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2023.3.19「神の業が現わされるための人生」 YouTube

ヨハネによる福音書9章1〜12節(新P.184)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。


1.闇に閉ざされた人生

 私たちは今、イエス・キリストの受難と死を記念する受難節、四旬節の期間を過ごしています。この四旬節の起源は前にもお話したように、古代教会の時代に新たに教会に加わろうとする洗礼志願者たちを40日間に渡って訓練したところから始まっていると言われています。その後、この四旬節は洗礼志願者だけではなく、すでに長い信仰生活を送っている信徒たちにも自分の信仰を顧みる期間として用いられるようになりました。ですから私たちは四旬節に自分が洗礼を受けた頃の初心に帰って、新たな気持ちで自分の信仰生活を再出発させることでこの期間を送ることがふさわしい過ごし方だと考えているのです。

 それではイエス・キリストを私たちが信じることで私たちの人生はどう変わったのでしょうか。あるいは私たちの人生は主イエスによってどう変えられたのでしょうか。私たちはそれを考えることで、私たちを罪と死の呪いから解き放ち、新しい人生を神と共に生きることができるようにしてくださった主イエスの救いの御業に心を向けたいと思うのです。

 実はこの四旬節を過ごすために古くから教会で使われている教会暦では、この期間に私たちが主イエスの救いの御業を思い返すために有益となる三つの聖書箇所を選んで、そこから学ぶことを勧めています。まず最初に読まれるのはヨハネによる福音書4章に記されている「サマリアの女」と言う物語です。サマリアの女性はその人生に深刻な渇きを覚えて生きていました。彼女はその渇きをいやしてくれる人を求めながら、不幸な出会いを繰り返すことでさらに自分の人生を不幸なものとしていたのです。その女性の人生が真の命の持つ主イエスとの出会いによって変えられていったことをこのお話は紹介しています。そして二番目のお話は今日のヨハネによる福音書9章に記されている「生まれつきの盲人」と主イエスとの出会いの物語です。さらに三番目に読まれるのはヨハネによる福音書11章に記されている深刻な病のために死に至ることになった「ラザロ」と言う人物をめぐる物語です。そこで私たちは今日の礼拝で8章の「生まれつきの盲人」のお話を学び、次の礼拝では11章の物語を学ぶことで、私たちが自分の人生で主イエスと出会い、その方を信じて生きることができるようになったことがどんなに素晴らしいことなのかを改めて確認したいと思うのです。


2.イエスに目を開かれた人

①闇の世界だけ知らない人生

 今日の物語の中に登場する人物は「生まれつきの盲人」と呼ばれる一人の男性です。聖書はこの男性をそう呼ぶだけで、その名前を伝えていません。聖書は主イエスによって目が見えるようされた人物が他にもいたことを記しています。聖書の中でバルティマイと呼ばれる人物もその一人です(マルコ10章46〜52節)。主イエスに向かって人々の静止の呼びかけにも関わらず、必死になって自分の目が癒やされることを叫び求めたバルティマイのお話を皆さんは覚えておられると思います。もしかしたら、このバルティマイは何らかの理由で、人生の途中で失明するという出来事に会い盲人となっていたのかも知れません。かつては自分の目が見えていたという過去があったからこそ、バルティマイは再び自分の目を見えるようにしていただきたいと必死に主イエスにその目の癒しを求めたとも考えることができるのです。

 その証拠に今日の箇所で登場する男性は主イエスが近くに来られても、バルティマイのように「自分を憐れんでください」と助けを求めることは一切していません。それは彼の目が見えないのが生まれた時からであり、彼にとっては暗闇の世界こそが当たり前であったからかも知れません。

 どんなに素晴らしい救いが神から提供されていても、今の自分の不幸な人生が当たり前だとしか考えることできず、神に救いを求めることができない…、それが主イエスに出会う前の私たちの姿であったのかもしれません。そのような意味でこの「生まれつきの盲人」は確かに主イエスに救われる前の私たち自身の姿を象徴している人物だと言うことができるのです。


②生まれつきの盲人の人生に関わろうとされる主イエス

 さてこの「生まれつきの盲人」の人生を支配していたのは実際に自分の目が見えないことによって闇の世界に生きることになったことだけではなく、彼の人生全体を闇の世界に結び付ける別の事情があったことがこの聖書には記されています。その事情とは「罪」の問題です。そしてそのことがよくわかるのは次に記されているイエスに向けられたその弟子たちの質問の言葉です。

