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  4. 4月16日「あなたがたに平和があるように」

2023.4.16「あなたがたに平和があるように」 YouTube

ヨハネによる福音書20章19〜31節(新P.210)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


1.エルサレムの一室に閉じこもる弟子たち

①予想に反した弟子たちの行動

 以前、聖書の物語をアニメにしたビデオを見たことがあります。そのアニメの中で主イエスを十字架に付けて殺した張本人とされる当時のユダヤの大祭司カヤファが登場して、イエスの死の知らせを聞くシーンが描かれています。彼はその時「これで邪魔者はいなくなった。これからはすべてうまくいく」と微笑みながらささやくのです。実際に聖書を読んで見ても当時の宗教指導者たちが何よりも主イエスの存在を恐れていたことがよく分かります。だからこそ主イエスの死の知らせは彼らにとっては自分たちが安心できる良い知らせであったと言えるのです。

 ところが、そんな彼らに驚くべき知らせが再び伝えられます。それは主イエスを逮捕したときに蜘蛛の子を散らすように逃げ出して行った弟子たちが、こともあろうにエルサレムに戻って来て「十字架で死んだイエスが甦った」と人々に語り始めたと言うのです。「イエスが死ねばすべてはうまくいく」と思っていた人々はきっと驚いたに違いありません。なぜなら、彼らはイエスが死ねば彼に従って来ていた弟子たちは自然といなくなり、その集団は跡形もなくこの世から消えるはずだと考えていたからです。しかし、今やイエスに代わってその弟子たちの存在がユダヤ人の宗教指導者たちの脅威の的となり始めます。どうして彼らはイエスが十字架で悲惨な死を遂げたと言うのに、むしろ新しい力を得たかのように大胆に「主イエスは甦られた」と証言し始めたのでしょうか。今日の福音書の内容はこのときに弟子たちに起こった変化の原因を私たちに伝えようとしています。私たちはその秘密を今日の聖書から学ぶことができるのです。


②「恐れ」にとらわれていた弟子たち

 今日の物語は「その日、すなわち週の初めの夕方」と言う時間設定の言葉から始まっています。ここで言われている「その日」とは日曜日の朝早くに主イエスの遺体が葬られていた墓に女性の弟子たちが向かった日のことを示しています。そして彼女たちはそこで主イエスが復活されたことを天使から伝えられ、実際にその言葉の通りに墓から主イエスの遺体が無くなっていることを確認します。その上で彼女たちは復活された主イエス・キリストご自身と出会うと言う体験をしたのです。つまり今日の物語が起こった日は主イエスが復活された日曜日の夕方であったことが分かるのです(20章1〜18節)。

 福音書によれば復活された主イエスに出会うことのできた女性たちはすぐに、このことを弟子たちに知らせに向かったと言われています(18節)。このように主イエスの復活が起こった素晴らしい日曜日の出来事なのに、ここに記されている弟子たちの姿は全くその出来事とは無関係のような雰囲気をただよわせています。

「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。

 このとき主イエスの弟子たちは「恐れ」に捕らえられていました。主イエスが彼らの目の前で逮捕されて行ったとき、弟子たちは自分たちも主イエスの仲間として捕らえられてしまうことを恐れて、その場から逃げ出してしまったのです。その時に弟子たちが感じた「恐れ」はこのときも続いていました。しかもその弟子たちの抱いた「恐れ」は「主イエスが十字架にかけられて死んでしまった」と言う知らせを聞いてなお一層強まっていたのです。「きっとユダヤ人たちが自分たちを探し出して。そして殺そうとするに違いない」。彼らはこの時、自分を守るために必死になって自分たちのいる家の扉に鍵をかけ、誰も中に入ってこないようにしていました。しかし、だからと言って彼らから「恐れ」がなくなったわけではありません。彼らはこのときエルサレムの一室に籠って、この難から自分たちが一刻も早く逃れることができるように願いながらじっとしていたのです。

