1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2023
  4. 2月5日「あなたがたは地の塩、世の光」

2023.2.5「あなたがたは地の塩、世の光」 YouTube

マタイによる福音書5章13〜16節(新P.6)

13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


1.どうして地の塩、世の光なのか

 「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。私たちはこの主イエスの言葉を今まで何度も聞いて、よく知っていると思います。その上で主イエスが私たちに「地の塩」、「世の光」としての使命を果たすようにと命じておられるということもよく理解しています。しかし、この使命を果たそうと私たちが考えるときに、私たちの脳裏に浮かぶのはもしかしたら「このような使命を私は本当に果たすことができるのか。主イエスのこの命令は自分にとって重荷だ」と感じることはないでしょうか。そう考えてしまう理由は「自分には世の注目を集めるような才能はない。むしろ平凡な人間なのに、なぜその自分が地の塩、世の光となりえようか…」と私たちが思ってしまうからかも知れません。私たちの今までの人生の歩みを振り返って見ても、失敗の連続のような人生を思い出して、ますます自信を失うということも起こるはずです。そんな私たちに主イエスはなぜ「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われているのでしょうか。今日は皆さんとともにこの主イエスの言葉について考えてみたいと思います。

 今日のこの言葉はマタイによる福音書が記している「山上の説教」と呼ばれる主イエスのお話の中に収録されています。ここでは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(5章3節)と言うような有名な主イエスの言葉が語られていて、そのすぐ後に今日の主イエスの言葉が登場しています。そして、この山上の説教の出だしはこのような言葉で始まっているのです。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(5章1節)。またそのさらに直前には「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」(4章25節)と言う言葉も語られています。つまり、この主イエスの言葉を聞いたのは主イエスの近くにいた弟子たち、そしてその弟子たちの周りにはさたには主イエスのもとに集まって来たたくさんの群衆たちがいたと考えることができます。

 それではこのとき主イエスのお話を聞いた弟子たちや群衆はどのような人たちなのでしょうか。ここには社会に影響力を持っていそうな人は一人もいませんでした。主イエスの弟子たちはガリラヤ湖で働く漁師であったり、元取税人や反ローマ運動の過激派などいろいろな経歴を持つ人々が集まっていました。しかしどちらかと言うと彼らは社会では簡単に無視されてしまうような下層階級に属する人々だと言えるのです。それではこのとき主イエスの周りに集まっていた他の群衆たちはどうだったのでしょうか。彼らの多くは主イエスに自分の病気を治してほしいと願った人々などで、人々に影響力を与える力などもっていない人たちだったのです。彼らはむしろ人々から自分は厄介者の一人と考えられていると感じて、その問題を解決するためにここに集まって来ていたと言えるのです。

 つまり、このとき主イエスの言葉を聞いたのはむしろ人々から無視されてしまうような者たちだったと考えることができるのです。

 その彼らに主イエスは「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と語られました。ここで注意すべきことはこの主イエスの言葉は「これからあなたがたは地の塩になりなさい」、「世の光になりなさい」と語っているのではないということです。むしろこの言葉を正確に読むならば「あなたがたはすでに地の塩であり」、「世の光になっています」と言い換えることができます。つまり主イエスは世の人々が注目するような才能など何も持っていない弟子たちに対して、また社会から厄介者として扱われているような群衆に向かって、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と語られているのです。


2.光はどこから来るのか

 この主イエスの言葉は私たちが知っている常識に合わないような不思議な言葉です。私たちは時々こう考えるかも知れません。「自分にもっと豊かな才能があったら、もっと立派なクリスチャンとしての証を立てることができるのに」。あるいは病に苦しんでいる人は思うはずです。「この病気が癒されない限りに自分は何もできない」と。さらに今は年老いて人々から介護を受けなければならなくなっている人はそんな自分を見て、「周りの人に厄介になるばかりで何もできない。昔はもっといろいろなことができたのに、今はそれもできない…」と考えるかも知れません。しかし、この主イエスの言葉は自分自身を見つめてそんな嘆きを語る私たちに語られているのです。

