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  4. 4月2日「十字架につけられた救い主 」

2023.4.2「十字架につけられた救い主 」 YouTube

マタイによる福音書27章32〜54節(新P.59)

32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、

34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。

37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。

43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


1.主イエスの死=高価な恵み

 今日の礼拝はこれまで送ってきた四旬節の季節を締めくくる「受難週」の礼拝をささげます。この受難週の礼拝ではイエス・キリストの十字架の死を取り扱う聖書の物語が取り上げられ、その死の意味について私たちは学ぶこととなります。以前にもお話したように初代教会では四旬節の40日間を新たに教会に加わる洗礼志願者の訓練のために用いていたと言われています。当時のキリスト教会はヨーロッパ一帯を支配していたローマ帝国の迫害のもとにありました。もし、その人がクリスチャンであると分かれば、ローマからさまざまな迫害を受け、時には命さえ奪われる可能性もありました。ですからある意味で、洗礼を受けてクリスチャンになると言うことは命がけの決心を伴うものであったと考えることができます。そんな犠牲を払っても、なぜ自分たちは洗礼を受けるのか。その理由を洗礼志願者たちは事前によく理解した上で新たな生活を始める必要があったのです。だからこそ、当時の教会は四旬節の期間を使って洗礼志願者たちを訓練したのです。

 教会では主イエスを信じて生きようと決心する者たちに洗礼を授けます。人々に洗礼を授けることは主イエスが教会に言い残した大切な命令でもあったからです(マタイ28章18〜20節)。この洗礼は主イエスを信じる者が罪の赦しを受けて、神との交わりを回復し、新たな命を受けたことを目に見える形であらわす儀式であると言うことができます。ですから、洗礼を受けた者はこのすべての恵みを実際に神からいただける保証を受けたともいえるのです。そして洗礼を受ける者に与えられるすべての恵みの根拠が主イエス・キリストの十字架の死とその復活にあることを今日の聖書の物語も私たちに教えています。福音書はこの恵みは主イエス・キリストの命と引き換えに私たちに与えられる「高価で尊い恵み」であることを知らせているのです。


2.不当な裁きを受けるイエス

 今日の聖書の箇所を記した福音記者マタイは主イエス・キリストがどのようにして十字架の死に至ったのか、またその死の結果によってそこで何が起こったかについてこの27章全体を使って詳しく説明しています。

 まず、主イエスの死の原因を作ったのは当時のユダヤの宗教指導者たちであったことをマタイは記します(1節)。彼らは主イエス・キリストの出現によって自分たちから民衆が離れて行き、その指導力が低下することを恐れていました。ですから彼らは当時、主イエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダを金で買収し、彼を使って主イエスを捕まえる計画を実行します。その上で、彼らは主イエスに「神を冒涜した」と言う罪をなすりつけて死刑にしようと企てたのです。

 ところが当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあって、人を捕らえて死刑にする権限はユダヤ人たちには許されていませんでした。その権限はローマの役人にしか与えられていなかったのです。そこでユダヤ人の指導者たちは当時、ユダヤの総督であり、ローマの役人であるピラトに主イエスを引き渡し、「死刑にするように」と要求したのです。しかし、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを訴えるためにでっち上げた「神を冒涜した」と言う罪は、ローマの法律にはそれに該当する罪がありませんでした。ですから彼らは主イエスに「ユダヤ人を先導して、ローマに反逆する者」と言う新たな罪をでっち上げてピラトに対してその罪で主イエスを死刑にするようにと求めたのです。

 ピラトが主イエスに対して「お前がユダヤ人の王なのか」(11節)と問うているのは、当時のユダヤを支配していたローマ皇帝に代わって、主イエスがユダヤの支配者となろうとする反逆の罪を犯しているのかということを確かめているのです。おそらくピラトは最初から主イエスがそのような罪を犯した罪人ではないことを確信していたようです。ピラトはこの問題はユダヤ人の内で起こっている内輪もめのようなもので、自分はそのもめごとに巻き込まれてしまっていると考えていたはずです。ですから、マタイの記事はピラトが主イエスを釈放しようと考えたこと、それにもかかわらずユダヤ人たちの反対に会い、どうしても主イエスを十字架にかけざるを得なかったことをこの物語の中で記しています。だからここでピラトは「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(24節)と語っています。そしてこのピラトの言葉を受けてユダヤ人たちは「その血の責任は、我々と子孫にある」(25節)とまで語ったと言うのです。

