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2023.3.5「栄光に輝く受難の主」


1.人生は幸せと不幸の連続

①災難を避ける妙法

 先日、施設に入居されている一人の兄弟を久しぶりに訪問して、そこで出た話題です。今まで長い人生を歩んで来られたその兄弟は「人生というのは幸福と不幸の連続です」と言う言葉を何度も口にされていました。おそらく、その兄弟は高齢になって、今までの自分の人生の一コマ一コマを思い出しながらこのような思いになれたのかも知れません。そのような意味でこの言葉は単なる知識ではなく、その兄弟の今までの人生で確認することできた確かな真実であると言ってよいのかも知れません。

 しかし、生来理屈屋の私はその方の言葉を聞きながらもこんなことも考えました。人が「今は幸せです」とか「不幸せ」と答えることができるのはそうでない経験しているからです。つまり、「幸せ」と「不幸せ」と言う言葉は両方の境遇が存在してこそ成り立つ言葉だと言えるのではないでしょうか。私たちが「幸せだな」と思えるのは、それまで苦しんできた経験があるからです。またその反対に「不幸せ」と感じるのは、今よりもっと良かった過去があり、その過去にくらべて今は「不幸せ」と言うことができるのです。ですから「幸せ」と「不幸せ」はコインの裏表のように二つは決して切り離すこともできないものだと言えるのです。ところが私たちは「幸せになりたい」と考え、「不幸せにはなりたくない」と普段考え生きています。しかし、これは現実的にも、また論理的にも不可能で矛盾した願望であると言えます。ですからこのような不可能な願望を抱くこと自体が返って自分自身を苦しめてしまう原因ともなりかねないのです。江戸時代後期に活躍した歌人として有名な良寛と言う人はこんな言葉を残しています。

「災難に逢った時は/災難に逢うのが/よいのでしょう。死ぬ時には/死ぬのがよいのでしょう。これは災難を/逃れる妙法です。」

 良寛は自分の人生をありのままで受け入れることが、苦しみから逃れる方法だと語ったのです。しかし、このような言葉を聞いても私たちはやはり「自分の人生に不幸なんかいらない。幸せだけがほしい…」と考えて、さらに自分で自分を追い込んでしまいどうにもならなくなってしまうのです。聖書を読むとそれはイエスの弟子であったペトロたちも同じであったと言うことが分かります。


②目の前の素晴らしい出来事を永遠にとどめたい

 今日の物語はイエスの弟子のペトロがイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)と自分の信仰を告白した物語から続いている箇所です。この後でイエスはこのように素晴らしい信仰を告白したペトロたちに自分がメシアとしてこれから何をされるのかと言う秘密を打ち明けられます。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(同21節)。ところがこの言葉をイエスから聞いたペトロはすぐに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)とその言葉を打ち消そうとします。そしてそのことでペトロはイエスから「サタン、引き下がれ」(23節)と言う厳しいお叱りの言葉までいただくことになったのです。

 このときペトロはメシアが苦しんだり、ましてや死んだりすることはあり得ないと考えていました。おそらくペトロは自分も救い主であるイエスの力を借りて、苦しみや死から解放された人生を歩みたいと願っていたのかも知れません。ですからそのイエスが苦しんだり、死んでしまうことはペトロには到底受け入れることのできないものだったのです。おそらくこの時のペトロたちは自分の人生には「苦しみ」も「死」もあってはならない不必要な出来事だと考えていたのでしょう。そしてこの物語の中にはそんなペトロたちの心情を表すような出来事が記されています。

 このときイエスの姿はペトロたち弟子たちが見ている前で栄光に輝きます。それとともに旧約聖書に登場する代表的な人物であるモーセとエリアがそこに現れ、イエスとともに語り合うと言う光景を彼らは目撃しました。そしてこの素晴らしい光景を目撃したペトロはイエスに「仮小屋を三つ建てましょう」(17章4節)と提案したのです。ペトロがこのように語ったのは、自分たちが経験した出来事をそのままでいつまでも留めておきたいと思ったからです。しかし、残念ながらこの出来事はペトロたちの願ったようには続きませんでした。なぜならすぐにイエスの姿はもとに戻り、モーセとエリアの姿も弟子たちからは見えなくなってしまったからです。

