2023.4.30「良き羊飼いイエス」 YouTube
ヨハネによる福音書10章1〜11節(新P.186)
1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2 門から入る者が羊飼いである。
3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
1.聖書の読み方
①現代とは違った環境
私たちはこれまで復活された主イエスと出会うことで自分の人生が全く変わってしまった弟子たちの話について学んで来ました。聖書は復活された主イエスがその後に天に昇られ、今もそこで生きておられると言うことを教えています。そして主イエスを信じる者たちといつも一緒にいて下さるとも教えてくださっているのです。それでは、今も生きて天におられる主イエスは私たちの毎日の生活にどのように関わってくださっているのでしょうか。そのことについて私たちは主イエスが語ってくださったお話から学びたいと思うのです。
まず、今日のお話では主イエスと私たちとの関係が羊飼いと羊との関係を通して教えられています。そこで私たちが主イエスの言葉を誤解することなく正しく読むためには、この羊飼いと羊の関係を聖書の時代に遡り、主イエスが生きていたイスラエルの環境を通して理解する必要があると思います。なぜなら、当時の羊飼いと羊の環境は私たちがテレビやいろいろなところで知っている近代的な牧畜業の環境とは大きく違っているからです。この当時の羊飼いは羊を自分が経営する牧場で飼う現代の牧畜業とは違って、むしろ羊の食べる草を求めてその羊たちを連れて旅を続ける「遊牧」と言う形で羊飼いは生活していたからです。
今日の部分ではまず「羊の囲い」とかその囲いの中に入るための「門」と言う言葉が主イエスのお話の中に登場しています。調べてみると当時の羊飼いたちは自分たちが羊に餌を与えるために連れて行く場所に、石などを積んで囲いを作り、夜になると獣や盗人から羊を守るためにその囲いの中に入れたと言われています。実はその囲いが羊飼いの巡り歩くあちこちの場所に作られてていて、羊飼いであればその囲いを自由に利用することができたと言うのです。
この主イエスのお話ではこの囲いの中にいる羊を羊飼いが名前を呼んで連れ出すという表現が記されています。これはこの囲いが羊飼いたちが共同で使う場所だったので、同じ囲いの中に別々の羊飼いの飼う羊が一緒に入れられていました。だから、羊飼いはこの囲いから自分の管理する羊を連れ出すために彼らの名前を呼んで連れ出す必要があったのです。また、羊たちも自分の羊飼いの声を知っていてその羊飼いの後について行くと言うことになります。ですから現代のように決められた場所で決められた羊たちだけを管理するような環境を念頭に置いてしまうとこの主イエスのお話はわからなくなってしまう可能性があります。
②ファリサイ派の人々の犯した過ち
また、主イエスのお話を正しく理解するためにさらに重要なのは今日のお話がなぜイエスによってここで語られているのかを知ることです。そしてその事情を知るために聖書の文脈を調べることが大切になって来ます。この文脈を無視して聖書の言葉を読むと、聖書の言葉はその人の都合のいいように何通りの意味にも解釈されることになりかねません。これでは私たちは聖書から私たちの人生を正しく導いてくださる神の言葉を聞くことができなくなってしまいます。
今日のお話の中で「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(6節)と言う言葉が記されています。ここからこのお話を主イエスから聞かされていたのは「ファリサイ派」と呼ばれる人々であったことが分かります。それではなぜイエスはこのようなお話を「ファリサイ派」と呼ばれる人々に語られたのでしょうか。その理由はこのお話の直前に記されている物語を読むことで理解することできます。
ヨハネによる福音書は9章の部分で生まれつき目の見えなかった人が主イエスの御業によって目が見えるようになったと言うお話を紹介されています。このお話の中でファリサイ派の人々はこの奇跡が行われた日が「一切仕事をしてはいけない」と律法で決められている「安息日」であることを問題にして、主イエスはこの安息日の戒めを破った「罪人」と告発するのです。そして彼らは目が見えるようになった人にも主イエスが安息日の掟を破る「罪人」であることを認めるように迫りました。ところが、目が見えるようになった人は自分が経験した事実に基づいて主イエスは「神のもとから来られた方」だと主張して、ファリサイ派の人々の怒りを買ってしまうのです。そして結局、ファリサイ派の人々はこの目が見えるようになった人をユダヤ人の共同体から追放してしまったのです。
