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2023.2.12「摂理のみ御業」 YouTube

ローマの信徒への手紙8章38〜39節(新P.285)

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、

39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです


ハイデルベルク信仰問答

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

答 全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。

答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。


1.神に責任はないのか?

 前回はハイデルベルク信仰問答の問26から「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と使徒信条が唱える「創造主なる神」について学びました。神が天地万物を創造されたという考えは日本のような国に育った私たちにはなかなか理解し難いものなのかも知れません。日本に伝わる神話にも神々が登場して日本を作ったと言う話があります。しかし、これはある意味でいわゆる「神国日本」の成り立ちを神々の世界に遡って説明するものであり、世界の創造の物語とは全く違います。しかし、聖書は天地万物すべてのものは神の御手によって造られたものであることを私たちに教えます。しかもその神は何もない無からすべてのものを造り出した方だとも言っているのです。

 確かに聖書以外の様々な世界の神話の中でも「神々が世界を創造された」という話を伝えるものがあります。そのような神話では善い神と悪い神が登場し、この世に存在する善いものは善い神が造り、悪いものすべては悪い神の創造によるものだと教えるのです。このような説明の方法を神学の用語では「二元論」と言う言葉で表現します。この「二元論」の便利な点は、私たちの人生や世の中で起こる悪いことすべては、この悪い神に原因があると、その責任をすべて押し付けることができ、もう一方の善い神の立場を守ることができます。

 ちょっと余計な話ですが、今もの世の中では「霊感商法」と呼ばれる問題が話題となっています。霊感商法は身の回りに起こるすべての災いの責任を先祖の霊などの責任にすることで、その災いの責任は自分にはないと考える人間の心理を利用します。それまで家族の間で「お前の責任だ」、「いや、あなたの責任よ」とその責任をなすり合って争って来た人たちが、「何だ、私たちの責任でじゃなくて、ご先祖さまが問題を起こしていたのか」と考えることである意味で安心することができるのです。人間の心理はいつも問題の責任を誰か他の存在に負わせて、自分はその責任から逃れようとする傾向があるからです。

 聖書は私たちに天地万物すべてのもの神の創造によるものであることを教えています。しかし、その一方で神のよって造られた世界は善いものであったことをも聖書は教えています。つまり、悪の原因は神にあるのではないとはっきり語っているのです。それではこの世界にはびこる悪の存在はどこからやって来るのでしょうか。聖書はその原因を神に対する人間の不従順によって犯された人間の罪に原因があると教えます。つまり、聖書はこの世にはびこるすべての悪の責任は人間自身にあると教え、その責任は人間自身が負わなければならないと語っているのです。ですから正しい聖書的な理解に立てば、人間が誰か他の存在に災いの原因を求めようとする「霊感商法」は成り立たないのです。

 しかし、ここまでお話を聞いておられた方は「そんなことを言っても、すべてのものを神が創造したのだから、その責任が神にないと言うはおかしいのではないか…、そもそもどうして神は問題を起こすような人間を造ったのか…」と考えるかも知れません。神は今、ご自分が造られた世界に対して、一切の責任を持っておられないのでしょうか。神はいったいこの世界と今どのような関係をもっておられるのでしょうか。そのような疑問に対してハイデルベルク信仰問答は「摂理の御業」と言うテーマで私たちに答えを与えようとしています。


2.摂理とは何か

 この問題について昔の哲学者たちは神の御業を創造の御業だけに限定して考えようとしました。つまり、神が創造した世界はその後、神の創造によって造られた法則に従って、神の助けが無くても存在し続けていると説明するのです。それは時計職人の手によって作られた時計が、その後も精巧なその仕掛けによって動き続けているようなものだと言うのです。だから哲学者たちの関心は神自身にではなく、神が創造された世界を維持し続けている法則に向けられて来ました。経済学の父と言われるアダム・スミスは経済の法則を「神の見えざる御手」と考えました。また哲学者のヘーゲルは「弁証法」という法則が世界の歴史を動かしているとも主張したのです。これらの哲学者たちの思想の特徴は神の造られた法則がその世界を動かしていると考える点です。だから神は今、この世界に直接には関わってはおられないと言うのです。しかし、ハイデルベルク信仰問答は「摂理の御業」というテーマを取り上げる中で、その摂理を「全能かつ現実の、神の力です」と教えています。信仰問答はこの言葉を使って神は今でもこの世界に起こる出来事、また私たちの人生に起こる出来事すべてに直接に関わってくださっていると教えているのです。

