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2023.4.23「一緒におとまりください」 YouTube

ルカによる福音書24章13〜35節(新P.160)

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

14 この一切の出来事について話し合っていた。

15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


1.望みを失って家路に着く

 復活された主イエスとの出会いによって弟子たち生き方が全く変わってしまった。そのような出来事について私たちは聖書を通して学んでいます。先週はエルサレムにあった家の一室に恐怖に支配されながら集まっていた弟子たちの真ん中に復活された主イエスが現れた出来事につい学びました。主イエスはそこで弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われ、ご自身が十字架の上で負った手と脇腹の傷を示されます。するとそのことを通して弟子たちの傷ついた心が癒やされ、彼らは主イエスから聖霊の息吹を受けることで新しい命を与えられたのです。

 今週の聖書箇所の出来事も「ちょうどその日」(13節)と言う時間設定の言葉で始まっています。このルカによる福音書はこの言葉の書かれる直前で、日曜日の早朝にイエスの葬られた墓に向かった女性の弟子たちの前に、輝く衣を着た二人の人が現れて主イエスが復活されたという知らせを伝えたことを記しています。この後、女性の弟子たちはすぐにエルサレムに集まっていた弟子たちのもとに向かい、この知らせを彼らに伝えています。その上で弟子のペトロが主イエスの墓に行ってみると、女性たちの言ったとおりにその墓に主イエスの遺体がないことを確認しているのです(24章1〜12節)。

 今日の物語に登場するのは先週のお話で登場した「十一人の弟子」(十二弟子からイスカリオテのユダを除く)には含まれない別の「二人の弟子」です。聖書はこの二人の弟子の内の一人の名前を「クレオパ」(18節)と記しています。しかし、もう一人の弟子が誰であったのかは説明されていません。そのためある説教者はこのもう一人の弟子はクレオパの妻で、この後に主イエスが泊まることになった家はエマオの村にあった彼らの自宅ではなかったかと説明しています。この推測が正しいのかどうかはわかりませんが、このとき二人の弟子はエマオと言う村に向かう途中であったことははっきりしています(13節)。おそらくこのエマオこそがこの二人の出身地であり、彼らはこの時エルサレムから自分の家のある故郷に帰る途中であったと考えることができます。

 しかし、この二人の弟子の故郷に帰る足取りは決して軽いものではなかったと言うことがこの物語を読むと分かってきます。なぜなら、彼らは主イエスが十字架で殺されてしまった出来事によって、他の弟子たちが恐怖に捕らえられて自分たちのいる家の扉に鍵を閉めてしまったのと同じように、彼らもまた危険なエルサレムから逃げ出して、自分たちの家に戻る途中だったからです。

 この後の彼らの話の内容を見ると彼らはすでに主イエスが復活されたというニュースも知っていたようです。しかし、そのニュースは彼らから恐怖を取り去る力をまだ持っていませんでした。なぜなら、彼らは主の復活の出来事をまだ半信半疑、いえ、ほとんど信じることができていないような状態にあったからです。そして物語はこの二人の弟子たちのところに復活された主イエスご自身が現れるという出来事を語りだします。このとき道の途中で話し合い論じ合っていた二人の弟子の間に入って、主イエス自身がその話に加わって行くのです。しかしこの二人の弟子は自分たちの話し合いに突然割り込んできた方が復活された主イエスだとは気づくことができませんでした。どうしてこの二人の弟子は自分たちと共におられる方が主イエス本人であることに気づけなかったのでしょうか。聖書はその原因がこの二人の弟子の側にあったことを次のように教えています。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。

 どうしてこの二人の弟子の目は遮られて、その方が復活された主イエスだと気づくことができなかったのでしょうか。そしてその彼らはどのようにして自分たちと共におられた方が主イエスだと気づくようになったのでしょうか。そのことについて私たちは聖書の言葉に従いながら少し考えて見たいと思うのです。


