2023.2.26「人生の荒野に立つ」 YouTube
マタイによる福音書4章1〜11節(新P.4)
1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。
2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
1.聖霊の働きと悪魔の誘惑
①信仰の初心に帰る四旬節
今日から復活祭の礼拝まで教会では受難節の礼拝をささげます。この受難節は別の言葉で四旬節と人々に呼ばれてきたものです。そしてこの「四旬節」という名称は40日と言う意味を持っています。古代教会では新たに教会のメンバーに加わる人に対して復活祭の礼拝で洗礼が施されました。教会ではその洗礼志願者たちを復活祭前の40日間に渡って訓練したことから、この四旬節の習慣は始まったと言われています。
キリスト教会の洗礼はかつて罪の奴隷として生きてきた私たちの古い命が死に、神によって新しい命に甦ることができたことを表す大切な礼典です。ですから復活祭で洗礼を受けたいと願う希望者は、この洗礼の意味とこれから始まる新しい人生をどのように生きるべきなのかを教会の指導者から予めに学ぶために40日間に渡って訓練を受けなければならなかったのです。
この礼拝に集まる皆さんはすでに長い信仰生活を送って来られた方が多いと思います。しかし、幼児洗礼を受けた人は別ですが、成人になってから自分の意志で洗礼を受けたと言う人は、いくら年月が過ぎても洗礼を受けた日の出来事をはっきりと覚えておられると思います。日本には古くから「初心に帰る」と言う言葉があります。ですからこの四旬節の40日間、私たちも洗礼を受けた当時の初心に帰って、新たな気持ちで復活祭を迎え、その喜びにあずかりたいと思うのです。
②試練と誘惑
今日は主イエスが荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられたというお話から学びます。私たちが読んでいる新共同訳聖書にはこの箇所に「誘惑を受ける」と言う小見出しが付けられています。この物語は他にも「荒れ野の試練」とも呼ばれることがあります。私たちは普段「誘惑」と「試練」と言う言葉を使い分けているのですが、それではこの二つの言葉は具体的にどう違うのでしょうか。新約聖書の中にあるヤコブの手紙にはこの「誘惑」と「試練」という二つの言葉について興味深い解説がされています。
「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」(1章12〜14節)。
このヤコブの言葉に従えば「試練」は神が私たちに与えてくださるものであり、それを耐え偲べば私たちは神から命を得ることができます。そしてもう一方の「誘惑」は神から来るものではないとヤコブは語ります。なぜなら神は人を誘惑される方ではないからです。このような意味で「試練」は私たちと神との絆をさらに固くするものとして、神から与えられるものと言えますが、もう一方の誘惑は私たちと神との関係をむしろ妨害したり、破壊したりするものだと言うことになります。だから神自らが私たちに誘惑を与えて、その関係を妨害したり、破壊すると言うことはあり得ないと言っているのです。そしてヤコブによれば私たちが誘惑に陥ってしまう最大の原因は、自分自身の持っている欲望にあると言うのです。
今日の聖書のお話でも少し複雑なのは主イエスをこの荒れ野に導いたのは悪魔ではなく、『霊』と書かれているところです(1節)。この二重かぎかっこで挟まれて書かれている霊と言う単語は、神からの霊、つまり聖霊を表しています。つまり、この荒れ野での出来事は神のイニシアチブ、主導権によって始まっていることを聖書はまず私たちに説明しているのです。つまり、この荒れ野の誘惑の出来事は私たちを救うために父なる神の元から遣わされた主イエスがどうしても経験しなければならなかった神の計画に基づいた出来事であると言うことがこの表現は示しているのです。
2.三つの誘惑
①物質に対する誘惑
もちろんこの物語の中に登場してくるのはその主イエスを誘惑しようとする悪魔です。そしてこの悪魔の目的は主イエスを父なる神から引き離し、父なる神の計画を無きものにすることにあります。つまり、もしこの誘惑に主イエスが負けてしまったら神が立てられた私たちを救うための計画は実現しなかったと言うこともできるのです。
まず悪魔はここで主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)と語り、誘惑します。この荒れ野の誘惑は主イエスが40日間の断食を終えた後に始まっています。つまりこのとき主イエスは深刻な空腹を感じていたのです。満腹の人には食べ物は必要ありませんが、腹を空かした者にとって食べ物はすぐにでも手にいれたい一番大切なものであると言えます。確かに主イエスは神の子として様々な奇跡を行う力を持っておられました。実際にわずかな数のパンで数えきれない人の空腹を満たす奇跡も行うことができたのです(マタイ14章13〜21節)。その主イエスにとって石をパンに変えることは簡単なことであったと考えることもできます。しかし、主イエスはこの悪魔の誘惑を退けて、次のようにお語りになられたのです。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(4節)。