 いったい主イエスはこのとき、ペトロたちにこの出来事を通して何を教えようとされたのでしょうか。この四旬節の第二週の礼拝では私たちは救い主であるイエスの受難と死について、また私たちの人生に起こる苦しみや、死にはどのような意味があるのかついて少し考えてみたいのです。


2.十字架に向かう道

①イエスの受難と死を受け入れられないペトロ

 以前、読んだ作家の本の中で人生を山登りに例えて説明しているものがありました。だいぶ前に読んだ本なので正確な記憶かどうかもあいまいですが…。山登りでは息を切らし、汗を流しながら険しい山を登って目指す頂上に向かいます。これと同じように私たちも自分の人生で様々な困難な出来事を乗り越えながら山頂に向かいます。しかし、この作家が言いたのは私たちが目指す山頂にたどり着いた後のことです。実際の山登りでもそうですが、山頂に到達したあと、人はそのまま山頂に留まる続けることはできません。今度は登って来た道を引き返す、つまり「下山」しなければなりません。そしてこの作家は私たちの人生でも頂上から降りる「下山」の時が必ずやって来ると言います。山登りが登山から始まって、下山することで完成するように、私たちの人生も「下山」することで完成すると言うのです。

 私は実際の山登りには詳しくありませんが、その本では山登りは登るときよりも、下るときの方が大変だと書かれていました。人は登りの道で大方の自分の力を使ってしまっています。だから残された力で一歩一歩、慎重に山を下らなければなりません。そしてそれは人生の「下山」でも同じだと言うのです。

 おそらく今日の聖書の出来事は救い主として地上に遣わされたイエスの生涯にとって転換点のようなところで起こっていると言うことが分かります。今までたくさんの人の病を癒し、苦しんでいる者を助け、驚くべき奇跡を持って人々の目を引き付けて来たイエスの生涯が「登り」の人生であったとしたら、これからエルサレムに向かい、苦しみを受けて、最後に十字架で死なれると言うことになるイエスの歩みは山登りであれば「下山」の時期と言うことができます。しかし、弟子のペトロたちはこの下山の大切さを知りませんでした。その証拠に彼らはイエスがメシアとして苦しみを受け、十字架にかけられた死ななければならないと言う神の救いの計画を受け入れることができなかったのです。

 このときペトロたちは重大な誤解をしていました。それは「苦しみには意味がない」、「だから自分たちは可能な限り苦しみから逃れることが必要だ」と考えたことです。人間は死んでしまえばそれですべてが終わってしまいます。そうなれば今までその人生で払って来たすべての努力も労苦も水の阿波のように消えて、何も残らなくなってしまいます。だから死んではだめなのだとペトロたちは思っていたのです。


②旧約聖書の伝えるメッセージ

 このときイエスの姿は弟子たちの見ている前で驚くべき姿に変化したと福音書は語っています。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(2〜3節)。

 ここで起こったイエスの変化は本来神の子であるイエスがもっていた栄光の姿であると言えます。それと同時、イエスがこれから歩もうとする受難と死が、決して無意味なものではないこと、また死ですべてが終わるようなものではないことを教えています。イエスがこれから歩む受難と死の道は栄光に輝く勝利に至る道であることをこの変化は私たちに教えているからです。

 また、この出来事にはモーセとエリアと言う二人の人物が登場します。旧約聖書の中でモーセは神の律法を人々に伝える橋渡しをしたとても重要な人物として紹介されています。またエリアは神の言葉を人々に伝え、人々の心を神に向けようとした預言者の中でも代表的人物として紹介されています。ですからモーセとエリアはそのまま「律法と預言者」、つまり旧約聖書全体を表す人物であったとも考えることができます。同じ出来事を記したルカによる福音書はこのときのことを次のように記しています。

「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9章31節)。

 モーセとエリアはこのときイエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後、つまり受難と死の出来事を語っていたと言うのです。これは旧約聖書の伝える最も大切なメッセージこそがイエスの受難と死であることを私たちに教えるものだと考えることができます。