2.捜しているところが違う

①目が遮られていて

 まず、この二人の弟子の「目が遮られていて、イエスだと分からなかった」と言うことは決して彼らの肉眼の目が閉ざされていたと言う意味ではありません。これは彼らの心、あるいは霊的な目が閉ざされていたと言うことを表しているのです。私たちはなぜ、主イエス・キリストを信じることができたのでしょうか。実は私たちの心の目も以前はこの二人の弟子たちのように閉ざされていて、主イエスを信じることができなかったのです。しかし、復活された主イエスが天から聖霊を送って私たちの心の目を開いてくださったことで、私たちは主イエスを信じることができるようになったのです。どんなに聖書の知識をよく知っていても、主イエスを信じられない人はたくさんいます。主イエスが生きておられた当時のユダヤ人たちはその代表です。それでは信じる人と信じない人の間にはどのような違いがあるのでしょうか。その人がもっている能力に違いがあるのでしょうか。そうではありません。決定的なことは主イエスがその人の心の目を開いてくださるかどうかにかにあるのです。だからこの二人の弟子も主イエスによってその心の目が開かれるまでは、自分たちと共におられる方が主イエス本人であることに気づくことできなかったのです。


②主イエスに対する誤った期待

 しかし、聖書はこの二人の目が遮られていた原因について私たちに興味深い内容を紹介しています。それは第一に彼らは主イエスがこの地上に救い主として何をしに来られたかを正しく理解していなかったことです。この二人は主イエスとの会話の中で次のような言葉を語っています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。この言葉から分かることはこの二人の弟子は主イエスが救い主として来られたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の手から自分たちを救い出して、旧約時代のダビデ王のようにイスラエルと言う国を再建するためだと考えていたことです。彼らは主イエスの政治的リーダーシップのもとでイスラエルの民が立ち上がり、ローマ軍に勝利するという期待を抱いて主イエスに従って来たのです。しかし、その主イエスはそのローマ帝国の手で十字架にかけられて、悲惨な最後を遂げました。ですから二人はこのことで希望を失ってしまったために故郷に戻るしかなかったのです。

 私たちもまた、救い主イエスに様々な期待を持って信仰生活を送っています。それは決して悪いことではありません。しかし、もし私たちが主イエスに抱いている期待が間違っていたとしたら、私たちもまた自分の信仰生活の中で主イエスを見失うと言うことが起こる可能性があります。このように二人の心の目を遮っていたのは、この誤った主イエスへの期待が原因であったと聖書は教えるのです。


③生きている方を死んだ者の中に捜す

 また、彼らの心の目を遮っていたもう一つの原因は、弟子たちが主イエスの復活についての知らせを聞いたときに、どのような反応をとったかと言うところに表されています。そのことについて二人は次のように語っています。

 「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(22〜24節)

 結局弟子たちは、主イエスの葬られていた墓に行って、復活された主イエスを見つけることができなかったと言って戻って来たと言うのです。しかし、このような行為が誤りであることは女性の弟子たちが主イエスの墓に行ったときに出会った輝く衣を着た二人の人がすでに指摘しているのです。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5〜6節)。

 この言葉に反して弟子たちは再び、復活された主イエスを探しに墓にやって来る、死者の中で生き返った主イエスを捜すという誤りを犯しているのです。私たちがもし、私たちの持つ経験や、人間の作り出した科学の力によって主イエスの復活を考えようとするなら、それは「死者の中に捜す」と言うことになるのです。それでは結局、私たちは主イエスの復活を受け入れることができなくなってしまいます。このように二人の弟子が自分たちと共におられる方が主イエスだと分からなかったのは、彼らの犯した過ちが、彼らの目を遮る原因になったと考えることできるのです。


3.二人の目が開かれる

①聖霊の働きによって「心が燃える」

 聖書に登場する復活された主イエスの姿はある意味でとても目立たない形で表現されています。たくさんの人々が集まる場所で自分が死から甦った姿を見せれば大騒ぎとなり、たくさんの人々に影響力を行使できるかも知れません。しかし、実際の主イエスは限られた弟子たちの前に現れるという行動をとられます。これはおそらく復活された主イエスに出会うためには信仰が必要であるということを私たちに教えるためだと考えることができます。

