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  4. 3月26日「死からいのちへ移される人生」

2023.3.26「死からいのちへ移される人生」 YouTube

ヨハネによる福音書11章17〜27節(新P.189)

17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」


1.病人ラザロ

 私たちは今、主イエス・キリストの受難と死を記念する「四旬節」の礼拝を続けてささげています。聖書は神の子である主イエスの受難と死が私たちを愛する主イエスの御業によるものだったことを私たちに教えます。神の御業が私たち一人一人の人生の上に豊かに表されるために主イエスは命がけで私たちに関わってくださる方であることを聖書の物語は私たちに伝えています。そのことについて先週、私たちは「生まれつきの盲人」と主イエスの出会いの物語から学びました。今日は続けてヨハネによる福音書11章に記されている「ラザロ」と言う人物と主イエスとの出会いから学びたいと思います。

 通常、私たちは自分を紹介する場合は相手に対して分かりやすい「肩書」をつけて紹介することがあるはずです。私なら「キリスト教会の牧師」と言って人に紹介することが分かりやすいかと思います。世間ではその人の行っている仕事や、社会での役割など様々な「肩書」を使って、自分を紹介することが多いはずです。私は以前、韓国旅行に行ったときに一人の牧師から貰った名刺に表だけではなく、裏面にまでいくつものその牧師の肩書が記されているのを見て「すごいなあ」と驚かされたことがありました。今は分かりませんが、その時私は「韓国は何よりも「肩書」を大切にする国なのだな」と思わされたことがありました。皆さんなら自分の名刺にどんなことを書いて人に自分を紹介しようと思われるでしょうか。

 今日の聖書の物語は次のような言葉から始まっています。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」(1節)。ここに「マルタとその姉妹マリア」と言う名前が登場します。この二人はルカによる福音書10章38〜42節にも登場する人物です。姉妹でありながら二人は性格がたいへんに違っていて、それがもとで姉妹喧嘩になり、主イエスがそこに捲き込まれるようなお話が記されています。また特にこのヨハネによる福音書は続けて妹のマリアについて「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(2節、12章1〜8節)とも記していて、ここからもマルタとマリアの姉妹が聖書の中では大変に有名な人物であったことが分かります。そしてラザロはこの姉妹の兄弟であった(2節)と言うのです。

 今も申しましたようにこの二人の姉妹はその人柄までわかるような内容が聖書には記されています。しかし、その兄弟であるラザロの人柄について聖書は何も語っていません。むしろ先ほどのルカによる福音書の伝える二人の姉妹の物語の中には彼の名前はもちろんのことその存在すら触れられていません。このラザロはいったいどんな人なのでしょうか。聖書はそれを説明するために「病人」という肩書だけを彼に付けて私たちに紹介しているのです。

 自分を紹介するのに「病人」と言う言葉だけしか使えないとしたら、その人の人生はなんとつらくて悲しいものなのだろかと私たちは思ってしまいます。しかしこの物語では彼が「病人」であることが大切な役割を果たしています。なぜなら、主イエスの御業がこの「病人」であったラザロを通して豊かに表されることとなるからです。

 主イエスの語られた有名な言葉の中に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と言うものがあります。この言葉からもわかるようにラザロはその病のために主イエスを必要としていた人物であったと言えます。そして主イエスもまた神の偉大な御業を表すためにこの「病人」であったラザロを必要としていたことが分かるのです。


2.イエスの愛

 聖書を読むとラザロその姉妹であるマルタとマリアの家族と主イエスとの間には特別な関係があったことが分かります。この家族が住むベタニア村は神殿があったエルサレムから「十五スタディオン」、つまり現代の距離で直すと約三キロメートルの場所にありました。そこでおそらく、主イエスがエルサレムにやって来られたときには必ずこの家族の家を宿泊の場所としていたと考えられているのです。

 このような関係からマルタとマリアの姉妹は病気のラザロを助けるために主イエスの元に使いを遣わしました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)と言うメッセージをその使いを通して主イエスに伝えたのです。彼女たちは主イエスがラザロや自分たち家族を愛しておられることを確信していたので、きっとこのメッセージを伝えれば主イエスはすぐに自分たちのところに来てくださると信じていたのでしょう。ところがこの物語はこの姉妹たちの願いに反して、主イエスの到着が大幅に遅れて、その結果ラザロが死んでしまうと言う方向に進んで行きます。その上でラザロの遺体が墓に葬れてしまった後に主イエスはやって来られたと言うのです。

