのは紀元4世紀頃になってからだと考えられています。実はこの時期はローマ帝国がキリスト教を公認した時期と重なっています。それまでローマ帝国はキリスト教を迫害し、聖書の教える神ではない異教の神々を拝んでいました。その中でもローマでは12月25日に太陽の神のための祭りが祝われていたようです。なぜなら、この時期はちょうど「冬至」で、夜と昼の時間が逆転するときだからです。ローマでは昔からこの暗闇と光のバランスが逆転する時期に太陽の祭りを行っていたと言うのです。そしてローマ帝国がキリスト教を公認した時期にこの太陽の祭りを祝う12月25日がイエス・キリストの誕生をお祝いする日に変わったと考えられているのです。


2.神が人となられた

①「言」であり光であるイエス・キリスト

 私たちにイエス・キリストについて教えるために「福音書」と言う書物を記したヨハネと言う人物は、その福音書で次のような言葉を記して私たちにイエス・キリストを紹介し始めています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1~4節)。

 ここでヨハネはイエス・キリストを「言」という単語で私たちに紹介しています。そしてその「言」は「人間を照らす光」、「暗闇の中で輝いている光」であるとも紹介しているのです。一方で聖書は別の箇所で、私たちを照らし続ける太陽の光がその光を失う日がやって来ることを予言しています(マタイ24章20節)。しかし、いつかは光を失う太陽とは違って光として紹介されるイエス・キリストは永遠の存在であることを聖書は教えているのです。まさにイエス・キリストこそ暗闇を照らし続ける真の光としてこの地上に来てくださった方だと言えます。ローマの人々はそのような意味でこのクリスマスを12月25日にお祝いしようとしたのだと考えることができるのです。それでは光であるイエス・キリストはどのような意味で私たちの人生に関わり、私たちの人生をその光で照らしてくださるのでしょうか。


②神の子が人となってこの世に来てくださった

 先ほど紹介したヨハネによる福音書の冒頭の文章は実は旧約聖書の創世記の最初の言葉に習って書かれていると考えられています。なぜなら旧約聖書の創世記の言葉は次のように始まっているからです。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(1章1~3節)。

 この文章も「初め」と言う言葉で始まっています。そしてここには世界が神の「言」によって創造されたことが記されています。またその創造によってはじめて造られたものが「光」であったとも紹介されています。おそらくヨハネはこの創世記の言葉を使って、世界を創り出した神の「言」こそイエス・キリストであると説明しているのです。そしてそのキリストは私たちの世界に「光」をもたらすためにやって来てくださった方だとも語っているのです。ヨハネはこの後で次のように語っています。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章14節)。

 ヨハネは他の福音書のようにクリスマスの物語を詳しく記していません。その代わり、世界を創造された「言」であるイエス・キリストが「肉」、つまり私たちと同じ人間になって、この世に来てくださったことを簡潔に書き記しているのです。ここには世界を創造した神の御子が私たちと同じ人間となられてこの世界に来てくださったと言うクリスマスの奇跡が記されているのです。


3.なぜ神が人となられたのか

 それではなぜすべてのものを創造された神の子が私たちと同じ人間となって、私たちの住む世界に来てくださったのでしょうか。私たち改革派教会が聖書について何を信じているのかを言い表している文書に「ウエストミスター小教理問答書」と言うものがあります。その信仰問答の問27で次のような説明が記されています。

「問27 キリストの謙卑(けんぴ)はどの点にありますか。 答 キリストの謙卑は、かれが生まれられたこと、それも低い状態であられたこと、律法の下に置かれたこと、この世の悲惨と神の怒りと十字架の呪われた死を忍ばれたこと、そして葬られたこと、しばらくの間死の力の下にとどまられたことにあります。」

 ここに「謙卑」と言うあまり私たちには聞きなれない言葉が記されていますが、この言葉の意味は使徒パウロの記したフィリピの信徒への手紙2章に次のように書かれています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6~7節)。

 この信仰問答が語るのは神から離れてしまった私たち人間を、神の怒りから救い出すために、キリストが私たちと同じ人となられたこと、そして十字架の死を通して私たちに代わって呪われる者となって死んでくださったと言うことです。つまりキリストは罪によって神の厳しい裁きを受けるべき私たちに代わって十字架で死んでくださることで、私たちを神の裁きから救い出し、またすべての呪いから解放してくださったのだと言うのです。

 聖書は神から離れてしまっている私たち人間の罪を鋭く告発しています。神から離れてしまった罪人である人間は必ず厳しい罰を神から受けなければなりません。そしてその罪人の人生は呪われてしまっていると教えるのです。しかし、神の子であるイエス・キリストは私たちと同じ人となられることで私たちを救い出してくださったので、そしてこのキリストによって私たちは呪われるべき存在から、神の祝福を受けることのできる存在に変えられたのです。


