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2023.12.3「その日、その時」 YouTube

マルコによる福音書13章33〜37節(新P.90)

33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。

34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。

35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。

36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


1.待つことの大切さ

①クリスマスの本当の意味

 古い小話ですが、クリスマスの夜に同僚たちとのパーティーに参加して酔っ払っている男性がクリスマスソングを鼻歌で歌いながら家路に着こうとしていました。男性はその帰り道の途中で街角から聞こえてくるクリスマスソングの歌声が聞こえて来るのに気付きます。男性は好奇心からその歌声の聞こえて来るほうに足を進めました。すると一軒の大きな建物の前で男性は立ち止まりました。どうやらクリスマスの歌声はその建物から聞こえてくるようです。男性がその建物の入り口の看板を見るとキリスト教会と書かれていて、その横には「クリスマス礼拝開催中」とも書かれていました。そしてその看板を見た男性はこうつぶやいたと言うのです。「何だ、教会でもクリスマスをやるのか…」。

 この季節になると日本中でクリスマスと言う言葉が飛び交います。クリスマスセールやクリスマスケーキ、ディズニーランドのクリスマスイベントと様々なところでクリスマスと言う名称が使われています。先ほどの小話はずっと昔の日本の光景を伝えているようですが、このお話の最後のセリフは今の日本でも十分に通用するのではないでしょうか。

 私たち日本人の多くはクリスマスが何のお祝いなのかを知りません。確かに「クリスマスがイエス・キリストの誕生をお祝いする祭りである」と言うことを知っている人もいます。ところが、その人たちでさえもクリスマスの本当の意味を知る人は少ないはずです。私たち日本人「同調性」と言うことを大切にしています。つまり、「みんながやっていることは自分もすることが大切だ」と考えるのです。そんな日本人の特性も相まって非キリスト教国である日本でもクリスマスは大いに祝われるのですが、その本当の意味を知る人は少ないのです。

 クリスマスはキリスト教会が作り出してお祭りであると言えます。不思議なことに聖書はイエス・キリストの正式な誕生の日付を記録していません。しかし、キリスト教会にとっては神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来てくださったクリスマスは大切な日と考えられたのです。なぜなら、この御子イエスが地上に来てくださったからこそ、私たちの救いは実現したからです。だからこそ教会はこの救いの喜びを表すために、クリスマスと言うお祭りをお祝いすることにしたのです。

 多くのキリスト国ではこのクリスマスを12月25日にお祝いされています。それはローマの暦でこの日が「冬至」となり、この日を境に夜と昼の時間の長さが逆転するからです。御子イエスの誕生によって世を照らす真の光がやって来られました。御子イエスは私たちを闇の世界から光の世界に導く救い主であることを表すために古代の教会の人々は12月25日にクリスマスをお祝いするようになったと伝えられています。

 ですから、クリスマスをお祝いする私たちにとって大切なのは、このイエス・キリストを通して私たちが救いにあずかることができたという事実を確認することです。そしてそのクリスマスの喜びをまだ知らない人たちに伝え、彼らが私たちと共にクリスマスを喜びを持って迎えることができるようにすることが私たちに与えられた使命であると言うことができるのです。


②神の約束

 さて、キリスト教会は古来よりこのクリスマスをお祝いするために、クリスマスの日の四週間前から「待降節」、「アドベント」と呼ばれる期間を設け、私たちにクリスマスの準備をするようにと求めて来ました。すでに私たちの教会でもクリスマスの飾りが取り付けられています。しかし、私たちに求められている準備は実はこのような飾りつけのことではありません。教会暦はこの待降節の期間中に私たちが信仰の準備をすることを求めているのです。ですから、どんなに教会や家がクリスマスの飾りつけで溢れていても、私たちの心が救い主イエスに向かっていなかったとしたら、それは本当のクリスマスをお祝いすることにはならないのです。そのような意味で教会暦はこの待降節の期間に私たちが信仰の準備をすることができるようにと特別な聖書箇所を選び、私たちをクリスマスの喜びへと導こうとしていると言えます。

 そしてこの待降節第一主日で選ばれているのはマルコによる福音書が記した主イエス・キリストの語られた終わりの日、終末についての教えの言葉です。それではなぜ、教会暦はクリスマスにこのような終末のメッセージを読むことを勧めているのでしょうか。それはこの待降節の意味に関係しています。なぜなら、待降節は先ほどから語っているようにクリスマスをお祝いするための準備の時であるとともに、2000年前に私たちのために救いの御業を成し遂げて天に昇られた主イエスがもう一度、この地上にやって来て下さる再臨のときを待ち、その日に備えると言う意味を持っているからです。

