2023.4.9「キリストのよみがえり」 YouTube
マタイによる福音書28章1〜10節(新P.189)
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
ハイデルベルク信仰問答書
問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって、わたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。
第二に、その御力によって、わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。
第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりは、わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。
1.どうしてイースターを祝うのか
イースターおめでとうございます。今日は主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝をささげます。私たちの主イエスは今から2000年前に十字架上で死を迎えられました。その後、アリマタヤのヨセフによって主イエスの遺体は墓に葬られ、その死から三日後に主イエスは墓から甦られたのです。その後、復活された主イエスはご自分が生きておられるという姿を弟子たちに表されました。私たちはその復活された主イエスと出会うことができた弟子たちの残した証言を新約聖書の記述を通して知らされています。
聖書は主イエス・キリストの復活が事実であることを科学や何か他の力を使って証明しようとはしていません。おそらく、この復活という出来事は現代の科学をしても証明することができない神の神秘に属するものだと考えることができます。しかし、歴史的に確証されていることはこの時を境にして主イエスの弟子たち人生に確かな変化が起こったと言うことです。なぜなら主イエスを殺そうと企てたユダヤ人たちがその主イエスを捕らえたにやって来たとき、弟子たちは自分たちの命を惜しんでイエスの前から逃げ出してしまったからです。そしてその弟子たちはある時を境に「自分たちは復活された主イエスに出会った」と人々に向かって大胆に証言し始めたのです。しかも彼らは以前とは違いユダヤ人たちのどんな脅しにも屈することなく主イエスの復活の出来事を多くの人に証言し続けました。弟子たちの中にはこの証言をすることで殉教の死を遂げた者まで現れました。ですから私たちはこの弟子たちの姿を通して、主イエスの復活と言う出来事がそれ以後の弟子たち人生を全く変えるものであったことを知ることができます。
この出来事から現代まで2000年の歴史が流れました。私たちのキリスト教会はこの主イエスの復活を証言した弟子たちによって生み出され、その弟子たちの証言を信じた人々によって今も存在し続けています。主イエスの復活という出来事は2000年前に生きた弟子たちの人生を変えてしまっただけではなく、2000年の教会の歴史の中で主イエスの復活を信じる人々の人生をも変え続けて来たのです。それでは、どうして主イエスの復活は私たちの人生をこのように変えることができるのでしょうか。このことについて私たちはハイデルベルク信仰問答書の言葉を手掛かりにしてこの礼拝で皆さんと一緒に考えてみたいと思うのです。
2.変えられた過去
まず、このハイデルベルク信仰問答は主イエスの復活、つまりその「よみがえり」が私たちの人生の過去、現在、未来のすべてを変える出来事であることを私たちに説明しようとしています。
そして信仰問答は第一の項目ではすでに私たちの人生に起こった驚くべき出来事を取り上げているのです。
「第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって、わたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ」。
私たちは今までの自分の人生で人間の死と言う現実の力を痛感させられて来ました。私たちは私たちの愛する者たちや身近な人々の死を通して、どんなにあがこうとしてもこの死の現実から人間は逃れることのできないことを経験して来たのです。高度に発達した現代医学の力でさえも、この死の力に勝利することはできません。しかし、主イエスはこの死に勝利してくださったと聖書は証言しています。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリント一15章54〜55)。
