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2023.3.12「イエスの名前」 YouTube

使徒言行録4章8〜12節(新P.219)

8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、

9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。

12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答 いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。

なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。


1.なぜキリスト教?

①教会の教理の大切さ

 今日は毎月第二週に行われている伝道礼拝となります。いつものように改革派教会の信仰的な遺産と言ってよいハイデルベルク信仰問答の文章から、キリスト教信仰の要点について皆さんと共に学びたいと思います。

 今、テレビや新聞では連日のように「旧統一協会」という韓国生まれの宗教団体や、また「エホバの証人」と呼ばれる19世紀のアメリカで生まれた新興宗教の団体の名前が取り上げられて報道されています。どちらも社会的に深刻な問題を引き起こしている団体で、これらの組織の活動によって今でも多くの被害者が出ているようです。しかし、注意すべきことは一般のマスコミはこの二つの団体を「キリスト教会」と言う分類で一括りにして報道しているところです。実は私たちキリスト教会の側はこの二つの団体を「キリスト教」とは考えていません。なぜなら、この二つの団体の信仰は明らかに聖書を土台として建てられるキリスト教会の教えとは全く違っているからです。おそらく一般の方々はこの二つの団体がキリスト教会とどう違うのかということさえよく分からないままにマスコミの伝える報道を聞いているのかも知れません。

 私たちはこの礼拝でハイデルベルク信仰問答という文章から私たちが信じている信仰の内容について学んでいます。この信仰問答の中で取り上げられている内容は別の呼び方で「教理」と呼ばれるものです。「教理」などと言う名前を聞くと中にはアレルギーを起こす、そんな方がいるかも知れません。しかし、私たちの改革派教会はこの「教理」を伝統的に大切にして来た教会だと言えます。改革派教会の牧師はこの「教理」に基づいて礼拝で聖書のお話をしています。その点で、どの改革派教会に出席しても私たちは同じ聖書の理解に基づく牧師の説教を聞くことができるのです。

 先日、ある知らない方から教会に電話がかかってきました。お話を聞いてみるとその方は私たちの教会のホームページにアクセスして、私の説教原稿を読んでくださった方のようでした。「私はこんな話を自分の教会の牧師から今まで聞いたことがなかった」と言うように語られて、その方はしきりに私の話した説教の内容についてほめてくださったのです。私は「ありがとうございます」と一応のその方にお礼を伝えながら、その一方で同時に私はこんな不安を抱きました。「自分は礼拝の説教で特別に珍しい話をしたことはない。教会の教理が教えている内容に従って当然のお話したに過ぎない。ところがこの人は「初めて聞いた」と言っている、自分は何かの説教の中でほかの牧師なら語らないような独特の見解を語ってしまったのだろうか…?」。私はその方とのお話を通してその方が改革派でない別の教会に属している方であること、そしてその方が通っている教会の牧師は私とは違ったアプローチの仕方で聖書を解説する人であることを知りました。だから「なるほどそういうことか」と最後に少し安心することができたのです。


②キリスト教信仰と他の信仰を分ける重要な基準

 ところでキリスト教信仰の最も中心的な教えは何であると皆さんは思われるでしょうか。「キリスト教信仰は聖書の教えに基づいている」とそうお考えになる方もおられると思います。しかし、実は世界では聖書を信じる宗教はキリスト教だけではありません。ご存じのようにユダヤ人たちの宗教である「ユダヤ教」は私たちの読んでいる「旧約聖書」を自分たちの信仰の文書として大切にしています。また、ちょっと意外かも知れませんがイスラム教という宗教もやはり聖書が教える神を信じる宗教なのです。また、今問題とされている「旧統一協会」や「エホバの証人」と言われている人たちも、聖書を使って人々を勧誘しているから困ります。それではそんな様々な宗教とキリスト教を分ける基準はどこにあるのでしょうか。その答えは「イエス・キリスト」であると言えます。キリスト教会はイエス・キリストと言うお方だけが私たちを救い、世界を救うことのできる方であると言うことを信じています。また聖書の教える真の神をイエス・キリストと言うお方を通して理解し、信じること、キリスト教会と聖書を用いるほかの宗教と根本的に区別することができる基準がここにあると言えるのです。

