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2023.2.19「敵を愛しなさい」 YouTube

マタイによる福音書5章38〜48節(新P.8)

38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。

47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


1.軍歌を作れなかった詩人

 東日本大震災が起こってもうすぐ12年の歳月が流れます。大震災が起こった当時、震災の被害を伝えるテレビでは普段放映されている企業のCMの代わりにACジャパンと言う団体が作った何種類かのCMが何度も何度も繰り返し流れていたと思います。そのCMの中で「「遊ぼう」って言うと「遊ぼう」って言う…」と言う言葉で始まり「こだまでしょうか、いいえ誰でも」と言う言葉で終わる詩が流れていたことを覚えておられるでしょうか。この詩は大正から昭和初期にかけて活躍した日本の女性詩人金子みすゞの作品の一つです。不遇なこの女性詩人の作品は彼女の生前にはあまり人に知られることがありせんでした。彼女の詩が今のように広く世間に知れ渡ったのは1980年代後半つまり最近のことだと言います。そして金子みすゞの詩が再発見されるきっかけとなった詩があります。それは「大漁」と名付けられた次のような詩です。

「朝焼け小焼だ/大漁だ/大羽鰮(いわし)の/大漁だ。浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらい/するだろう」

(金子みすゞ「大漁」)

 浜ではイワシの大漁を喜ぶ人々の声が響き渡っています。しかしその一方で深い海の底では自分の家族を失った鰮たちの悲しいとむらいが静かに執り行われていると言う情景を歌った作品です。この金子みすゞが活動した時代はちょうど日本が太平洋戦争に向かう軍国主義の時代で、詩人たちも国民の士気を鼓舞する軍歌を作らされることがありました。しかし、この金子みすゞの「大漁」と言う詩を解説したある研究家は、「このような視点で詩を作る金子には絶対に軍歌は作れないだろう」と語ります。軍歌はご存じのように味方の圧倒的な勝利を歌い、賛美します。しかし、現実にはその味方の圧倒的な勝利の背後には、敗北した人々の数えきれない無残な死の姿が存在するのです。テレビでウクライナ軍の勝利が報道されるとき、そこには命を失ったたくさんのロシア兵が存在し、その背後には息子や夫を亡くして悲しみにくれるたくさんのロシア人がいるのです。それはロシアの勝利を伝えるニュースでも同じです。金子みすゞと言う不遇な詩人は、喜ぶ人の背後に悲しむ人の存在を同時に見ることができると言う独特な視点を持つ人物であったと言えるのです。

 今日の聖書箇所には「敵を愛しなさい」(43節)と言う主イエスの語られた言葉が記されています。私たちは無残に踏みにじられた自分の正義を思い、自分を傷つけた敵に憎しみの炎を燃やします。そしてその憎しみの炎は私たちの心の中でますます燃え盛り、自分も誰か他の人も消すことができなくなってしまいます。そんな私たちになぜ主イエスは「敵を愛しなさい」と言われたのでしょうか。短い時間ですが、私たちはこの主イエスの言葉について考えてみたいと思うのです。


2.復讐は際限なく続く

 まず主イエスはここで『目には目を、歯には歯を』と言う旧約聖書が記した掟(出エジ21章24節)を引用しています。これは聖書以外でもハムラビ法典のような古代の法律の中に登場する「同害同報復法」という裁判の際に使われる原則を意味する言葉です。つまり、この法律は自分に加えられた危害以上の報復を相手に求めてはならないと教えているものなです。日本のテレビドラマで主人公が「十倍返しだ!」とか「百倍返しだ!」と決め台詞を言う物語がヒットしたことがありました。私たちは自分が相手から加えられた危害以上の報復を相手に下さなければ自分の気が済まないと言う性格を持っているようです。だからこのような決め台詞を語る主人公が持て囃されているのかも知れません。

 しかし、危害を加えられた者がそれ以上の報復を相手すれば、その相手はさらにそれよりも大きな報復で返してくる、つまり、報復の嵐は静まるばかりか、徐々に拡大して行って収集がつかなくなってしまうのです。ですからこの法律はそのような危険な人間の心理を何とかコントロールして社会を維持するために作られたものだと考えられているのです。