これは旧約聖書の申命記8章3節に記された言葉の引用となっています。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。
かつてイスラエルの民はエジプトで過酷な奴隷生活を送っていました。神は彼らの叫びを聞き、彼らのために預言者モーセを遣わしてエジプトの奴隷状態から解放してくださったのです。しかし、彼らは何も食べ物の無い荒れ野での生活で、「これならエジプトの生活の方がよかった」とつぶやき始めます。自由よりも自分たちの飢えを満たす食べ物のほうが大切だと彼らは考えたからです。そんな彼らに神は天から「マナ」と呼ばれる食物を降らせ、彼らの荒れ野での生活を支えてくださいました。この出来事で大切なのは不思議な「マナ」と言う食物よりは、むしろそれを民に与え続けて彼らを養われた神の存在です。確かに私たちの肉体は毎日、食物を必要としています。私たちの誰もが食べ物が無ければ生きていくことができないのです。しかし、その食べ物を私たちに与えることで私たちの命を支えてくださるのは神なのです。ですから主イエスはこの神との関係こそが私たちの命のために大切なことを教えているのです。
現代でも貧困が社会の深刻な問題と一つとなっています。しかし、人間は食物さえあればそれでいいのでしょうか。食物は私たちに必要なものですが、それ自体は私たちの人生に本当の喜びを与えることはできません。ですから私たちが喜びを持って人生を生きるためには神との関係が必要なのです。
②神を試みる誘惑
さて悪魔は次に主イエスを聖なる都エルサレムにあった神殿の屋根の端に立たせてこう誘惑します。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(6節)と…。興味深いのは悪魔がこの誘惑に付け加えた説明です。「『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。これは旧約聖書の詩編91編11、12節に記された言葉の引用です。つまり、悪魔は「聖書にこう書いてあるじゃないか…!」と主イエスに語り、「この言葉が事実かそうでないかを確かめてみなさい」と誘惑したのです。第一の誘惑は食べ物についてでしたが、この第二の誘惑は神を試すことが問題となっています。
安全な製品は何度も繰り返される品質テストを行った上で市場に出荷されます。その前提は人間の作ったものはいくら完璧なように見えても、どこかに欠陥が存在する可能性があるからです。しかし、確かに人間の作りだした作品には厳重な試験が必要ですが、神の言葉にはそれは必要ありません。だからイエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)と言って、ここでも「書いてある」と言う言葉がありますから主イエスが申命記6章13節の引用で答えたことが分かります。
主イエスが十字架にかけられたときそこに集まった人々の一部は「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27章42節)とこの悪魔の第二の誘惑と同じような言葉を語っています。しかし、主イエスは彼らの誘いに応じて十字架から降りることはありませんでした。なぜなら、主イエスが十字架で命をささげることが神の計画であったからです。ですから信仰の試練に出会うとき、私たちは神を試すのではなく、神に信頼する必要があるのです。
③悪魔を礼拝する誘惑
最後に悪魔は主イエスを「高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」(8節)誘惑しました。そして「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)と悪魔は誘惑したのです。
中世時代に活躍した有名な教会の神学者トマス・アクィナスには次のような逸話が残されています。あるとき悪魔はトマスをローマが一望できる山に連れて行き、彼をこう誘惑しました。「もしわたしを礼拝するなら。あなたにこのローマの都をあげよう」と。しかし、トマスはこの悪魔の言葉に即座にこう答えます。「私はこのローマの都よりも、聖クリソストモスの記した『ヨハネ福音書講解』の本が欲しい」。どうやら悪魔はトマスに対する誘惑の方法を間違えてしまったようです。