 今から二千年前に神は聖書に伝えられた約束の通りに救い主イエスをこの地上に遣わしてくださいました。そしてその聖書が私たちにさらに約束していることは、天に昇られた主イエスが私たちの住む地上に再び戻って来てくださると言う「再臨」の出来事です。

 聖書は主イエス・キリストの誕生を伝えるお話の中で、羊飼いたちや東の国からやって来た占星術の学者たちを登場させています。このように本当のクリスマスの出来事を心からお祝いすることができた人はわずかでしかなかったことを聖書は紹介しているのです。しかし、クリスマスの約束は聖書を通してイスラエルの民に長い間に渡って伝えられて来たことでした。それなのに彼らのほとんどはこのクリスマスの出来事に気づくことがなかったと言うのです。それはどうしてなのでしょうか。


2.目覚めていることの大切さ

①待つことのを忘れた人々

 どうしてイスラエルの民は救い主が来られると言う神の約束を、聖書を通して伝えられていたのに、その肝心のクリスマスの出来事に気づかなかったのでしょうか。その原因は彼らが神の約束を信じて待つという大切な使命を何時の間にか忘れてしまっていたからです。

 皆さんは待つことが得意でしょうか。私はとても苦手です。カップラーメンができる3分間さえ待てずに、何度も時計を見直すといことを繰り返しています。残念ながらイスラエルの民は神の約束が与えられていても、それを待つことができなかったのです。そして、彼らの関心は神の約束から、どんどん遠ざかってしまっていたのです。東の国からエルサレムにやって来た占星術の学者たちが救い主として生まれた「ユダヤ人の王」を捜しているのを知ったとき、エルサレムの住民は喜んだのではありませんでした。そうではなく彼らは「不安を抱いた」と記されています(マタイ2章1〜12節)。なぜなら、彼らにとっては現実に自分たちを支配しているヘロデ王の存在の方が大切だったからです。ヘロデの行動次第では自分たちの生活が危機を迎えると彼らは考えたからこそ、恐れることしかできなかったのです。

 もちろん待つということは、私たちが何もしないでじっとしていることを意味するのではありません。童謡の「待ちぼうけ」では、偶然に自分のきび畑の木の根っこに躓いたウサギを捕まえたことから、その日以来、畑仕事は休んで再びウサギがやって来てるのを待ちました。その結果、彼の畑は最後には雑草が生い茂る荒れ地になってしまうのです。

 聖書が教える「待つ」と言うことは決して何もしないで待つと言うことを意味しているのではありません。だから今日の聖書箇所は待つことを「目を覚している」と言う言葉に変えて、その意味を私たちに教えようとしているのです。


②主イエスの語られた「小黙示録」

 私たちはこの「目を覚ます」と言う聖書の語る神の約束を待つ姿勢を理解するために、この主イエスの言葉がどのような状況で語られていたのかを知る必要があります。実はこのマルコによる福音書13章は昔から「小黙示録」と言う呼び名で呼ばれるように、主イエスが語った終わりの日に関するいくつかの短いお話を収録しています。そしてそのきっかけとなる出来事が13章の最初に記されています。

 このとき主イエスとその弟子たちの一行はエルサレムの町にやって来ていました。その時イエスの弟子たちはエルサレムの町の中心にたつ神殿を見て「先生、御覧ください。なんとすばらし石、なんとすばらしい建物なのでしょう」(1節)と感嘆の声を上げたのです。ところが主イエスはこの声を上げた弟子たちにすぐに「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)とエルサレム神殿の崩壊の預言を語ったのです。するとこの言葉を聞いた弟子たちは慌てふためきます。エルサレムの神殿はユダヤ人たちにとって神の住まいと考えられていた大切な場所です。ですから「その神殿が壊されるとしたらそれはもうこの世の終わりに違いない」と弟子たちは考えたのです。そして主イエスに「そのことはいついつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)と質問をしました。そしてこの質問に答える形で語られたお話が13章に収められているお話で、その結論が今日の聖書箇所の主イエスの言葉となっているのです。