 しかし、主イエスはこの言葉に対して「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(38節)と語られています。右利きの人間が相手の右の頬を打つ際は手のひらではなく「こう」つまり裏手打ちをすることになります。ですから当時の人は右の頬を打つ行為を、相手に対する侮辱の表現と解釈していたようです。つまり、ここで加えられているのは単なる暴力ではなく、その人の人格までも傷つける行為だと言えるのです。しかし、主はここで自分に加えられた行為に対して反撃ではなく、進んで左の頬も出しなさいと教えています。さらに主イエスは続けて、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」と、また「一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」とも教えておられるのです。

 ここで私たちが注意すべきことは、主イエスは「自分に悪を行う者に歯向かうことなくその言いなりになれ」と私たちに教えているのではないと言うことです。なぜなら主イエスも自分を平手で打った大祭司の下役に対して「なぜ理由もなく自分を打つのか」と抗議の声を上げています(ヨハネ18章22〜23節)。また、使徒パウロはローマの市民権を持つ自分を裁判にもかけずに不当に逮捕し牢獄につないだ役人たちに抗議し、その役人たちから謝罪を要求しています(使徒16章37〜39節)。しかし私たちは主イエスや使徒パウロのように自分に危害を加えた相手の行為に法律に従って冷静に対応するのではなく、自分の心の中の燃え盛る怒りの炎に従って「どうやってこいつを懲らしめてやろう」と考えてしまいます。ですから主イエスは自分に危害を加えた相手の行為ではなく、そのような自分で自分の怒りをコントロールすることができない私たちの心の問題をここで取り扱っておられるとも考えることができるのです。


3.誰が敵で、誰が味方

 また主イエスは次に『隣人を愛し、敵を憎め』と言う言葉を引用して語っています。残念ながら旧約聖書には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19章18節)と言う言葉は記されていますが、後半の「敵を憎め」と言う言葉はどこを探しても見つかりません。どうやらこの言葉は聖書ではなくイエスが活躍された当時の人々が教えていた教訓の一つだと考えることができます。なぜなら、当時の人は自分の「隣人」を限定されたある人々と考え、そのほかの人は自分の「隣人」とは考えようとしなかったからです。彼らは互いに愛し、許し合うべき隣人と、憎むべき敵を明確に二つに分けて考えていたのです。

 私たちは自分と利害を同じくしたり、価値観を共有する人たちを「自分の仲間」、あるは「自分の隣人」と考えます。しかし自分と利害が異なり、むしろ自分と異なった価値観を持って対立する相手を「敵」と考え、その存在を快く思うことなく、「できればそういう人はいなくなってほしい」と願ってもいるのです。

 しかし、主イエスはそのような私たちの思いに対して、明らかに「否」と答え、次のように勧めています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。私たちはこの言葉を聞くと「これは無理だ」と考えてしまいます。それは「あなたの持っている財産をすべて売り払って、貧しい者たちに与えなさい」と主イエスに言われて、それができずに悲しみながら主イエスの元を立ち去っていった金持ちの青年と同じです(マタイ19章16〜22節)。彼が自分の財産を捨てることができなかったように、私たちも心に持つ敵意を捨てることはできないのです。

 なぜ、主イエスはこんな無理な話を私たちにされるのでしょうか。主イエスはその理由を次のように語っています。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。実は今日の箇所で主イエスが私たちに一番に伝えたかったことはこのことだと思えます。天の父なる神には敵と味方と言う区別がありません。自分が気に入った人にだけ太陽を登らせたり、雨を降らせたりして、そうでない人にはその恵みを施さないということはないのです。

 しかし、私たちはこの点で父である神について大きな誤解をしてしまっています。私たちの信仰が成長せず、揺らぎ続ける大きな原因は私たちが心に抱く神のイメージを、聖書の教えではなく、自分の作り出したイメージに置き換えられてしまっているからです。宗教改革者のマルチン・ルターが父なる神を自分の気難しくて偏屈な父親のイメージを通して見たために、「神のお気に入りになることができない自分は救いにあずかることできない」と考えて、悩み続けました。