確かに私たちも「あなたを全世界の支配者にさせよう」と言われても、ちょっとピンと来ないかもしれません。しかし、「あなたの人生をあなたが思った通りにしてあげよう」と言われたら、違うかもしれません。私たちは自分の人生を自分の思い通りにしたいと考えています。つまり自分の人生の指導者になりたいと思っているのです。しかし、私たちが本当に祝福される方法は私たちの人生を最善に導いてくださる神に私たちの人生をお任せすることです。ですから主イエスの『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』(10節、申命記6章13節)と語りました。この言葉は、私たちの人生を導く本当の指導者は神であることを表しているのです。
3.正しい聖書理解の必要性
さて、ここで興味深いのはこの悪魔の三つの誘惑に対して主イエスは何かご自身の持っておられた不思議な力を使うのではなく、旧約聖書の言葉を引用して戦われたと言う点です。私たちには主イエスがもっていたような不思議な力を持っていません。しかし、主イエスが信頼した聖書の言葉は私たちにも与えられています。ですから、私たちが悪魔の誘惑を退け、神から命をいただくために大切なのはこの聖書の言葉であると言うことが分かります。言葉を変えていえば、私たちが聖書の言葉を大切にせずに、自分の経験や考えだけを使って独断で生きようとするなら、すぐにこの悪魔の誘惑に陥り、神との関係を見失いかねないことなる危険性があるのです。
さらに今日の主イエスの誘惑では悪魔自身が旧約聖書の詩編の言葉を引用しています。悪魔は旧約聖書の言葉を自分の都合のいいように解釈してここで使用しているのです。つまり、わたしたちにはいくら悪魔の誘惑に打ち勝つことのできる聖書の言葉を持っていても、その言葉を自分の都合のいいように勝手に解釈して、使うことは返って危険であると言えるのです。
このことは人間の祖先が最初に悪魔の誘惑を受けて、罪を犯してしまった出来事にも現れています。このとき人間を誘惑するために現れた蛇はこう語り掛けています。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3章1節)。
確かに神は2章16〜7節で人間に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と語られています。ところがこのとき人間が蛇に答えた言葉は次のようなものでした。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。(3章2〜3節)読んでお分かりのようにこのとき人間は神の言葉に「触れてもいけない」と言う言葉を勝手に付け足してしまっています。
このように悪魔の誘惑に勝利するためにせっかく神の言葉である聖書が私たちに与えられていても、その言葉を自分の都合のいいように理解したり、あるいは勝手に変えてしまうことは危険であり、それ自身が悪魔の誘惑に陥っている証拠とも言えるのです。
教会では聖書の学びが続けられています。「私たちも聖書の勉強はいつ卒業できるのですか?」と聞かれたことがありますが。私たちの聖書の学びには卒業はありません。なぜなら、私たちは聖書を自分に都合のいいように解釈したり、また誤解して読んでしまうことがあるからです。このことはこの主イエスの物語を通しても理解できることではないでしょうか。
さて、私たちはこの主イエスの荒れ野の誘惑から、確かに私たちが誘惑に打ち勝つための模範を学ぶことができます。しかし、それ以上にこの物語で大切なことは主イエスが実際に悪魔と戦い勝利してくださったという事実です。実はこの後も悪魔はことあるごとに主イエスに挑戦し、最後には先ほど触れたように十字架の周りに集まった人々の叫びの中にもその姿を現しています。そして主イエスはこのすべての悪魔の誘惑に勝利してくださったのです。悪魔は主イエスに完全に敗亡してしまったのです。だから、そのイエスを信じ、イエスとともに生きる私たちも悪魔の誘惑に勝利することはできができるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。
ですから私たちはこの主イエスの勝利が確かであることを今日の物語を通して知ることができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.聖書によればこのとき主イエスを荒れ野に導いたのは誰であると語られていますか。この事実は私たちに何を教えていると思いますか(1節)。
2.第一の誘惑はどのようなものでしたか。主イエスはこの誘惑にどう対応されましたか(3〜4節)。
3.第二の誘惑はどのようなものでしたか。この誘惑から人を陥れる悪魔の巧妙さがどのようにわかりますか(6〜7節)。
4.最後の誘惑はどのようなものでしたか。この誘惑に答えた主イエスの言葉から私たちが自分の人生で一番大切にすべきことは何であることが分かりますか(9〜10節)。