このたとえ話で羊飼いは羊の囲いの門から出入りするが、盗人や盗賊はそうではないと言うお話が語られています。その上で主イエスは「わたしは門である」(9節)と言っておられます。この言葉を通して分かることは神が私たちのために遣わしてくださった救い主イエスを「通らない」者たちには羊を本当の命に導く力はないと言うことが語られているのす。つまりこのお話を聞かされているファリサイ派の人々は救い主イエスを拒否することで、自ら羊を導く羊飼いとしての資格を失っててしまったことを教えているのです。
2.羊飼いであるイエス
①私の名前を呼んでくださる
さて、主イエスは「わたしは良い羊飼いである」(11節)とここで語られています。ここからは「良い羊飼い」である主イエスがどのような形で私たちの人生に関わってくださるかについて考えて見たいと思います。主イエスは次のように教えています。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(3節)。
まず、私たちの真の羊飼いである主イエスはその羊の名前を呼んで彼らをご自分のもとに連れ出されると記されています。9章に登場する生まれつきの盲人は人々から「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)と言うような話題の的になっていました。それは人々から彼が「不幸な人間」であり、「なぜこんな人が生まれて来たのか」と考えられていたからです。しかし、人々には理解できなかったこの人の人生の秘密を主イエスは明らかにしてくださいました。「神の業がこの人に現れるためである」(3節)。なぜなら、彼はこの人生の問題を通して主イエスと出会い、その主イエスの羊とされたからです。
私たちが主イエスに出会い、この方を救い主と信じるようになるきっかけはそれぞれ違うかも知れません。しかし、それでも意外と多くの人は自分の抱えていた人生の問題の答えを求めて聖書に出会い、救い主イエスを知ったと言う人も多いのではないでしょうか。この世の誰もが答えることのできない私たちの抱えている人生の問題に主イエスだけは明確な答えを持っておられるのです。そして私たちはその人生の問題を通して主イエスの元に導かれたのです。そのような意味で私たちの抱える人生の問題こそが私たちを呼んでくださった主イエスの声であると考えることできます。主イエスはこのように私たちの人生の問題を通して私たちをご自分のもとに呼んでくださる方なのです。
②わたしをよく知ってくださっている
今日の箇所のすぐ後の部分で主イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)と語られています。私たちの名前を知り、私たちを呼びだしてくださる真の羊飼いである主イエスは私たちのことを「知って」くださっていると言うのです。だから私たちの羊飼いである主イエスは私たちのことを私たち以上によく知っておられるのです。
聖書が私たちを羊にたとえているのは、羊がとても弱い動物であると言う意味があります。羊は自分の力で自分を守ることができません。自分が生きていく糧も自分では見つけることができません。だから、羊飼いがいなければどうにもならないのです。なぜなら、羊飼いは羊をすべての災いから守り、羊が安心して暮らせるようにと日々世話を焼いてくれる存在だからです。そして良い羊飼いは羊一匹一匹の性格をよく知っていて、その性格にあわせて羊を導くと言われています。復活された主イエスも同じように私たちをよく知ってくださり、私たちをふさわしい方法で私たちの人生を導いくださるのです。そしてこの良い羊飼いは私たちに何が必要なのかも知っていてくださるのです。