 これまで私たちは信仰問答から神の創造と摂理について学んできました。ある意味で、ここまでならユダヤ教もイスラム教の人も同じ信仰を持っていると言えるかも知れません。そこで今日から私たちはこの信仰問答に従ってはイエス・キリストと言うお方を取り上げます。ですからここからは私たちのキリスト教会の信仰にとって最も重要な部分を取り扱うと言うこともできるのです。


2.イエスの名前

 まず、信仰問答はこの問29で私たちの主イエス・キリストの持つ「イエス」と言う名前を取り上げています。

「なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか」。

 実はこの「イエス」と言う名前は決して特別な名前ではなく、ユダヤ人の中ではごくありふれた名前の一つであったとされています。この「イエス」と言う名前は「ヨシュア」というヘブル語名をギリシャ語で呼び変えた名前です。この「ヨシュア」と言う名前が付いた人物はモーセの後継者でイスラエルの民を導いたリーダーが有名です。旧約聖書の中にはこのヨシュアの名前が付けられた書物がモーセ五書の後に収められています。つまり、この書物をギリシャ語風に読み替えれば「イエス記」となるのでしょうか。このようにイスラエルではヨシュアと言う名前は当時の子どもにつけられたごくありふれた一般的な名前であったと言えるのです。

 子どもの親たちは自分の子どもに名前を付けるときに、そこに何らかの意味、あるいは親たちがその子どもの生涯に期待する願いが込めるものだと言えます。ヨシュア、あるいはギリシャ語風でイエスと呼ぶこの名前には「主は救い」と言う意味が込められています。つまり、この名前には神だけが私たちを救うことができるという親たちの願い、あるいは信仰の告白が込められているとも言えるのです。もちろん、その子どもが実際にその名前の通りに生きることができるのかどうかは別の問題かも知れません。時々、テレビのニュースを見ていると重大な犯罪を犯した容疑者の名前が報道されていますが、その人が犯した犯罪には全く似つかわしくない名前がテレビの画面に表記されるのを見ることもあるはずです。

 しかし、このイエスと言う名前は彼の母親マリア、そして養い親であったヨセフが勝手に考え出して、自分たちの子どもに付けた名前ではありませんでした。聖書にはかつて天使がマリアのもとを訪れ、彼女が神の子を身ごもることになったことを告げた時、天使は「その子をイエスと名付けなさい」と語ったことが記されています。つまり、この「イエス」と言う名前は神ご自身がマリアの産む幼子に付けた名前であったと言うのです。ですから信仰問答はこの幼子に神が「イエス」と名付けた意味を次のように解説しているのです。

「それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです。」

 この答こそ、キリスト教を成り立たせ、他の宗教との違いを明確に示すものだと言えます。私たちの信じるキリスト教とは、イエス・キリストと言うお一人の方だけが私たちの罪は赦し、私たちを救うことができると信じるのです。だからもし、自分を救う者としてこのイエス以外の名前をあげて、それを教える者たちはキリスト教会のメンバーではなく、その人たちはキリストを通して神が与えてくださる真の救いにあずかることができないとこの信仰問答は語っているのです。

 このことを私たちの身近でよく表しているのは、私たちが日ごろささげている私たちの祈りの言葉かも知れません。なぜなら、私たちは神に祈りをささげるときに必ずその終わりに「救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします」と言う言葉を付け加えるからです。この言葉の意味は私たちの祈りが神に聞かれる根拠がこのイエス・キリストにあることを教えています。なぜなら、この信仰問答が語るように、私たちはこのイエス・キリストによって罪赦され、救われて神の子となったからです。だから、神はこのイエス・キリストによって救われた私たちの祈りを、あたかも神の子であるイエス・キリストがささげる祈りと同じようにみなして、その祈りに答えてくださるのです。


3.私たちの確かな救いの根拠「イエス」

 このように信仰問答は私たちを救うことができる方はイエス・キリストお一人しかおられないことを明確に語ります。そしてその次にこのイエス・キリストを自分を救うことのできる唯一のお方と信じる生き方とは具体的にどのようなものなのかを私たちに教えています。信仰問答はその真理を私たちに教えるためにイエスを唯一の救済者として信じない生き方とはどのようなものなのかを解説しているのです。

「それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。」(問30)

 この信仰問答の問いには宗教改革の時代に当時のカトリック教会が信徒たちに勧めた「聖人崇拝」の問題点が取り上げられています。なぜなら、当時のカトリック教会は特別に優れた功績を残した信者を「聖人」としてあがめ、一般の人々にその聖人に助けを求めて祈るようにと奨励したからです。当時のカトリック教会はこの「聖人」たちはその優れた功績によって自分だけではなく、他の人も助けることのできる功績を教会に残したと教えたのです。ですから、自分の功績では神に認めてもらうことのできない一般信徒でも、その聖人が残した功績を譲ってもらえれば大丈夫だと当時のカトリック教会は主張したのです。

 この教えの背後にはキリストを信じるだけではなく、自分でも優れた功績を残さなければ神の救いにあずかれないと考えた律法主義の誤りが現われています。だから信仰問答が「聖人や自分自身」と続けているのはこのためです。これでは結局、「イエス・キリストを信じるだけではだめで自分でもがんばって何らかの功績を残さなければ救われない」と言うことになるからです。そしてこの教えではイエス・キリストの救いが完全ではないと言う主張をしていることになるのです。

 宗教改革者たちが最も大切にしたのはイエス・キリストだけが私たちを救うただ一人のお方だと言う聖書の教える真理です。そして同時に彼らは、このイエス・キリストが与えてくださる救いは完全なもので、この方に救っていただけるならほかに何も必要がないと言うことも強く主張したのです。

 宗教改革の歴史を調べるとその発端となった出来事として「免罪符の販売」と言う問題が起こったことが分かります。これは当時のカトリック教会が売り出したもので、この免罪符を買った者は教会が持っている聖人たちの残した功績を自分のものにできると教えたのです。結局当時のカトリック教会は「キリストを信じるだけではだめ」とキリストの救いの完全性を否定する大きな誤りを犯していたのです。ですから当時の宗教改革者たちはキリストの救いの完全性を主張してカトリック教会の誤りを正そうとしたのです。

 現代の教会では「免罪符」が売り出されるということはありません。しかし、キリストの救いの完全性を疑わせるような誤りは私たちの信仰生活にもよく起こると言えるかも知れません。たとえば、私たちは自分の信仰生活を顧みて、そこに自分が期待した通りの進歩を認められなかったりすると、「自分はこれでもキリストに救われた者なのか」と疑うことはないでしょうか。もし、そう私たちが考えるとしたら、それは「キリストを信じるだけではだめ」と言うキリストの救いの完全性を自らが否定することになると言えるのです。

 私たちの救いの確信はいつもイエス・キリストの提供してくださる救いの完全性にあると言えます。だから、もし私たちが自分の信仰生活を顧みて、自分の不甲斐ない信仰者としての姿に絶望するようなことがあるならば、私たちはその私のためにイエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を許してくださったことを思い出し、イエス・キリストに信仰の目を向ける必要があるのです。

 私たちは私たちを救ってくださるイエス・キリストの力を見くびってはいけないと思います。たとえ私たちには力がなく、神に喜ばれることなど何一つ自分の力では残すことのできない者であっても、イエス・キリストはその私たちを完全に救う力を持っておられるお方なのです。

 天の父なる神はそのような力を持つ神の子イエスを私たちの救い主として送ってくださったこと、この方の持つ「イエス」と言う名前にはその真理が示されていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.私たちの主イエス・キリストの持つ「イエス」と言う名前は誰が付けたものですか。私たちはこの「イエス」と言う名前から何を知ることができます。

2.信仰問答は「自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか」と聞いています。この問いに対する信仰問答の答えを参考にして、あなた自身が陥りやすい信仰的な誤りについて考えてみましょう。

3.私たちがイエスの救いを完全なものと信じるとき、私たちの信仰生活にはどのような確信が与えられると思いますか。

2023.3.12「イエスの名前」