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)。

 当時の人々は自分たちの身の回りに何か不幸な出来事が起こると「その人が神に対して罪を犯したからだ」と考えたようです。つまり、彼らは「不幸な出来事は神からの罰である」と解釈したのです。私の亡くなった母はよく口癖のように何か不都合な出来事が起きると「何の罰があたったのか?」と語りました。そして「やれ、勝手に家の庭に生えていた木を切ったからだ」とか「穴を掘ったのが原因」だと嘆くのです。つまり、それらのものに宿っている神々の怒りを買ったのが不幸の原因だと考えていたようです。意外にこのような考え方は、信仰は様々に異なっていても世界のどこにでも見られるものなのかも知れません。

 この男性の目が見えないのは生まれたときからですから、彼が罪を犯したからと言う理由は理屈に合わないかも知れません。ですからその原因追及の対象は自然と彼の両親に向けられて行きます。この盲人は他の盲人たちがするように道端で物乞いをしていたのかも知れません。そして彼は人々の憐れみを求めることに対する代償のように自分の目が見えないことに向けられる人々の好奇心に満ちたうわさ話を聞くはめになったのです。しかし彼は自分について語られる人々のどんなうわさ話を耳にしても、無言のままそこに座っていました。ところが、彼はこのときおそらく彼のいままでの人生で聞いたことのないような言葉を耳にすることになります。それは次のような主イエスの言葉です。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 この聖書箇所を解釈したある人は「主イエスは他の人々がしたように、この人の人生の過去や未来のことを勝手に取り上げて解釈することはされなかった。主イエスにとって大切なことはこの人の人生に自分が今どのように関わることができるかと言うことだ」と解説しています。つまり、ここでイエスが語る「神の業がこの人に現れるため」とはこの生まれつきの盲人の目を開いて、彼の人生にこれから積極的に関わろうとされる主イエスの決意が現わされていると言うことができるのです。

 私たちの主イエスは私たちの人生をどこ別のところにいて、そこからただ見ておられるような傍観者のような方ではありません。私たちの人生を罪と死の支配する暗闇の世界から解放して、神の命に満ちた光の世界に導くために積極的に私たちに関わってくださるお方のです。だから、主イエスは実際に私たちのために苦しみを受け、十字架で死なたのです。そうすることで主イエスは私たちの人生を支配する暗闇の力を打ち破り、勝利をもたらしてくださったのです。

 このような意味で生まれつきの盲人だったこの男性のこれまでの人生はこの主イエスに出会うために神に導かれていた人生であったことが分かります。そして彼の目が生まれたときから見えなかったという事実はこの主イエスの御業を人々に知らせるために大変に重要な役目を果たすこととなったのです。


3.遣わされた者となる

①安息日を違反した「罪人」

 この後、生まれつきの盲人であった男性は主イエスの「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」(7節)と言う言葉に従ってシロアムの池に向かい、そこで彼は自分の目を洗います。このとき彼の瞼の上には主イエスのつばで練られた泥が塗られていたからです。そして彼が主イエスの言葉に従ったとき、彼の今まで見えなかった目が見えるようになったと聖書は語っています。彼はこれまでの自分の人生で不可能だった自分の目で世界を見ることできるようにされたのです。

 さて、このお話はここで「めでたし、めでたし」と終わってしまうのではありません。なぜなら、この後、このかつて生まれつき盲人だった男性は主イエスに目を開かれることで、主イエスの素晴らしい御業を人々に告げる人に、つまり彼は神から「遣わされた者」となったからです。

 聖書はその事情についての経緯を続けてここに記していきます。実は主イエスが「生まれつきの盲人」の目に自分のつばで捏ねた泥を塗った日はユダヤ人の間で「神を礼拝する以外のことは一切してはならない」と決められていた安息日にあたっていました。そして今までことごとく主イエスと対立し続けていたファリサイ派の人々はここでもその問題を取り上げて主イエスを批判し始めます。なぜなら彼らは主イエスが自分の唾で泥を捏ねて塗り、その上で生まれつきの盲人の目を見えるようにさせた行為は、安息日には決してしてはならないと教えられている労働、つまり医者がやるような医療行為をしたと考えたからです。そして、主イエスを神から遣わされたメシアとは決して信じることができなかったファリサイ派の人々は、このように安息日の戒めを破った主イエスを「罪人」だと断罪しようとしたのです。