 そしてその弟子たちの前に復活された主イエスが姿を現わされます。復活された主イエスは弟子たちのいる部屋の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(19節)と彼らに語り掛けて下さったのです。この「あなたがたに平和があるように」と言う言葉は元々はヘブライ語で「シャローム」と言うもので、当時の人々が朝昼晩、人に出会うときにかわす挨拶の言葉と考えられています。しかし、主イエスはこの言葉を同じ場面でわざわざ二度も繰り返し語られています(21節)。このことから考えるとこの時、主イエスが語られた「あなたがたに平和があるように」と言う言葉には、挨拶の意味だけではなく、もっと特別な意味が込められていたと考えることができます。


2.弟子たちは何を恐れていたのか

 私たちが読んでいる新約聖書はヘブライ語ではなく、ギリシャ語で書かれています。ですからこのとき主イエスが弟子たちに向けて語られた「あながたに平和があるように」と言う言葉も、実際には「シャローム」と言う言葉をギリシャ語で翻訳した「エイレネー」と言う言葉で記されているのです。それではこのギリシャ語の「エイレネー」と言う言葉にはどのような意味があるのでしょうか。調べてみるとこの言葉には「心のおだやかさ」、「平安」、「安心感」、「存在することを徹底的にゆるされている肯定感」と言う意味が含まれていることが分かります。

 それではどうして復活された主イエスは真っ先に弟子たちに向かってこの「エイレネー」、つまり「あなたがたに平和があるように」と言う言葉を語る必要があったのでしょうか。その理由は先ほども説明しましたように、このとき弟子たちは強い「恐れ」に支配されていてどうにもならない状態にあったからです。だから主イエスは彼らを「恐れ」から解放するために、この「エイレネー」と言う言葉をまず語ったと考えることができるのです。

 しかし、弟子たちのこのとき感じていた「恐れ」の原因は実際にそれだけではなかったと考えることができます。そもそも聖書の記述に従って読めば、この日の朝、主イエスの復活の知らせは女性の弟子たちからすでに彼ら弟子たちに伝わっていたはずです。それなのになぜ彼らはなお強い「恐れ」に捕らわれ続けていたのでしょうか。もちろん、それは彼らが主イエスの復活という出来事を信じることができなかったと言うことを表しています。この時の弟子たちにとっても「十字架で死なれたイエスが甦る」と言う出来事は信じがたいものであったのです。

 その上でなお、弟子たちがこのとき抱えていた事情を考えてみると、弟子たちにはこのとき主イエスの復活を素直に心から喜ぶことができない理由があったことが分かるのです。それは彼ら自身が主イエスの前から逃げ出してしまったという深刻な失敗の出来事があったからです。弟子たちははかつて「主イエスと一緒に死のう」とまで語るような覚悟を持っていました(11章16節)。しかし彼らが実際にはユダヤ人を恐れて主イエスを置き去りにして逃亡してしまったのです。

 彼らは自分たちが犯してしまった失敗の深刻さを痛感していました。「自分たちは主イエスの弟子と言える資格をもはや持っていない」と考えていたのです。そんな彼らがどのような顔をして主イエスと会うことができると言うのでしょうか。「もし、主イエスが復活されたとしたら真っ先に裏切った自分たちを裁きに来られるに違いない」と彼らは思ったかも知れません。このような意味で言えば、彼らに伝えられた主イエスの復活と言う出来事が、彼らの抱く「恐れ」をなお一層深刻なものにしていたとも考えることができるのです。


3.平和があるように

 だからこそ復活された主イエスは弟子たちの前に現れた時に、真っ先に「エイレネー」つまり弟子たちに「存在することを徹底的にゆるされている肯定感」を与えられたと考えることができるのです。このとき主イエスは弟子たちに対して「何も心配することはない。私はそのままのあなたたちを受け入れている」と語り掛けてくださったのです。そしてそのときに、主イエスが弟子たちに見せられたものは「手と脇腹」(20節)、つまり十字架の上で主イエスが受けた傷跡でした。この傷跡はまぎれもなく十字架で死なれたイエスが今甦って弟子たちの前におられるということを示す証拠でもありました。そして同時にこの傷跡は、このときの弟子たちが抱いていた敗北感を癒し、彼らの心に平安を与える印でもあったと言えるのです。旧約聖書のイザヤ書はこの主イエスの傷跡の意味を次のように預言して語っています。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53章5節)。