 実はよく読んで見るとこの13章でイエスは世の終わりについて詳しく語っているのではありません。なぜなら、今日の聖書箇所の直前の32節の言葉にあるように「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と主イエスは答えておられるからです。その点でこの13章は世の終わりを前にしてこの地上に起こる様々な混乱を語っていると言えます。その時、戦争や天変地異、そして地上の秩序の崩壊、さらには信仰者への厳しい迫害が起こります。そしてさらに偽キリストや偽預言者たちの出現によって、地上の混乱はさらに深刻となって来るのです。ですから、主イエスが語る「目を覚ましていなさい」と言う言葉は、私たちがこの地上の混乱に巻き込まれることなく、ある意味で冷静になって生きて行くことを勧めていると言えます。

 ここ数年続いたコロナウイルスの脅威は今、少しずつ収まりつつあるように見えます。しかし、聖書の言葉に従えば世の終わりに至るまでこの地上の混乱は終わることがないと言えるのです。だから主イエスはそのような混乱の中にあっても、その混乱に巻き込まれることのないように私たちに「目を覚ましていないさい」と教えていると言えるのです。


3.救いの実現を待ち、門番としての使命を果たす

①その日は私たちにとって希望のとき

 私たちが「目を覚ましている」ために大切なことはどんなことなのでしょうか。主イエスは次のように教えています。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)。

 主イエスは今から二千年前にこの地上に来られて救い主としての使命を全うされた後、天に昇られました。そしてそのイエスはやがて再び私たちのところに来てくださると聖書は約束しています。主イエスは旅に出た人が必ずその家に帰ってくるのと同じように、私たちのところに必ず帰って来てくださるのです。それでは主イエスは何のために私たちのところに帰って来られるのでしょうか。私たちにとって世の終わりと言う出来事はどのような意味があるのでしょうか。ヨハネの黙示録は次のような言葉を語っています。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21章3〜4節)。

 この黙示録の言葉が語るように主イエスは私たちに与えてくださった救いを完成させるために世の終わりのときにやって来られるのです。そのような意味で信仰者にとって主イエスが再臨される終わりの日は希望の日であると言うことができます。そしてこのことを知る信仰者はたとえ地上の混乱が深刻なものとなって行っても、むしろ私たちの救いの完成の時が近づいていることを知り、その日を希望を持って待つことができるのです。このような意味で「目を覚ましている」と言うことは、聖書の約束に基づいて私たちの救いの完成の時が近づいていることを信じ、その日を希望を持って待つこと勧めていると言えるのです。


②神を礼拝して門番としての使命を果たす

 また、主イエスはこの箇所で旅に出る人がその留守の間に僕たちに仕事を与えて、その責任を任せたことを教えています。そしてその僕の中でも門番には特別の使命が与えられていることを語っています。ですから「目を覚ましている」と言う言葉は、神の約束を待つ私たちが何もしないでその約束が実現することを待つと言うことを教えるのではなく、それぞれが神に委ねられた使命を忠実に行っていくと言うことが大切であることを教えているのです。私たちはそのことについて少し間にマタイによる福音書が伝えた「タラントン」のたとえから学ぶことができました。ですから私たちは神に委ねられている私たちの命を、また大切な人生の時間を、そして様々な賜物を神のために決して無駄にすることなく、忠実に使っていくことが大切であると言えるのです。

 さらに主イエスがここで語っているように私たちの教会には神から門番としての使命が与えられていると言うことができます。世の混乱の中にあっても、いつもキリストの福音を証し、希望の日が必ず訪れることを知らせるのがこの門番の使命です。ときどき、「わたしは礼拝に出席することくらいしかできません。他は何もできないんです」と謙遜に言われる人の言葉を聞きます。しかし、この言葉はある意味で大変な誤解を語っています。なぜなら、私たちの人生の最大の目的は神を賛美して生きること、礼拝をささげることだからです。だから私たちはこの世の混乱の中にあっても神を礼拝すると言う使命を忘れてはならないのです。なぜなら、私たちが礼拝を何よりも大切にすることによってすべての希望が、主イエス・キリストにあることを私たちは世に証することができるからです。だから私たちはこの門番の使命をこれからも世の終わりに至るまで忠実に果たしていくことが大切であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスは終わりの日がいつやって来るかという弟子たちの質問に何と答えましたか(32節、参照4節)。

2.終わりの日がいつ来るか分からない私たちがすべきことについてイエスは何と教えておられますか(33節)。

3.主イエスの「目を覚ましていなさい」と言う奨めは、再臨の主イエスが来られることをどのように待つことが大切であることを教えていますか(34〜37節)

2023.12.3「その日、その時」