「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。

 それではどうして私たちは主イエスが語るように「すでに地の塩、また世の光とされている」と言えるのでしょうか。その秘密はこの言葉を語った主イエスにあると言えます。なぜなら、すでにこの福音書は主イエスがガリラヤ伝道を開始された出来事を取り上げて、旧約聖書のイザヤ書の預言を使ってこう説明しているからです。

「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(4章16節)。

 福音書はここでイザヤの言葉を引用して「主イエスこそ光だ」と言っているのです。かつて罪と死に支配されて暗闇の中を歩んでいたような私たちの上にこの主イエスの光が射し込んで、私たちはその主イエスによって救われたのです。つまり、この言葉は私たちがすでにこの暗闇を照らす真の光(ヨハネ1章4〜5節)である主イエスによって救われた者たちだと言うことを表しているのです。確かに主イエスによって暗闇のような私たちの人生に光がもたらされたのです。だから、私たちには主イエスに救われた者として、その主イエスのすばらしさを世に証する者たちとしての使命を与えられているのです。


3.神の御業を自分を通して証する

①塩味を失い、光をさえぎる生き方とは何か

 しかし、ここで主イエスはさらに私たちに「塩が塩味を失う」ことについて、また光を升の下においてわざわざその光をさえぎってしまうことについて警告を語っていることが分かります。この警告にはどのような意味があるのでしょうか。ここでは主イエスの御業によって実現した私たちの救いが取り消されることがないようにと言う注意が語られているのでしょうか。そうではないと思います。主イエスが私たちに与えてくださる救いは決して変わることはありません。つまり塩はどこまでも塩であり、光は光であって、それ自身が変わってしまったり、無くなってしまうことはないのです。そしてその塩味や光は主イエスに救われた私たちを通して世に明らかにされるのです。その際、私たちの生き方がその塩見を奪うような、また光をさえぎるようになってはいけないと言うことがイエスの語られた警告の意味であると思われます。

 たとえばこれは今日の最後のところに語られているイエスの言葉を読んでみるとよくわかるのではないでしょうか。

「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)。

 ここで語られている「立派な行い」ということについては最後にもう一度考えたいと思いますが。まずここでは主イエスに救われた私たちが行う行為を通して「天の父があがめられるように」と語られていることを忘れてはならないと思います。もしこの「立派な行い」が私たちの持つ願望や野心から出るなら、その結果は私たち自身があがめられるということになってしまうと言えるからです。ですからイエスがここで注意しているのは天の父なる神ではなく、自分が人々から注目され、またあがめられるような生き方であり、それを「塩味を失う」とか、「光が升の下に隠される」と言う言葉で表現しているのです。私たちがもっているすべてのよいものは皆、神から与えられてものなのに、それを自分自身があがめられるために使うことは重大な誤りだと言えるのです。


②神が起こしてくださった変化を認める

 先日のフレンドシップアワーで「神の超自然的な力によって、ノンクリスチャンたちが神を認めるようになった経験があれば、分かち合いましょう」と言う設問がテキストあって、参加している人みなが一瞬、答えに戸惑うことがありました。「超自然的な力」と言う言葉で私たちは聖書に書かれているような驚くべき奇跡を連想します。しかし、残念ながらそんな奇跡を体験する人はまず私たちの中にはいないのです。ですから私たちはその質問に答えて、今までの自分の信仰生活を通して自分の身の回りの人に起こった様々な変化を思い出して、語り合いました。すると確かに私たちの人生にも、私たちの周りの人が認めざるを得ないような変化が起こっていることが分かりました。

 聖書の中には生まれつき目が見えない人が主イエスによって癒されて目が見えるようになったというお話が記されています(ヨハネ9章)。ところがその日がユダヤ人の間では「仕事は一切しはいけない」と考えられていた安息日であったため、この人は裁判所に連れて行かれることになります。人々は彼の証言によって安息日の律法に違反して医療行為を行った主イエスを訴えようとしたからです。そのとき主イエスに目を見えるようにしていただいた人はこう語りました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハネ9章25節)。