 このように主イエスは恐れにとらわれていた弟子たちの心を十字架で受けた傷を示すことで癒され、彼らに本当の平和を与えられたのです。そしてその上で「彼らに息を吹きかけ」、「聖霊を受けなさい」(22節)と語り掛けられました。この聖霊は私たち人間に命を与える神の息吹を表しています(創世記2章7節)。つまり、弟子たちはこのとき主イエスの息吹によって新しい命を受けたのです。このように福音書は主イエスの弟子たちが復活された主イエスと出会うことによって全く変えられてしまった秘密を私たちに説明しているのです。彼らはこの時、復活された主イエスから赦しを受け、深刻な自分の人生に対する敗北感から癒していただき平安を受けることができたのです。そして主イエスの息吹を通して聖霊を受け、彼らは新しい命を受けて歩み始めたのです。


4.主イエスが与えてくださる平和

 さて、私たちがこの復活の日の夕方に主イエスの弟子たちに起こった出来事を読むとき分かってくることは、真の平和、「エイレネー」は私たちが努力して作り出したり、守るものではなく、復活の主イエスが私たちに与えてくださるものだと言うことです。このときの弟子たちが自分たちのいる部屋の扉に鍵をかけて必死に守っても、彼らから「恐れ」は少しも無くならず、むしろなお一層強まって行ったように、私たちは自分の力では自分の抱いている「恐れ」を解決することはできず、真の平和を得ることもできないのです。

 だからこそ主イエスはご自身が与えてくださる真の平和について次のような言葉を語って私たちに説明してくださっているのです。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。

 真の平和は主イエスが私たちに与えてくだる「恵み」と言うことができます。主イエスはこの平和を私たちに与えてくださるために十字架にかけられて命をささげられたのです。そして死に勝利して復活してくださったのです。私たちはこの主イエスによって赦され、受け入れていただくことでその心が癒され、恐れからも解放されることができるのです。

 しかし、私たちはこのことをいつの間にか誤解してしてしまっているような気がするのです。たとえば新約聖書のペトロの手紙一には次のような言葉が記されているのをご存じでしょうか。

「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(1章5節)。

 ここでペトロは私たちが「信仰によって守られている」と語っています。私たちをすべてのものから守るもの、つまり私たちを恐れから解き放ち、平和の内に生きることができるようにするものは主イエスが私たちに与えてくださった「信仰」だと言っているのです。それなのに私たちはこの言葉とは逆に必死になって自分の力で「信仰」を守ろうとしてはいないでしょうか。私たちを守るのは主イエスご自身であり、その主イエスが与えてくださった「信仰」なのに、それを忘れて、必死になって自分の心の扉に鍵をかけようとする愚かな誤りを私たちは犯していないでしょうか。

 主イエスは真の平和を私たちに与えてくださるために復活してくださったのです。そしてその主は天で今も生きておられ、そこから私たちに聖霊の息吹を送り続け、私たち一人一人の人生に関わってくださっているのです。主イエスは日曜日の夕方に集まっていた弟子がいた扉に鍵がかけられた部屋の真ん中に立ってくださったように、私たちの礼拝の場にもおいでくださり、聖書の言葉を通して今も私たちにも「あなたがたに平和があるように」と語り掛けてくださるのです。そして私たちの人生に聖霊を送って私たちを助けてくださるのです。

 私たちはたとえ私たちの人生にどのようなことが起こったとしても、決して私たちから誰も奪うことができない「平和」を復活された主イエスからいただいて、信仰生活を送ることができるようにされたことを心から神に感謝したいと思います。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.弟子たちは主イエスが復活された日曜日の夕方、どこで何をしていましたか(19節)。

2.この日、弟子たちの前に現れた復活された主イエスは彼らにどのような言葉を語りましたか(19節、21節)。

3.そのとき、イエスはこのとき弟子たちに何を見せられましたか(20節)。

4.主イエスは弟子たちに息を吹かけて何と言われましたか(23節)。

5.どうして弟子の一人のトマスだけは復活されたイエスに会うことができなったのですか(24節)。彼は「主を見た」と証言する仲間たちに対して何と反論しましたか(25節)。

6.復活されたイエスはこのトマスの前にいつ、どのような形でご自身を現わされましたか(26節)。

7.そのとき主イエスはこのトマスに何と語り掛けられましたか(27〜29節)

2023.4.16「あなたがたに平和があるように」