主イエスの復活の出来事を証言する使徒パウロは死がすでに無力化されてしまったとここで大胆に証言しています。もはや人間の死は私たちを恐怖で縛り付けるような力を失ってしまったと言っているのです。それではどうして主イエスの復活にはそのような力があるのでしょうか。
聖書は人間の死が神の創造から生み出されたものではないことを私たちにはっきりと教えています。人間の死は人間が神に罪を犯すことで、その人間が神から離れてしまったことによってこの世界に入り込んで来たものだと教えるのです。私たちの祖先である人間が神との約束を破ることで、人間が本来持っていた永遠の命の祝福を失ってしまったのです。ですから私たちの死は私たちの先祖が犯した罪が原因で生まれたもので、私たちはその先祖の犯した罪の連帯責任者としてその責めを負って死ぬべき者となったのです。「私たちが神との約束を破った訳ではないのに、勝手に先祖の罪の連帯責任を負わされるというのは不公平ではないか」と思う方もおられるかも知れません。しかし、この関係こそが今日私たちが学んでいる主イエスの復活と私たちとの関係を考える際に大切になって来るのです。なぜなら聖書は私たちの世界に死をもたらした私たちの先祖アダムを「第一のアダム」と呼び、神が私たちの救いのために遣わされた主イエスを「第二のアダム」と呼んでいるからです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」(コリント一15章45節)。
その上で聖書は私たちが先祖アダムの犯した罪の連帯責任を負うものとして死ぬ者となったように、そのアダムに代わって遣わされた主イエス・キリストによって罪を許され、無罪の判決を受けて永遠の命に生きる者となったことを教えているのです(ローマ5章12〜21節)。つまり、この「第二のアダム」である主イエスによって私たち自身は何もよいことをしていなくても、そのすべての恵みを受けることができるようになったと教えているのです。
昔、私が神戸の神学校で勉強していたときに、茨城からわざわざ私の古い友人が訪ねて来てくれたことがありました。「せっかく、神戸に来たのだから、神戸牛を出すレストランに行こう。俺がおごるから」と友人は私を連れて当時神戸の三宮にあった神戸牛を出す有名レストランに行きました。私はそのレストランの中に入ってびっくりしてしまいました。そのレストランは今まで私が知っているファイミリーレストランとは全く違う場所だったからです。「こんなところで出されるステーキはいったいいくらするのだろうか…」。私はそのステーキの代金のことが心配で口にしたステーキの味も分からないほど緊張してしまいました。そして案の定、最後に出された請求書の額を見て私たちはびっくりしてしまったのです。あれほど「おごる」と言っていた友人が私に「ごめん。持ってきたお金では足りないや。お前、今いくら持っている…?」。聞いてくる始末です。幸いなことに何とか二人の持っているお金を合わせて私たちは無銭飲食で訴えられることなく、支配を済ませて店を出ることができました。
信仰問答は「(主イエスは)御自身の死によって、わたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる」と説明しています。これは私たちに支払うべき罪の代金を主イエス・キリストが肩代わりして支払ってくださったことを表しています。この主イエスによって「義とされた」私たちは自分の人生の最後に渡される請求書の額を恐れて生きることなく、安心して毎日の生活を送ることができるようにされているのです。
3.イエスとともに今を生きる人生
復活された主イエスと出会った弟子たちの体験の中では、主イエスが自分たちと一緒にいてくださっているのに、その時には気づくことができずに、後になって主イエスが心の目を開いてくださったときにその事実を知ったと言うお話が記されています(ルカ24章13〜35節)。
2000年前に墓から復活された主イエスはそのあと、またすぐに死んで墓に葬られてしまった訳でありません。弟子たちの証言によれば復活された主イエスは彼らの見ている前で天に昇られました(ルカ24章50〜52節、使徒1章8〜11節)。そして主イエスは今も天で生きておられるのです。この生きておられる主イエスと共に生きることができると言う祝福を信仰問答は「第二」の項目でこのように表現しています。
「第二に、その御力によって、わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ」。
この今も天で生きておられる主イエスと私たちのとの関係をもっともよく表すものは私たちに与えられている信仰であると言えます。なぜなら主イエスは私たちに天から聖霊を送り、私たちの心の目を開くことで、信じることができるようにしてくださる方だからです。