 ところがこの時、ペトロはもう一つ大きな誤りも犯していました。なぜならこのときペトロはイエスに「仮小屋を三つ建てましょう」と言っているからです。これはペトロがモーセとエリアとイエスと言う三人の人物を同じレベルの存在として判断したことを表しています。しかし、モーセとエリアは救い主であるイエスを私たちに伝えるために用いられた私たちと同じ人間でしかありませんでした。しかし、イエスは神から遣わされた救い主であり、神の独り子です。モーセとエリアは決して私たちを救うことはできません。しかしこのモーセとエリアが指し示した救い主イエスは私たちを救うことができるただお一人お方だと言えるのです。


③イエスの受難と死の意味

 このとき、この光景を永久にとどめておきたいと願うペトロたちの思いに反して、続けて光輝く雲が彼らを覆います。旧約聖書の中で雲は神がそこにおられることを示すしるしとして用いられています。つまり、このときその雲の中から聞こえてきた声はまぎれもなく神の声であることを表しているのです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)。

 マタイの福音書はこれと似た言葉が、イエスが洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けた時にも天から聞こえたことを記しています。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3章17節)。

 イエスの洗礼が救い主として遣わされたイエスの公生涯の最初であるとすれば、このときに聞こえた声は今まさにその人生の転換点に差し掛かったイエスの生涯の意味について神が説明してくださったと言葉であると言えます。つまり、これから起こるイエスの受難と死はイエスが地上で実現すべき、神の救いの計画にとって大切なものであることをこの雲の中から聞こえた声は説明しているのです。


3.私たちの人生を保証するイエス

 このようにイエスの姿が変わると言う出来事は救い主イエスのこれからの受難と死が、彼が救い主として与えられていた使命を果たすために重要なことであることを教えているのです。確かにイエスが苦しみを受け、十字架で死ぬと言う出来事は弟子たちの持っていた価値観では決して受け入れることができないものであったのかも知れません。しかし、弟子たちがすべきことはイエスが十字架にかけられることを思いとどまらせることではありませんでした。むしろそのイエスを通して実現されようとする救いの出来事を受け入れ、そのイエスに最後まで従うことが彼らには求められていたのです。

 私たちもまた「自分の人生に苦しい出来事は起こってほしくない」と考えます。また私たちの地上の死は私たちの生涯の歩みをすべて打ち消してしまうような、ある意味で敗北であると考えてしまっているかも知れません。しかし、神は私たちの生涯の「登り」の場面でばかりではなく、「下山」の歩みも私たちの生涯全体を通して実現する神の計画にとって必要であり、大切な出来事であることを教えているのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)。

 何度も語るようにこのローマの信徒への手紙を書いたパウロが「万事が益となるように」と語っているのは「すべてが自分にとって都合のいいように」と言う意味ではありません。それは神の救いの計画が私たちの生涯で通して実現するためのものであることを教えているのです。だか私たちの生涯で起こる出来事で意味の無いものは何一つなく、すべてが大切であることを私たちにパウロは教えているのです。

 そして救い主イエスの受難と死の歩みはこのパウロの言葉が真実なものになるためにも必要なものであったと言えます。なぜなら、主イエスの十字架の死がなければ、私たちの人生は死と滅びで終わるものであったからです。だからイエスの死はその私たちの死を変える大切な出来事であったのです。このようにイエスの受難と死の歩みがイエスの救い主としての使命を果たすために重要な出来事であったのと同じように、私たちの生涯に起こる出来事もまた、やがて私たちが受ける天からの祝福のために一つ一つが大切なことであることを今日の聖書のお話は私たちに教えていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子だけを連れて山に登られたとき、そこでどんなことが起こりましたか(1〜2節)。

2.この光景を目撃したペトロはイエスにどんな提案しましたか。ペトロはなぜそのような提案をしたのでしょうか(4節)。

3.光輝く雲がペトロたちを覆った後に彼らはどんな声をそこで聞きましたか(5節)。

4.このような体験をした弟子たちはどのようになりましたか(8節)。

その弟子たちにイエスは近づいて何をされ、何と語れましたか。(7節)。

5.この出来事を通してあなたはイエスについてどのようなことを知ることができますか。

2023.3.5「栄光に輝く受難の主」