 また、この物語の後半部分ではラザロの墓に向かった主イエスがそこで「涙を流された」と言う場面が紹介されています(35節)。このとき主イエスの涙を目撃したユダヤ人たちは「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)と語ったと記されています。

 マルタとマリアの姉妹もユダヤ人たちも主イエスが「ラザロを愛している」と言うこと知っていました。しかし、興味深いのはヨハネによる福音書は主イエスがラザロとその姉妹の家族を愛していたことを説明する「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)で使われている言葉です。ここで使われる「愛して」と言う言葉は、先の3節と36節に使われる「愛して」とは違うギリシャ語の言葉が使われているのです。3節と36節はギリシャ語では「フィレオ―」と言う言葉で一般的な人間の愛着のような意味を持った「愛」を示しています。しかし、5節の言葉は「アガペー」と言って、無条件の愛、あるいは自己犠牲を伴う愛、神の人間に対する愛を表現するために使われる言葉が記されているのです。

 マルタもマリアもユダヤ人たちも主イエスがラザロを「愛してくださっている」と信じていました。しかし、実際の主イエスの愛は彼らの考えている「愛」をはるかに超えた「アガペー」の愛であったことをこの聖書の言葉は私たちに伝えようとしているのです。


3.イエスの愛によって表された御業

 この物語はマルタとマリアの期待した通りには進むことがありませんでした。彼女たちは自分たちからの知らせを聞いた主イエスがすぐに自分たちのところに来てくださり、病気の兄弟ラザロを癒してくださると信じていたはずなのです。しかし、主イエスの到着は彼女たちの思いに反して大幅に遅れてしまいます。主イエスが彼女たちの住むベタニア村に到着したときには、すでにラザロは死んでしまっていて、墓に葬られて四日も経っていたと言うのです(17節)。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。その理由について主イエスは事前に弟子たちに次のような言葉を語っています。

「そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」」(14〜15節)。

 主イエスがラザロの死んだ後にやって来られたのはラザロを「愛していなかった」訳ではありません。むしろ主イエスの愛は人々の期待する愛をはるかに超えた愛であったからこそ、死んだラザロを通して神の大いなる御業が現わされ、ラザロが生き返るという出来事が起こったと言うことができるのです。

 私たちの信仰生活でも同じようなことが起こることがあるかも知れません。「なぜ、こんなことが起こるのだろうか?」。私たちは自分の人生で自分の期待に反した不都合な出来事が起こるとそれをなかなか受け入れることができません。そして「神は私を愛してくださっていないのか」と考えてしまうことが起こるのです。そのとき、私たちはこの主イエスの「アガペー」の愛を思い返す必要があります。主イエスの私たちに対する愛は私たちの思いをはるかに超えるものだからです。そしてその主イエスの愛が豊かに表されているのが主イエスの十字架であると言うことができます。ですから、この主イエスの十字架の愛を通して、私たちはたとえ私たちの人生が困難なものだったとしても、その人生を通して主イエスがその栄光を表してくださることを信じることができるのです。


4.起きなさい

①命であるイエス・キリスト

 私たちはこの四旬節の期間が終わると主イエスの復活の出来事をお祝いするイースターの礼拝をささげる予定になっています。十字架にかけられて死なれたイエスは三日の後に墓から甦られました。それをお祝いするのがイースター礼拝です。一方、このヨハネによる福音書は病気で死んだラザロが主イエスの御業によって「甦る」という出来事を私たちに伝えています。ところがこのラザロの「甦り」と主イエスの「甦り」は根本的に違う出来事だと言うことができます。なぜなら、ここで主イエスによって甦らせられたラザロはこの後、何らかの理由でやはり死んだと考えることができるからです。しかし、一方の主イエスの「甦り」は違います。甦られた主イエスはその後、40日間この地上にとどまり使徒たちに現れた後、天に昇られたと聖書は教えているからです(使徒1章6〜11節)。そして主イエスは今も天で生きておられることを信じるのが私たちのキリスト教徒の信仰なのです。