 そもそも主イエスの十字架の救いは神に背を向けて生きて、その神の敵であった私たちのためになされたものだと言えます。私たちはこの主イエスの十字架の恵みを通して、自分が犯して来たすべての罪を許され、神の子とされる特権を受け取ったのです。だから、この恵みはたとえ私たちの状況が変わったとしても決して変わることがありません。私たちは敵をも愛する神が私たちのために主イエスを遣わしてくださり、その愛を表してくださったことに救いの確信をおくべきなのです。つまり、主イエスは隣人と敵を明確に分けて考え、自分の敵に怒りの炎を燃やし続ける私たちの心が、私たちの救いの確信を奪う可能性があることをここで警告し、私たちに「そうなってはならい」と教えているとも考えることができるのです。


4.自由にされた者の生き方

 先ほど取り扱った主イエスの言葉の中で「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」(41節)と言うものがありました。イエスが活躍された当時のユダヤの国はローマ帝国の植民地となり、その支配を行うためにローマ兵たちが駐屯していました。だからユダヤ人たちは支配者であるローマ兵の命令には絶対に従わなければなりませんでした。自分が何かほかの仕事をしている最中でも、このローマ兵から「これこれのことをしろ」と命じられてとそれを拒否することはできなかったのです。主イエスの「一ミリオン行くように強いるなら」と言う言葉はこのローマ兵の命令を想定していると考えられています。

 福音書はイエスの十字架の出来事を記した箇所で次のようなことを報告しています。

 「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ15章21節)。

 このときキレネ人シモンはたまたまそこを通りかかっただけなのに、ローマ兵に呼び止められ「十字架を担げ」と命じられたために、それに従わなければならなかったのです。

 「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と主イエスは言われました。ローマ兵が命じたのは「一ミリオン行くように」と言うことです。しかし、主イエスはこの一ミリオンの次の一歩をどうするべきなのかを私たちに問うているのです。最初の一ミリオンまでは人に強いられて仕方がなくしたことかもしれません。しかし、次の一歩からは全く違います。それは人の命令ではなく、自分の自由な意思によって行うことになるからです。

 たとえ「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言う主イエスの言葉に私たちが従ったとしても、そのことを「命令されたから仕方がない」と思ってしたとしたら、ある意味ではここで主イエスが求めておられることとは違うことになります。そうではなく、主イエスは私たちの自由な意思に基づいて、「敵を愛しなさい」とここで勧めているのです。それは福音書に記されている「善きサマリア人」が誰からも命じられたのでもなく、道に倒れている人を見て「憐れに思い」その人を介抱したことと同じであると言えます。

 主イエスはここで十字架の恵みによって救われ、自由にされた私たちに対して、その自由にされた人生を使って何をすべきなのかを問われていると言ってよいのです。主イエスに自由にされた私たちがその貴重な人生の時間を、敵に対する復讐心を燃え立たせて、そのために使い果たしてしまうことを主イエスは求めてはおられないのです。主イエスは自由にされた私たちの人生を使って「敵を愛しなさい」と勧めてくださっているのです。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)。

 もちろん、不完全な私たちの力では「敵を愛する」などと言うことは不可能なことだと言えるでしょう。だから主イエスは「完全な天の父の力を求めなさい」と私たちに教えているのです。なぜなら、私たちが完全となるためには、この天の父の助けが必要となるからです。そして、主イエスは私たちが古い生き方を捨てて、主イエスの教える新しい生き方を選ぶなら、天の父は惜しみなくその助けを私たちに与えてくださると約束してくださっているのです。

 このように「敵を愛しなさい」と言う言葉は主イエスの救いによって自由にされた私たちが、その自由にされた人生を天の父なる神の力を受けて生きていくことを勧める教えであると言うことを私たちは覚えたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスは旧約聖書にある「目には目を、歯には歯を」という言葉を引用して、私たちに何をすることを求めておられますか(38〜42節)。

2.主イエスは「隣人を愛し、敵を憎め」と言う言葉からは何を私たちに勧めていますか(43〜44節)。

3.自分の隣人と敵を明確に分けて、それぞれに違った対応をする私たちと違い天の父はどのような方だと主イエスは教えていますか(45節)。

4.主イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と私たちに勧めています。あなたは自分がそうなるために何が必要だと思いますか(48節)。

2023.2.19「敵を愛しなさい」