 彼は自分に主イエスが触れてくださり、自分に起こった変化をしっかりと認めて、それを証言しています。同じように私たちが地の塩、世の光として生きるためには、自分の人生に神が起こしてくださった変化をしっかりと認め、それを人々に正直に伝えることが大切だと言えるのです。


3.聖霊の御業を否定してはならない

 さて私たちは最後にイエスの語る「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言う言葉の中に現れる「立派な行いとはいったい何か」と言うことについて一緒に考えてみたいと思います。

 私たちは子供のころから親や教師などから「立派なおとなになりなさい」と言われて育てられて来ました。しかし、大人になって成長した今の自分が「立派か」言えば、「そうではないような気がする」と答える人も多いのではないでしょうか。だからそんな自分に「立派な行い」などを求められても無理だと思ってしまうのです。

 しかし、ここで主イエスが語る「立派な行い」は私たちが親や教師から言われて育てられたときの「立派」とは違うと言うことを理解する必要があります。なぜなら、先ほども言いますように、この立派な行いを通して実現するのは天の父があがめられることだからです。そう考えるとこの立派な行いは私たちの内側から出るものではなく、神から与えられるものでなければならないことが分かります。主イエスは救われた私たちに日々、天から聖霊を送ってくださり、その御業を私たちを通して実現してくださいます。パウロはこの聖霊が私たちに働くことで実現することを次のように語っています。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5章22〜23節)。

 ここで誤解してはならないのは、私たちの願望が実現することが「御霊の実」ではないと言うことです。聖霊は私たちを通して神があがめられるためにこの「御霊の実」を私たちの信仰生活に実現されるのです。しかし、意外と多い人が自分の信仰生活を振り返って、「自分は少しも成長していない」と嘆きます。しかし、その多くの場合は自分の信仰生活が今まで思い描いていたような理想的な信仰生活になっていないと言うことでがっかりしたり、嘆いたりしているのです。しかし、私たちの上に働く聖霊は私たちを「スーパーマン」のような完璧に人間に変えるために働くのではありません。私たちの人生を通してどこまでも神があがめられるようにと働くのです。

 だから主イエスは今の私たちに「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と語られているのです。私たちは以前、罪と死の力に支配され、希望のない人生を送っていました。しかし、その私たちが今、主イエスを信じることができ、罪と死の支配から自由にされ、神を礼拝し、賛美することができるようになったのです。だから私たちは私たちの人生にすでに起こっている聖霊の働きを素直に認める必要があると言えるのです。

 日本からスイスにあるユング心理学研究所に留学したある人は、研究所で出会う人たちの多くは癖のある人たちばかりなのを知り、「ユング心理学が人間性を向上させているようには到底思えない」と迷い始めました。そこでその人は自分の疑問をその研究所で自分を担当する教育責任者に伝えました。するとその責任者は即座にこう語ったと言うのです。「君は知らないだろうが、彼らはこの研究所に来る前はもっとひどかった…」。

 私たちは確かに主イエスが送ってくださった聖霊の働きによって日々、変えられているのです。そして私たちがそのことを素直に認め、人々に正直に自分の現在の姿を証していくことこそが、「地の塩」、「世の光」として生きていくことであることを私たちは最後に覚えたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスはこのとき自分の話を聞いている弟子たちや群衆に「あなたがたは…」何であると語られましたか(12、14節)。

2.「塩に塩気がなくなれば」その塩はどうなるとイエスは言われていますか(12〜13節)。

3.山の上にある町、また燭台の上に置かれたともし火はどのようになりますか(14〜15節)。

4.主イエスは「あなたがたの光を人々に輝かしなさい」と勧めた上で、私たちに何をすることを求めていますか(16節)。

5.このイエスの言葉に従うためには、あなたは何をすべきだと思いますか。

2023.2.5「あなたがたは地の塩、世の光」