 ここからは二人の弟子の遮られていた目が開かれて、自分たちと一緒におられる方が主イエスだと分かるまでの経過を追って考えてみましょう。まず、二人はエマオに向かう道の途中で主イエスについての話を論じ合っていました。そしてそこに復活された主イエスが現れ、彼らと合流して話しに加わります。最初、主イエスは「話しているのは何のことか」(17節)と二人に問いかけられています。そしてしばらく二人の語る話に耳を傾けられているのです。そしてこのとき語られた二人の話から彼らがどうして復活された主イエスの姿を見失ってしまったかと言う理由が明らかにされています。なぜなら、彼らは復活された主イエスを自分の誤った期待を通して、また死んだ者を探すように自分の限られた経験や人間の知識の中で捜そうとしたからです。

 そこで復活された主イエスは二人に「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)と言われています。本当の主イエスの姿を知り、その復活の姿に出会うためには聖書の言葉の中で主イエスを捜す必要があることをこの言葉は私たちに教えています。二人の弟子はこのときのことについて後になってから「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と語っています。私たちの遮られた心の目を開くことができるのは、復活された主イエスが天から遣わしてくださる聖霊です。「わたしたちの心は燃えていた」と言う言葉はこのとき聖書の言葉を聞く二人の心に聖霊が確かに働かれていたことを表しています。私たちが聖霊の働きにあずかるためには断食祈祷院のようなところに行って何か特別な修行を積む必要はありません。聖霊は聖書を読み、その言葉の中に主イエスを捜し求める者たちに働いてくださるからです。

②一緒にお泊り下さい

 また、今日の物語の中で二人の弟子の目が開かれる決定的な瞬間は食事の席で主イエスが賛美の祈りをささげ、パンを裂くと言うところで起こっています(30節)。そしてその出来事が起こるきっかえは、なおも先に進もうとする主イエスを二人の弟子が「一緒にお泊り下さい」(29節)と強く引き留めたことによるのです。ここから復活された主イエスは「主イエスと一緒にいたい」と強く願う者たちにご自身の姿を現わしてくださると言うことが分かるのです。

 復活された主イエスが私たちと共に生きてくださると言うことは私たちの認識を超えた確かな事実であることを聖書は教えています。私たちの肉眼の目では見えませんが復活された主イエスは確かに私たちと共に生きてくださるのです。この関係は私たちの心がどのような状態になったとしても決して変わることがありません。主イエスは私たちの信仰が未熟だからと言って、私たちの元を離れる方ではないのです。ですから、私たちはそのようなことで無用な心配する必要はないのです。

 しかし、聖書は私たちと共に生きて下さる主イエスを私たちの心の目で確かめ、またそのことを通して平安を受け、また喜びに満たされる方法をここで教えているのです。それは私たちが聖書の言葉の中に主イエスを捜し求める方法です。また、礼拝に出席してその御言葉に耳を傾け、主イエスが私たちのために定めてくださった聖餐式に参加することです。復活されたイエスは「一緒にお泊り下さい」と強く願った二人の弟子たちのように、聖書の言葉や教会の礼拝と言う神様が与えてくださった「恵みの手段」に積極的にあずかろうとする私たちの心の目を開いてくださるのです。そして私たちはその心の目を通して復活された主イエスと出会うことができるようにされるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.どうしてエマオに向かう二人の弟子は、自分たちに近づき話しかけて来られた方が復活された主イエスだと分からなかったのでしょうか(16節)。

2.このとき語れた二人の弟子の言葉から彼らが主イエスに対してどのような期待を持っていたことが分かりますか(18〜24節)。この二人の弟子に対して復活された主イエスは何を説明されましたか(25〜27節)。

3.エマオの村に近づき、なおも先に行こうとされる復活された主イエスに対してこの二人の弟子は何を願い求めましたか(28〜29節)。

4.この二人の目が開き、一緒におられる方が主イエスだとわかったのはどのようなときでしたか(30〜31節)。

5.このことが起こった後に二人の弟子は主イエスが道の途中で語りかけて下さったときに起こったどんなことに気づきましたか(32節)。

2023.4.23「一緒におとまりください」