 そのためにファリサイ派の人々は彼らのもとに連れて来られた生まれつきの盲人だった人を厳しく尋問しています。彼らは主イエスが安息日に違反することをした罪人だと言う証言を彼の口から引き出させようとしたのです。しかし結局、ファリサイ派の人々は彼の口から自分たちに有利な証言を引き出すことができませんでした。だから彼らはこの生まれつきの盲人だった人に自分たちの怒りの矛先を向け、彼を自分たちのコミュニティーから追放するような処分を下したのです。


②わたしが知っていることはただ一つ

 ここで興味深いのは主イエスに目を見えるようにしていただいた後の、生まれつきの盲人だった人の人生に起こった変化です。まず彼は「お前はあの人をどう思うのか」(17節)と言うファリサイ派の人々の問いに「あの人は預言者です」と大胆に答えています。かつて、人々の自分に対する身勝手なうわさ話を聞いても無言を貫いた彼の口がここから言葉を語り始めたのです。

 彼は主イエスを「安息日違反の罪を犯した罪人」と断罪しようとするファリサイ派の人々に向かって続けてこう語っています。

「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。

 彼はおそらくこの日に初めて主イエスと巡り合っただけで、主イエスについての予備知識を一切持っていなかったのかも知れません。しかし、彼は誰よりも確かな主イエスについての知識を知りました。それはかつて生まれつきの盲人だった自分の目を主イエスと言う方が見えるようにしてくださったと言う事実です。ファリサイ派の人々は聖書に対する豊かな知識を持ていました。しかし、彼らは主イエスについて何も知っていませんでした。それは彼らが自分たちの人生にも関わろうとされる主イエスの御業を拒否してしまったからです。そのようにして彼らは主イエスを知る機会を自ら放棄してしまったのです。

 生まれつき盲人だった人はファリサイ派の人々に向かって続けてこう語ります。

「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」(31節)。

 そして彼は自分が知ったただ一つの知識に基づいて「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(33節)と言う結論に導かれます。主イエスが神から遣わされたメシア、救い主であることをファリサイ派の人々の前で彼は見事に証言して見せたのです。

 私たちはこの生まれつき盲人だった人の人生に起こった変化から、本当に主イエスを知るとはどういうことなのかと言うことを学ぶことができます。彼は事前に主イエスについての何らかの知識を持っていたわけではありませんでした。しかし、彼は自分の人生に関わろうとしてくださる主イエスの御業を受け入れ、その言葉に従ったのです。そして彼は自分の人生に起こった確かな出来事を通して主イエスが神の元から遣わされた救い主であるという正しい知識に導かれました。

 リンゴの実の形状や味をいくら説明できても、その人は本当にりんごの実を知っていることにはなりません。リンゴの実を本当に知るためにはその実を実際に自分で食べてみなければなりません。主イエスを正しく知ると言うこともそれと似ています。私たちが私たちの人生に関わろうとしてくださる主イエスの御業を受け入れるなら、主イエスはわたしたち一人一人の人生にその御業を実現してくださるのです。そのとき、私たちの人生は確かに主イエスによって変えられます。まず、主イエスは私たちの人生の過去の意味を変えてくださいます。今まで私たちの人生に起こったすべての出来事は主イエスに出会い、その主イエスの御業があらあれるための大切な過去であったことを私たちは知ることができ、神に感謝をささげることができるようにされるのです。

 そして主イエスは次に私たちの人生の未来をも変えてくださるのです。かつては罪と死の呪いの中にあった暗闇のような人生が、真の光である主イエスの御業を証することのできる人生に変えられるのです。主イエスは私たちに「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)と語ってくださっていました。この言葉の通り私たちが世の光となれるのは、主イエスが私たちの人生に深く関わってくださり、その御業を私たちの人生を通して表してくださるからです。ですから今日の聖書に語られている「生まれつきの盲人」と主イエスとの出会いは、主イエスを信じて生きる私たち一人一人の人生にも起こった出来事であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ここに登場する生まれつきの盲人について主イエスの弟子たちはどのようなことを考えていましたか(2節)。

2.その弟子たちと違って主イエスは生まれつきの盲人の人生について何を語りましたか。この言葉には主イエスのどのような決意が隠されていたと言えますか(3節)。

3.それではこの生まれつきの盲人の目が見えるようになったのはなぜでしょうか(7〜12節)。

4.ファリサイ派の人々はこの出来事を知って、主イエスについてどのような批判を加えて攻撃しようとしましたか(14節)

5.このファリサイ派の人々の企みに対して生まれつきの盲人だった人は、主イエスについてどのような証言をしましたか(24〜34節)

2023.3.19「神の業が現わされるための人生」