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2023.12.31「人生の完成」 YouTube

ルカによる福音書2章22~40節(新P.103)

22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。

24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。

26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた

27 シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

31 これは万民のために整えてくださった救いで、

32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」

33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。

34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、

37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、

38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。

40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。


1.救い主の使命

 今日は2023年の最後の礼拝です。教会暦ではクリスマスの次の日曜日には主イエスとその母マリア、そして養父のヨセフの家族が登場する物語を毎年読むことに定められています。今年の箇所は、主イエスの誕生から40日後にマリアとヨセフがエルサレムの神殿で礼拝をささげたときのお話が取り上げられています。まず、最初の箇所でこのときの一家の行動が語られていますが、そのすべてはこの一家が忠実に神の定められた掟に従ったと言う姿です。ここで言われている「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは男の子を産んだ母親はその後40日間の「清めの期間」を経なければ神殿に入ることができないという掟です(レビ記12章)。そして「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(22節)と言う意味は次の23節に理由が記されています。「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである」。この掟の詳しい事情は旧約聖書の出エジプト記の13章に記されています。

 イスラエルの民がまだエジプトの地で奴隷として扱われていた時代に起こった十の災いの出来事の内の最後の「初子の死」と言う出来事がこの掟と深い関りを持っています。当時、神はイスラエルの民を自由にさせることを拒み続けるエジプトの王のためにその地に様々な災いを下されました。そして最後にはエジプト中の人はもちろんのことその家畜に至るまで、すべての「初子」の命を奪うという災いを下されたのです。そのとき、神の指示通りに子羊の血を門柱に塗ったイスラエルの家だけはこの災いが及ぶことがなかったのです。この出来事が後にユダヤ人の最大の祭りである「過越祭」によって子孫に伝えられることとなりました。そしてそれと同じようにユダヤ人は自分たちの子どもの命が守られたことに感謝して、一家で最初に生まれた男の子を神にささげると言う掟を守り続けたのです。もちろん神にささげると言っても両親が子供を手放してしまうと言う訳ではありません。その後両親は神殿に定められた金額を払って自分たちの子どもを買い戻して家に連れ帰るということが当時も行われていたのです。

 福音書はここで「清めの儀式」の律法に基づいて主イエスの両親が「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」をささげたことが記されています(24節)。しかし本来、この清めの儀式には一歳の雄羊一匹もささげるのが決まりでした(レビ記12章)。ただし、経済的に貧しい家ではこの雄羊をささげることが免除さていたのです。ですから当時、マリアとヨセフの家族がそれを免除してもらわなければならない貧しい家庭であったことがここからも分かるのです。

 このように福音書は主イエスの両親が神の掟に忠実に行動しことを記しています。そしてこの理由は先日のクリスマスの礼拝でもお話したように私たちの救い主として誕生してくださった主イエスの働きと深く関係していると言うことができます。なぜなら、主イエスは私たちの救い主として神が人間に求めているすべてのことがらを私たちに代わって引き受けるという役目を持ってこの地上に来られたからです。

 本来、神の掟、つまり律法は私たち人間の命を守るために与えられたものでした。ですから、この律法を守る者は命を得ることができるのです。しかし、私たち人間はその犯した罪の故にこの律法を守る能力を失ってしまったのです。このことによって私たち人間が生きる道はすべて閉ざされてしまったかのように思われました。そこで神はその独り子である主イエスをこの地上に遣わして、私たちに代わってそのすべての掟を守らせることで閉ざされてしまった命への道を回復させ、私たちを死の呪いから救い出そうとされたのです。ですから福音書はこの主イエスの救い主としての働きがその誕生のときからすでに始まっていることをここで説明しているのです。


2.シメオンと幼子イエスとの出会い

①聖霊がとどまるシメオンの人生

 さてこの主イエスの家族のエルサレム神殿参りの物語には他に二人の人物が登場してきます。それがシメオンとアンナと言う二人の人です。シメオンに関しては彼がどのような家の出身か、あるいはどのような職業についていたのかと言うような詳しい情報はここに記されていません。彼については「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とだけ説明されているのです(25節)。