だから主イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)と語られています。主イエス・キリストは私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。それは私たちを豊かな命に導くためであり、私たちに永遠の命を与えるためなのです。使徒パウロはこの真の羊飼いに導かれる私たちの人生について「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)と語っています。この世に生かされている私たちの人生はそれぞれ違います。なぜなら、私たちのことをよく知ってくださる真の羊飼いである主イエスは私たちに最もふさわしい人生を与えて、私たちを導いてくださる方だからです。残念ながら私たちは自分の人生に起こる出来事の意味を今は良く知らされていません。「なぜ、こんなことが起こるのか」。そのように思わざるおえない出来事を私たちは自分の人生で体験します。しかし、良い羊飼いである主イエスはそれらの出来事を用いて、私たちを必ず豊かな命へ、永遠の命に導いてくださる方だと言えるのです。このように私たちの人生を良き羊飼いである主イエスが導いてくださると信じることは、私たちの人生に勇気と希望を与えるものとなるのです
3.羊はどうすればよいのか
さて、聖書はこのように私たちのことをよく知ってくださっている救い主イエスが良い羊飼いとして私たちに与えられていることを教えています。それではその主イエスの羊である私たちはいったい、どうすればよいのでしょうか。先ほども言いましたように羊はとても弱い動物で、自分の力では自分を守ることができません。ですから羊が自分を守るためにできることは良い羊飼いに従うことしかないのです。
まず、私たちは囲いの門を通って来ない者たちを警戒する必要があります。その者たちがどんなに私たちに都合のよいことを語って私たちを招こうとしても、彼らの目的は「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」のです。囲いの門を通らない者たちとは主イエスを救い主とはしない人々のことです。主イエスがこのお話をされたときには律法主義を振りかざして、主イエスを「罪人」と決めつけたファリサイ派の人々がそのような人でした。現代社会で、私たちはファリサイ派の人々の教えに惑わされることはないかも知れません。しかし、救い主イエスを否定して、「もっと優れた教えがある」と語る人たちは今でも存在しています。だから、私たちはそのような人々の教えに警戒する必要があるのです。
羊は自分を呼ぶ羊の声に従います。現代の日本では「宗教」や「信仰」がますます誤解されているような気がします。宗教のために「お金をだまし取られた」、「一生をダメにされた」という被害者の語る言葉が毎日のように伝えられているからです。残念ながらそのような宗教が私たちの周りに存在することも事実だと思います。主イエスと言った通り、「門」を通らないで、羊を自分の食い物にしようとする偽りの宗教が人々を惑わし続けているのです。
そのような現実の中で、私たちに一番必要なことは私たちの良き羊飼いである主イエスの声に従っていくことであると言えます。私たちが毎週礼拝に集い、聖書の言葉に耳を傾けているのはこの良き羊飼いの導きを受けるためです。また、私たちは毎日、聖書の言葉に耳を傾けます。なぜなら、主イエスは聖書の言葉を通して私たちを正しい道に導いてくださるからです。
主イエスの言葉に従うことは「マインドコントロール」とは違います。なぜなら、主イエスは私たちを守り、私たちを豊かな命に導いてくださる良い羊飼いだからです。私たちはこの主イエスの言葉に従うことで、他の誰の言葉にも支配されない自由な人生を生きえることができるのです。旧約聖書の詩編も良い羊飼いに導かれる人生を次のように歌っています。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23編1節)。
私たちはこの良き羊飼いである主イエスが私たちの名前を呼んでくださったことに感謝したいと思います。そしてこれからもこの良き羊飼いである主イエスに従って毎日の人生を歩んで生きたいと願うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.「羊の囲いに入るのに、門をとおらない」者たちはどのような人たちだと主イエスは教えていますか(1節)。
2.彼らは何のために囲いの中に入ってきたのでしょうか(10節)。
3.羊飼いとそれ以外の盗人や強盗を見分ける「門」についてそれは誰を表していると主イエスは教えていますか(7節)。
4.羊飼いは自分の飼う羊をどのようにして羊の囲いから連れ出しますか(3節)。どうして羊はその声に従うことができるのでしょうか(4節)。
5.この話を主イエスはファリサイ派の人々に語られました(8節)。この話を通してファリサイ派のどのような問題点が分かりますか(参考:ヨハネ9章)。
6.良い羊飼いは私たちをどのようなところに導かれますか。またそのために良き羊飼いである主イエスは何をされると語られていますか(10〜11節)。