そればかりではありません。主イエスは今もなお、この地上で生きる私たちに天から聖霊を送り続けてくださる方なのです。私たちが毎日の信仰生活で聖書の言葉を読んで、その言葉から力を受けることができるのはこの聖霊の働きによるものであると言えるます。私たちがどこに行っても、どのような状況の中に生きることになっても主イエスはこの聖霊を通して私たちと共に生きてくださるのです。このようにして主イエスの復活によって、私たちは今この時、復活された主イエスの姿を肉眼の目では見ることができませんが、信仰の目を通して確信し、共に生きることができるようにされているのです。
4.祝福された復活の保証
最近、テレビではよく人の将来を占うことのできる占い師が登場し、その占いによって芸能人などにアドバイスする番組が放送されているようです。私はこの種の番組を見るのがあまり好きではないのですぐチャンネルを変えてしまいます。しかし考えてみるとこんなふうに占い師が登場する番組は最近だけではなく、今までも数限りなく制作されてきたような気がします。どんなに現代科学が発達していても、人類の歴史の中で占いは多くの人の心をとらえ続けて来ました。「自分の人生がこれからどうなるのか…」。私たちの誰もがそれを知りたいと言う願望を持っています。その願望は自分の周りに不安な出来事が起こるとなお一層強くなると言えるのです。
しかし、聖書を信じる者の世界では昔からこの占いは固く禁じられて来ました(申命記18章10〜11節)。なぜなら聖書で占いは自分の人生を導いてくださる神に信頼できない者が行う行為と考えられて来たからです。その上で占いはそのような人間の抱く不安を利用して、その人間を巧みに操ろうとする悪魔が用いるものだと信じられてきたからです。しかし、主イエスの復活と言う出来事はこの占いがもう全く私たちには必要ないことを教えています。なぜなら、私たちはこの主イエスの復活によって、私たちの人生の未来に対する確かな保証をいただくことできるからです。このことについて信仰問答は第三の項目で次のように説明しています。
「第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりは、わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。」
私たちの人生の歩みはそれぞれ違っています。しかし、信仰問答は私たちの人生の行きつく先はどんな人も同じように「祝福に満ちたよみがえり」だとここで教えているのです。そして私たちの地上の人生に起こるすべてことは、私たちがこの「祝福に満ちたよみがえり」に導かれるため与えられるものだと考えることができるのです。主イエスの復活は私たちにこのことを確信させることができる確かな保証であると信仰問答は説明しています。そしてこの保証こそが今を生きる私たちの人生から恐怖と不安を取り除き、希望をもって生きる力を与えてくれるのです。
このように主イエスの復活は私たちの人生の過去と現在と未来を変える素晴らしい出来事だとハイデルベルク信仰問答は教えています。今から二千年前に恐怖と不安に支配されて主イエスの前から逃げ出してしまった弟子たちの人生を全く変える出来事が確かに起こりました。主イエスが死んだら、すぐにこの世から消えてしまうと考えられていた弟子たちの集団が、不思議な力を受けて主イエスの復活を大胆に証言し始めたからです。それは主イエスの復活が弟子たちの人生を変えたことを表しています。そして復活された主イエスは、今も天におられて私たちにも同じように聖霊を通して働いてくださいます。その主イエスは私たちを恐れや不安から解放して、喜びに満たされた新しい人生を生きるようにしてくださるのです。このように私たちがイースターを心から祝うのは、主イエスの復活が私たちのためのものであったことを信じているからなのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.ユダヤ人の指導者たちは何のためにイエスを縛り、総督ピラトのもとに連れて行き、引き渡したのですか(1〜2節)。
2.ユダヤ人たちはイエスが何の罪を犯しているとピラトに訴えたのですか(11節、37節)。
3.なぜ、ピラトは無実の罪で訴えられていたイエスを処刑することになってしまったのですか(15〜26節)。
4.イエスがゴルゴダで十字架にかけられたときそこを通り過ぎた人々やユダヤ人の指導者たちはイエスに対して何を語りましたか(39〜43節)。
5.イエスが十字架上で息を引き取られたとき、どのようことが起こったと福音書は記していますか(51〜54節)