 それでは神は今、この世界にそして私たちの人生に直接にどのように関わってくださっているのでしょうか。このことについてハイデルベルク信仰問答の答えこう教えています。

 「それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。」

 私は神の摂理についてこの信仰問答が語る簡潔で慰めに満ちた答えに勝るものは無いと思います。今から五百年近い前の時代にこの信仰問答を読んだ人々のほとんどは、きっと農業に携わるような人々だったのかもしれません。農業は自然の変化に最も影響を受ける職業です。

 「木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も」。彼らはその自然の微妙な変化の中にも神の隠された意思があると信じて生きたのではないでしょうか。

 信仰問答はそのうえでさらに「食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も…」と続けています。この言葉によって私たちの小さな生活の中に起こる出来事にも神は深く関わってくださっていると説明するのです。つまりこの世や私たちの人生に起こる出来事に「偶然」と言うことは無いと言うのです。

 この「摂理」と言う用語はキリスト教独特の用語で日本人が使う日常の用語ではないと言えます。しかし、聖書を信じる人々の間にはこれほど身近な言葉は無いはずです。もともと、「摂理」と言う言葉には「あらかじめ知る」とか「善き意思」と言う意味があると言われています。すべての出来事は神の善き意思に基づいて起こるものであり、神が知らないで起こる「偶然」と言うような出来事は一切存在しないと言うのです。つまり、神は今もこの世界にまた私たちの人生に現実に深く関わってくださっていますし、その責任を持っておられるのです。神は「すべての責任は人間にある」と言って自分は何もしないでどこかに座って見ておられる方ではないのです。


3.ご利益と逆境

 さて信仰問答はお話を進めて問28で「神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか」と尋ねています。ここで「どのような益を受けますか」と言う言葉が記されています。ある解説者はこの言葉を「ご利益」と言う私たち日本人の聞きなれた言葉を使って説明しています。「この神様を信じるとどのようなご利益があるか…」と言うことを私たちは身の回りで聞くことがあります。

 仏教の教えを伝えるためにインドから中国にやって来て、私たちが現在「禅宗」と呼んでいる宗派を作った人物に「達磨大師」と言う人がいます。ある時、当時の中国の最高権力者だった皇帝が「私はこれまで、仏教を広めるためにたくさんの寺院を建ててきた。私はどんな功徳を仏からいただくことができるだろうか」と達磨に尋ねたと言います。皇帝は「仏教を信じることでどんなご利益があるのか…」と問うたのです。この質問に達磨は一言「無」とだけ語ったと言われています。  私たちは「ご利益」と言う言葉でどんなことを想像するでしょうか。「川崎大師に行ってお守りを貰えば交通事故に会わないようになる」とか…、「天神様にお参りにいけば希望の大学に合格することができる」…、あるいは「ポックリ地蔵を拝めば長患いをせずに、安楽な死を迎えることができる」と言った、ある意味で私たちに都合のよい出来事が実現することを「ご利益」と呼ぶのではないでしょうか。そして人はそのような「ご利益」を実現してくれる神々を「霊験あらたか…」とか言って褒めたたえ、自分の願いを実現してくれない神々には見向きもしないのです。  しかし、もしご利益がそのようなものだと考えるならば、ハイデルベルク信仰問答は問27の答がすでにその「ご利益」を否定しているように思えます。なぜならそこには「ひでり」、「不作の年」、「病」、「貧困」と言った「私たちにとって都合が悪い出来事も神の御業によるものだ」と語っているからです。神を信じていても私たちの生活には不都合な出来事が起こると言っているのです。いえ、私たちの信仰生活には毎日、涙を流さざるを得ないような出来事が続けて起こることもあるはずです。それでは、聖書が私たちに教える「ご利益」とはいったい何なのでしょうか。信仰問答はこう説明しています。