 ですから、このラザロの甦りの出来事はその主イエスがどのような方であるかを私たちに教えるために大切な役割を果たしていることが聖書を通して分かるのです。たとえば、主イエスがラザロの死後にベタニア村に到着したとき、その主イエスを迎えに出たマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)とその残念な気持ちを伝えようとします。そしてこのマルタの言葉に引き出されるように主イエスは次のような言葉を語ってくださっているのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25節)。

 意外にたくさんのキリスト教会の看板にこの言葉が標語のように記されています。またキリスト教徒の葬られている墓地に行くと、その墓石にもこの主イエスの言葉が記されていることを発見することができます。このとき語れた言葉は主イエスがどのような方であるかということを私たちに教えています。このときマルタは主イエスを不思議な力を持っている預言者のような方、あるいは聖書を自分たちに教えてくださる素晴らしい教師として信じていたのかも知れません。しかし、このとき語られた主イエス言葉はこの方こそ「復活」であり、「命」そのものであることを私たちに教えているのです。主イエスを信じて、その主イエスと一緒に生きることで私たちは「永遠の命」を持つことができます。またこの方を信じる者こそが聖書の約束する「復活」にあずかることができるようになるのです。だから主イエスこそが私たちを生かすことができる真の命そのものであると考えることができるのです。


②私たちの人生に与えられた使命

 そしてこのイエスの語った言葉が事実であることを目に見える形であらわされた出来事こそが、ラザロが甦ると言う出来事だと言えるのです。イエスが到着したとき、ラザロはすでに死んで墓に葬られた後、四日も経っていました。当時の人々は死者の魂は死んでからも三日間はそこにとどまっていると考えていたと言われています。つまりこの「四日」と言う日数はラザロが完全に死んでしまったことを表しているのです。その証拠にイエスがラザロの墓を覆っていた「石をとりのけるように」と人々に命じたときに、死んだラザロの姉妹マルタは主イエスに「「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)と言ったと記されています。ラザロの遺体はすでに腐敗しはじめていると言うのです。

 しかし、主イエスはこのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました(41節)。すると墓の中から死んでいたはずのラザロが出てきたと言うのです。(44節)。人の死と言う現実は私たち人間にはどうすることもできないものだと言えます。どんなに医学が進歩しても死を克服することはできません。しかし、主イエスは違います。なぜなら、主は「復活であり、命」そのものだからです。だから死んだラザロはこの主イエスの力によって甦ることができたのです。

 このように聖書は「病人」であったラザロが、その死を通して主イエスの御業を見事にあらわすものとして用いられたことを記しています。この意味は、私たちの地上の命の死の意味を教えているとも考えることができます。主イエスは私たちに「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25〜26節)と約束してくださっています。

 確かにこの約束の通り私たちの魂は主イエスと永遠に生きることができると言えます。しかし、その上で私たちにはなお主イエスより重要な使命が与えられていると言えるのです。それはこの物語の主人公ラザロのように主イエスの力によって死から甦らされると言うことです。世の終わりのときに主イエスを信じて生きたすべての聖徒が甦るとき、私たちは自分の地上での死を通して主イエスの素晴らしい力を証しできる者とされるのです。このような意味でラザロに与えられた「病人」と言う肩書は彼が主イエスの力を証しするためにこの人が神によって選ばれたことを私たちに教えています。そしてこのラザロが果たした使命を私たちも今、主イエスからいただいていると言うことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.マルタとマリアの姉妹は彼女たちの兄弟であるラザロが病気になったとき何をしようとしましたか(1〜3節)。

2.どうして主イエスはラザロが病気であると言う知らせを聞いてもすぐに彼のもとに行かなかったのでしょうか(4節、14節)。

3.ラザロが死んだあとそこにやって来た主イエスにマルタは何と言いましたか。主イエスはそのマルタの問いに答えて、ご自身についてどのようなことを教えてくださいましたか(17〜27節)。

4.主イエスはラザロの墓に行って、人々に何を命じましたか。その言葉を聞いたマルタは何と答えましたか(38〜39節)。

5.この物語を通して主イエスが神の栄光を示すために誰を用いられたことが分かりますか。)

2023.3.26「死からいのちへ移される人生」