 少し横道にそれますが。ヨーロッパなどのキリスト教国の中に存在するユダヤ人差別の原因を作ったのは主イエスを十字架にかけて殺した責任はユダヤ人たちにあると記した福音書の影響があると考える人たちがいます。しかし、それはこの福音書を書いたマタイの意図を誤って読むことによって起こったことだと言ってよいのではないしょうか。なぜならば、この福音書を記したマタイの関心は同胞であるユダヤ人が主イエスを信じて救われることにあったと考えることができます。だからマタイの福音書はユダヤ人たちがよく知っている旧約聖書の言葉をたくさん使って主イエスの福音を彼らに伝えようとしたのです。そしてマタイはその旧約聖書の言葉の意味を正しく理解することができずに、主イエスを十字架にかけてしまった人々と同じような過ちを犯すことがないようにと言う願いから、この受難の物語を記したと考えることができるのです。

 福音書はそれを証明するように、確かに主イエスを十字架にかけて殺す原因を作ったのは当時のユダヤ人の指導者たちでしたが、その本当の原因を作ったのは神に背きつづけて生きる私たちすべての人間の罪のであると語るのです。


3.十字架から降りないイエス

 そしてそのことを私たちに教えるために主イエスが十字架にかけられたときの姿をマタイは福音書の読者たちに伝えています。このとき主イエスはピラトの部下であったローマ兵たちによって十字架を担がされ、エルサレムの町の郊外にあったゴルゴダと言う場所に連れていかれました。主イエスはそこで十字架にかけられて処刑されたのです。十字架刑は当時の処刑方法の中では極めて残忍なものであったと考えられています。なぜなら十字架刑は罪人を生きたまま十字架にくぎ付けして、その罪人がその十字架で弱って死んでいくのを待つ、時間のかかる処刑方法だったからです。福音書はこのときに十字架にかけられた主イエスに対して、その周りに集まった人が何を語ったのかを次のよう記しています。

 その場を通りかかった人たちは主イエスに対して「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)と叫びました。

 また、主イエスを殺そうとしたユダヤ人の指導者たちは「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(42〜43節)と語って主イエスを侮辱したのです。

 かつて主イエスは荒れ野で悪魔の誘惑を受けたことがありました(マタイ4章1〜11節)。そのとき悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と語り掛けたと言われています(5〜7節)。主イエスが本当に神の子なら神が助けてくれるはずだと悪魔は語ったのです。そして主イエスにその姿を見せて自分が神の子であることを証明して見るようにと誘惑したのです。

 このときの「十字架から降りろ」と言う民衆やユダヤ人の指導者たちの言葉はこの荒れ野での悪魔の言葉と全く同じものであったことをマタイは記しているのです。しかし、主イエスは悪魔の誘惑に対しても神殿の屋根から飛び降りることがなかったように、ここでも十字架から降りることはありませんでした。そしてマタイはむしろ「十字架から降りない」ことこそが主イエスが「神の子」であることを示す証拠であると言おうとしているのです。

 主イエスは十字架から降りられなかったのではありません。主イエスは自分の意志で十字架から降りなかったのです。それは主イエスが十字架にかかって死なれることが、ユダヤ人の陰謀のせいでも、ピラトの誤った裁判の結果でもなく、天の父なる神が立てられた計画を実現するためのものだったからです。