 シメオンは神を信頼して生きる熱心な信仰者であったことが分かります。その証拠として彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望(ん)でいた」と言われています。私たちは自分の人生が祝福されるように、様々な願いを抱いて生きています。そしてその願いが実現するように神に熱心に祈り続けている人もおられるはずです。シメオンが最優先したのはそのような自分の願いではありませんでした。「イスラエルが慰められる」とは神が自分たちの先祖たちに約束してくださったことが実現することをシメオンが願っていたことを表しています。なぜなら、神に信頼するシメオンは神の約束が実現することが、自分にとっての最大の祝福であると考えていたからです。はたして私たちの人生を本当に祝福するものは何でしょうか。箴言の作者は面白い願いを神に語っています。

「むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてくださ い。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められ たパンで/わたしを養ってください」(30章8節)。

 この作者がこう願ったのは自分の人生で神の約束してくださった本当の祝福が実現することを待ち望むためでした。彼はその信仰姿勢を守るために返って邪魔になるなら富も名誉も必要ないと言っているのです。シメオンはまさにそのような信仰の姿勢を生涯に渡って貫いた人物であると言えます。しかし、彼がそのように生きることができたのは、彼にそのような優れた能力があったからではありません。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)からです。

 すでに天国に召された一人の姉妹はよく教会に来ると言っていました。この姉妹が毎週、日曜日の朝に教会の礼拝に出席するために出かけようとすると必ず、近所の人が「どちらにお出かけですか」と声をかけるのだそうです。姉妹が「教会の礼拝に行きます」と答えると「あら、結構なご身分で」と言われると言うのです。このように私たちは毎週、礼拝に通い続ける信仰生活を送っています。しかし、それができるのは私たちに能力があるからではなく、私たちの上に「聖霊がとどまって」くださるからなのです。そして私たちはこの神の助けに感謝して今日も礼拝をささげているのです。


②老人が夢を見る

 聖書によればシメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と説明されています。そこで、この言葉から考えるとこの時のシメオンはかなりの年齢に達した老人であったと考えられて来ました。ここに記されているように彼の長い人生のライフワークは「主が遣わすメシアに会う」ことであったと言うのです。

 戦後の日本を高度経済成長に導いた私たちの先輩たちは「自分たちの生活を豊かにするために必死に働いた」と証言しています。彼らは「豊かになる」と言う明確な人生の目的があったからこそ、様々な困難に耐えることができたのかも知れません。しかし、彼らの恩恵によって「豊かさ」を味わうことのできた現代の人々は「豊かさが必ずしも人を幸せにしない」と言うことを知った上に、自分たちの生きるための明確な目標を失ってしまったかのように思えるのです。ですから現代人の問題はその人生に目的が持てないと言うところにあるのかも知れません。聖書には次のような言葉が語られています。

「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたち の息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエ ル3章1節)。

 「老人は夢を見る」と言うのは何も分からなくなって「白昼夢」のような意味の無い夢を見ると言うような精神状態になると言うことではありません。どんなに年を取っても明確な人生の目標を持ち続けることができると言う意味です。シメオンは「救い主に会う」という人生の目標を持って生き続けた人でした。だからこそ彼は「霊に導かれて」、マリアとヨセフに導かれてやって来た幼子イエスに出会い、次のような喜びの声を上げたのです。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに 去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見た からです。」(29~30節)