 「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。」

 私たちは自分の人生がたとえ逆境に見舞われたとしても希望を捨てることなく忍耐して生きることができるようになると言われています。かつてガリラヤ湖で舟に乗っていた主イエスの弟子たちは激しい嵐のために湖の真ん中で立ち往生し、どうにもならなくなってしまったことがありました。彼らは幼いころからこのガリラヤ湖で働く漁師として育てられて来たのに、彼らが身に着けた知識も技術もこの嵐には何の役にも立たなかったのです。「このままでは舟が沈んで自分たちは溺れてしまう」。弟子たちがそう考えたとき、主イエスが湖の上を歩いて彼らのもとに近づき呼びかけました。「安心しないさい。私だ」(マタイ14章27節)。私たちも逆境の中で何度、この主イエスの声を聴いたことでしょうか。私たちの主イエスは私たちがどんな困難に立たされても私たちの手をつかんで、導いてくださる方なのです。私たちはこの主がおられるからこそ逆境においても忍耐強く、その主の助けを待ち望むことができるのです。


4.神の愛から引き離すものはない

 こんなお話があります。最近、神を信じて熱心に教会に行くようになった一人の青年を、その神から引き離すために悪魔がいろいろな災いをその青年の生活に起こしました。しかし、残念なことにその青年はこのような災いが起こるたびに神に熱心に祈りを捧げ、ますます熱心に教会に通うようになります。困り果てた悪魔は自分のボスの悪魔に相談します。するとそのボスはこうったと言うのです。「お前がその青年の信仰を邪魔することで、むしろその青年の信仰は強められている。」そしてボスは「お前は何もするな。そうすれば今は信仰に入れ込んでいるその青年の熱もさめていくはずだ…」とアドバイスしたと言うのです。

 ある癒しの賜物を持った牧師のもとに全国からたくさんの病人が集まりました。そしてその牧師の賜物のお陰で病をいやされた人は、喜んで家に帰って行ったのです。ところがその牧師は悩み出します、なぜならあれほど熱心に「神に病気を治してほしい」と祈った人々が、その病気が治ると、立ちどころに神と無関係な元の生活に戻って行くことを知ったからです。

 神の摂理の御業を信じる者は「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝」できると信仰問答は教えています。しかし、私たちにとって何よりも大切なのは次の言葉ではないでしょうか。

 「将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。」

 もしかしたら私たちは逆境の時に神を見失うことがあるかも知れません。また、順境のときに神を忘れることも起こるかも知れません。しかし、大切なことは将来に私たちに何が起こったとしても神は私たちの手を握って決して離さないと言うことです。神は必ず私たちの信仰を回復させて、私たちを最後の信仰の勝利まで導いてくださるのです。

 「摂理の御業」を信じることは悟りのようなものではありません。実際に今、神が私たちに働いてくださるからこそ、私たちは「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝」することができるようになるのです。また、たとえ私たちがそのように生きられなくなり、病的な不安の中に閉じ込められるようなことがあっても、神はその不安さえも用いて私たちを導いてくださる方だと言えるのです。

 パウロはこの素晴らし神の御業を次のように証しています。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38〜39節)。

 どんなときも私たちを守ってくださるのは「主キリスト・イエスによって示された神の愛」です。そしてこのパウロはその神の愛から私たちを引き離すものは何もない、だから何が起こっても大丈夫だと私たちに教えてくれているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ハイデルベルク信仰問答は「神の摂理」についてそれは「神の全能かつ、現実の力です」と説明しています。信仰問答がこう説明する背景には神の創造について考えるどのような誤解があると思われますか(問27)。

2.この信仰問答は「すべては偶然によるのではなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」とも解説しています。あなたはこの言葉からどんなことを考えることができますか。

3.信仰問答は私たちが「神の創造と摂理を知ること」が大切であることを教えています。それではこの信仰は私たちの信仰生活の上にどのような影響を具体的に与えるのでしょうか(問28)。

4.パウロは「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と語りました。あなたはこの言葉から実際にどのような慰めと励ましを受けることができますか。

2023.2.12「摂理のみ御業」