 私は子どものころに「イエス・キリスト」と言う題名が付けられた世界の偉人の伝記を記す本を親から買ってもらって読んだことがあります。そのとき、その本を読んだ私は怖くなって二度とその本を開くことができなくなりました。おまけにその本の中綴じのところには印刷所で誤ってついたものなのか赤インクの染みがあって、子供だった私は何かその本が呪われているように思えたのです。なぜそんなに当時の私が恐怖を抱いたのでしょうか。それは主イエスの死の意味が分からなかったからです。人を愛して、たくさんの人々に善いことをして来たはずの人がなぜ、無実の罪をでっちあげられて十字架で殺されてしまうのか。私にはそれが理不尽でならなかったのです。しかし、福音書は主イエスの死が理不尽で悲惨な出来事であったと言うのではなく、むしろ神の計画に従ったものであり、その主イエスの死によって私たちがすべての人間が救われることができたことを教えるのです。


4.イエスの十字架の死によって起こった出来事

①取り除かれた罪の障害物

 主イエスの十字架の死を通してその時に起こった印象的な出来事を二つ福音書は記して、この出来事が私たち人間を救うための神の計画によるものであったことを教えています。

 その一つはエルサレム神殿の垂れ幕が上から下まえ真っ二つに裂けたと言う出来事です(51節)。この垂れ幕は神殿の中にあった聖所と、さらにその最深部にある至聖所を区切るために設けられていたものです。そしてこの至聖所は大祭司が年に一度だけ入ることが許された場所でした。つまり、当時の人々は至聖所に神がおられ、そこには普通の人間は決して近づくことができないと信じていたのです。そしてその神殿の垂れ幕は神と人間の間にある隔てを象徴するものだったと考えることができます。つまり、主イエスの十字架の死によってこの神殿の垂れ幕が裂けたということは、神と私たちとの間に障害となっていたものが取り除かれたことを表しています。そして私たちも神と共に生きることができるようになったと言うことを示しているのです。主イエスの死によって取り除かれた障害物こそ、私たち人間が抱えている罪の問題です。イエスの十字架の死はその罪と言う障害物を取り除いて、私たちが永遠に神と共に生きることができるようになるために実現したことをこの出来事は教えているのです。


②主イエスの復活と私たちとの関係

 第二に聖なる者たちの体が生き返り、都に住む人々の前に現れたという出来事がここに記録されています(51〜53節)。これは大変に不思議な出来事ですがマタイはきわめて簡単にこのことを記しています。ですから、私たちもことさらこの出来事を詮索する必要はないのかも知れません。ただ、マタイはこの出来事が起こったときを「イエスの復活した後」(53節)と記しています。わざわざ主イエスの十字架の死を伝えている場面で、実際に起こったのはイエスの復活の後のことなのにマタイがこのように記した事情は、イエスの十字架の死と復活が密接な関わりの中にあることを私たちに教えるためです。そして聖なる者たちが生き返ったと言う出来事はイエスの十字架と復活によって主イエスを信じるすべての人に復活の希望が与えられていることを示すものだと言えるのです。

 この出来事が示すように主イエス・キリストの十字架の死によって罪の障害が取り除かれ、私たちは神と共に生きることができるようになり、永遠の命を与えられたのです。そして私たちには復活の希望が与えられています。私たちの受ける洗礼はこの神の救いが確かに私たちに与えられたことを表す印です。そして私たちがこの素晴らしい救いにあずかることできるのは、何か私たち自身が優れたことを神の前でしたからではありません。神から与えられる救いは私たちのなした功績に対する神からの報いではないのです。私たちが受ける救いは私たちの主イエス・キリストが十字架の死と復活を出来事を通して神の立てられた計画を実現してくださったからこそ私たちに与えられたことを聖書ははっきりと教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ユダヤ人の指導者たちは何のためにイエスを縛り、総督ピラトのもとに連れて行き、引き渡したのですか(1〜2節)。

2.ユダヤ人たちはイエスが何の罪を犯しているとピラトに訴えたのですか(11節、37節)。

3.なぜ、ピラトは無実の罪で訴えられていたイエスを処刑することになってしまったのですか(15〜26節)。

4.イエスがゴルゴダで十字架にかけられたときそこを通り過ぎた人々やユダヤ人の指導者たちはイエスに対して何を語りましたか(39〜43節)。

5.イエスが十字架上で息を引き取られたとき、どのようことが起こったと福音書は記していますか(51〜54節)

2023.4.2「十字架につけられた救い主 」