4.神の御業があらわされるための人生

 同じヨハネによる福音書が伝える物語の中に、生まれつき目が見えない人が登場するお話があります(ヨハネ9章)。ある日、主イエスと弟子たちがエルサレムの街角を歩いているとそこで物乞いをしている生まれつき目の見えない人に出会いました。当時は障がい者を保護するような制度などはどこにもありません。そのため彼は人に憐れみを乞うてわずかな金銭を得る物乞いのような生活をせざるを得なかったのです。それだけでも厳しい人生を送っているこの人物にはさらに彼を苦しめる問題がありました。それは人々が彼を見る目です。

 当時の人は人間の生活に何か不幸が起こるとそれは神の裁きの結果だと考えていました。その人が犯した罪はどんなに人の目にはうまく隠せても、神には隠すことができないと信じていたからです。だからその神の罰として不幸な出来事が起こるのだと考えたのです。そしてこの見方はこの生まれつき目の見えない人に対する人々の見方にも反映されていたのです。

 聖書では当時の人々の常識的判断に基づいて、主イエスの弟子たちが主イエスに向かって次のような質問をしているところがあります。

「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9章2節)。

 弟子たちは「誰の犯した罪が原因でこの人は呪われた人生を送らなければならないのか」と主イエスに対して質問したのです。しかし、この質問に対する主イエスの答えは誰もが予想もしない意外なものでした。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)。

 主イエスはこの生まれつき目の見えない人の人生を「不幸で、呪われた人生」とは見ていません。どうしてでしょうか。それは主イエスが私たちと同じ人となってくださり、私たちの犯した罪の責任を引き受けて十字架にかかってくださる方だからです。この主イエスが私たちに代わって十字架で呪われることで、私たちをすべての呪いから解放してくださるのです。だから主イエスはこの素晴らしい救いの事実に基づいてこの生まれつき目の見えない人の人生を見てくださったのです。この人の目が見えないのはこの人を不幸にするためのものではなく、この人を神の祝福へと導くためだと教えてくださったのです。

 この物語はこの目に見えない人と主イエスとが出会い、この人が主イエスを自分の救い主として受け入れることで新しい人生が始まったことを続けて語っています。このようにして暗闇に閉ざされていたような彼の人生に主イエスによって光がもたらされたのです。


4.暗闇を照らす光

①キリストによって万事は益となる

 このように主イエスが私たちと同じ人となってくださったのは、私たちを救い出すためです。ですから、この主イエスを救い主と信じて、その救いにあずかるものは神の厳しい裁きからも、またその結果である呪いからも解放されていると言えるのです。

 確かに私たちの人生には私たちが期待していたような出来事だけが起こるわけではありません。むしろ、私たちを苦しめ、私たちを絶望に追いやるような出来事も起こるのです。しかし、たとえそのような出来事が起こったとしても、私たちはそれが私たちを罰するための神の裁きの結果ではないと信じることができるのです。

 使徒パウロは私たちの人生に起こる様々な出来事をどのように見る必要があるかについて、次のような秘訣を私たちに教えています。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)。

 私たちはたちの人生に私たちに不都合な出来事が起こり、暗闇に閉ざされているのではないかと思えるときにも、私たちの人生に私たちのために役に立たないようなことは何一つ起こらないと信じていいとパウロは教えているのです。それではなぜ、パウロは私たちにこのように教えることができたのでしょうか。それはすでにキリストが人となられて、私たちの罪のために裁きを受け、十字架で呪われた者として死んでくださったからです。だからキリストに救われた私たちの人生には私たちのためにならないことは何一つ起こらないと言えるのです。このように、キリストは私たちの人生に光をもたらすために人となってこの世界に来てくださった方なのです。


②主こそわが光

 このクリスマスの出来事は、それが実現する遥か以前から神に遣わされた預言者たちによって伝えられて来ました。その預言者の一人にミカと言う人がいます。このミカは救い主がベツレヘムと言う町で生まれることを予言し、事実その通りにイエス・キリストはこの町で生まれたことが福音書にも報告されています(マタイ2章5~6節)。そのミカは次のような言葉を記しています。

「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」(ミカ7章8節)。

 たとえその人生で理由も分からないような不幸な出来事に遭遇し、人々が「あの人は呪われている」と言ったとしても、神を信じる者はそんなことで絶望することはないとミカは大胆に語っているのです。たとえ今、私たちがどんな暗闇の中にいたとしても、真の光であるイエス・キリストは私たちと共におられるからです。このミカの預言の通り、イエス・キリストは私たちの人生を照らし、私たちを神の祝福に導くために、私たちと同じ人間となってこの地上に来てくださったのです。だからこそ、私たちはこの救い主の誕生をこのクリスマスの日に祝うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネによる福音書はイエス・キリストの正体についてどんな言葉を使って、私たちに紹介していますか(1~5節)。

2.そのヨハネはイエス・キリストの誕生についてどのような簡潔な言葉を使って私たちに説明していますか(14節)。

3.使徒パウロは神の子であるイエス・キリストが私たちと同じ人となられたこと(キリストの謙卑)についてフィリピの信徒への手紙の中でどのように語っていますか(2章6~8節)。

4.あなたはイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを本当にお祝いするためには自分はどうしたらよいと思いますか。

2023.12.24「クリスマスの奇跡」