 ここにはシメオンの喜びの叫びが記されています。神が約束の通りに救い主を遣わしてくださったこと、そして自分がその救い主と出会うことができたことを彼は言葉に表して喜びを表現したのです。シメオンの生涯には今までいろいろなことが起こっていたはずです。彼は人に言えない苦難を何度も体験して来たかもしれません。しかし、この時シメオンは神が遣わしてくださった救い主イエスに出会うことにより、自分の人生のすべての労苦が報われたことを知ったのです。これは私たちの人生も同じです。この一年間でも「なぜこんなことが起こってしまったのか」と言う出来事を経験した方もおられるかも知れません。しかし、聖書はそのような出来事も霊が導いて私たちを主イエスと出会わせるためのものだと教えているのです。


3.女預言者アンナとの出会い

 さて今日の物語にはもう一人の人物、アンナと言う女性が登場しています。福音書にはシメオンについての経歴はほとんど記されていないのですが、このアンナについては詳しい経歴が説明されています。

「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(36~37節)。

 彼女の場合にはその年齢も84歳と正確に記されています。現代の平均寿命に近い年齢ですが、今から2000年前のこの時代で84歳と言えば、大変に長生きをした女性であったと言うことが分かります。彼女は若いときに結婚し、七年間結婚生活を送った後に夫と死別して、その余生の大半を「やもめ」として暮らしていました。新約聖書にはこの「やもめ」について次のような解説が語られています。

「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。」(テモテ一5章9~10節)

 アンナはこの「やもめ」と呼ばれる資格を十分に持つ信仰深い女性であったことを福音書は私たちに紹介しています。そしてこのとき、アンナの人生に次のような出来事が起こります。「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(38節)。彼女は幼子である主イエスを連れたマリアとヨセフに自分から近づいて行って彼らと出会い、そのことのために神を賛美します。そして救い主の到来を待ち望んでいたエルサレムの町の人々にこの幼子のとの出会いを伝えることで「女預言者」としての使命を果たします。


4.主イエスに出会うための人生

 このように今日の出来事にはシメオンとアンナと言う二人の人物が登場しています。二人の経歴は異なりますが、二人とも神を信頼して熱心な信仰生活を送り、神殿で神を礼拝する人生を送っていたことが分かります。また二人ともかなりの年齢に達しており、今日の出来事、つまり幼子イエスと出会うことがおそらく彼らの人生のゴールを意味するような大切な出来事であったことが分かるのです。

 ただ、私たちが忘れてはならないのはこの物語の本当の主人公は幼子イエスその人であると言うことです。なぜなら、二人の老人がその人生の最後に大きな喜びを得ることができたのは、幼子イエスが彼らと出会われたからです。つまり、幼子イエスが二人の人生を祝福に導いた張本人であることが分かるのです。

 福音書はこのようにして神が私たちのために遣わされた主イエスと私たちの人生との関係を教えています。私たちの人生は私たちが主イエスと出会うために神から与えられていると言えます。私たちの人生に起こる様々な出来事はこの主イエスとの出会いに私たちを導くために神が与えらえたものと言えるのです。だからこそ私たちも主イエスと出会うと言う出来事を通して、シメオンやアンナと同じように神を賛美し、また喜びの声を上げる祝福された人生を送ることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.マリアとヨセフが幼子をエルサレムの神殿に連れて行ったのはいつのことですか。また彼らは何をするために神殿に行ったのですか(22~23節)。

2.福音書はシメオンと言う人物についてどのような紹介をしていますか(25~26節)。シメオンは両親に連れられて神殿にやって来た幼子と出会い何をしましたか(26~35節)。このときのシメオンの言葉から幼子がどのような人物であることが分かりますか。

3.福音書はアンナと言う人物についてどのような紹介をしていますか。アンナは幼子を抱いたマリアとヨセフと出会った後に何をしましたか(36~38節)。

4.幼子を連れてエルサレム神殿に行ったマリアとヨセフは何をし終えることで自分たちの町に帰りましたか(39節)。このことからマリアとヨセフがどのような夫婦であったことが分かりますか。

5.あなたの人生は主イエスと出会うことによってどのように変わりしたか。主イエスとの出会いはどのような意味であなたの人生に喜びをもたらすものとなりましたか。

2023.12.31「人生の完成」