2023.5.21「地に残された声」 YouTube
マタイによる福音書28章16〜20節(新P.60)
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
1.天に昇られる弟子
かつてソビエト連邦が開発したロケットに乗って宇宙空間に飛び出した無神論者の宇宙飛行士が「宇宙のどこを見ても神など見つけられなかった」と語ったと言います。ご存知のように聖書は神がおられる場所を「天」と呼んでいます。また復活して甦られた主イエスは40日間この地上にとどまった後に「天に昇られた」と聖書は語っています。先ほどの宇宙飛行士はこの「天」と言う言葉を宇宙空間のどこか特定の場所を指す言葉と理解したのでしょう。だからこんな言葉を語って、「聖書の話など作り話だ」と言おうとしたのです。
聖書が言う「天」とは私たちが通常「天」と言う言葉で連想する空の上の場所を言っているのではありません。聖書が言う「天」とは「神がおられる場所」を指す言葉だからです。つまり、神がおられる場所であればそこが例えどこであろうと「天」と呼ぶことができるのです。今日の礼拝には「主の昇天の主日」と言う名前で付けられています。私たちは主イエスが地上に残る弟子たちと別れて天に昇っていたったという出来事を記念する礼拝をささげます。そしてこの主イエスが天に昇っていったということは、主イエスの体が空のかなたに昇って行ったと言うよりは、神がおられる場所に行かれたと言うことを意味していることをまず理解する必要があると思うのです。
十字架で死なれたイエスが三日目に死から甦られたと言う出来事は弟子たちに大きな喜びをもたらしたはずです。私たちは人間の死と言う動かしがたい現実の前で、愛する者との別離を経験します。弟子たちもイエスの死を経験し、「もはや二度と主イエスとはお目にかかることができない」と考えていたはずなのです。その弟子たちの前に主イエスが死に勝利され、復活された姿を現わしてくださったのです。弟子たちはきっと「もう二度と、主イエスと別れることなど体験したくない。ずっと主イエスと共にいたい」と思っていたに違いありません。しかし、主イエスはそのように考える弟子たちを地上に残して、一人で天に昇って行かれました。それではなぜ主イエスはこの時に天に昇って行かれる必要があったのでしょうか。この出来事は主イエスにとって、またその弟子たちにとってどのような意味があったのでしょうか。今日の礼拝ではそのことについて皆さんと考えて見たいと思います。
2.しかし、疑う者もいた
もちろんこのときの弟子たちがもはや主イエスの助けを必要としないほどに成長していたとしたら、主イエスが天に昇られて行ったこともある程度納得がいくかも知れません。そうなれば主イエスは自分が地上でなすべきすべての任務を終えて天に帰って行かれたと言うことになるからです。しかし、このときの弟子たちが完璧と言う姿からは程遠い、未成熟な人々であったことは今日の聖書箇所を読んでも理解することができるのです。聖書はこのときの弟子たちの姿を次のように描写しているからです。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(16〜17節)。
この時に至っても十一人の弟子たちの中に「疑う者もいた」と聖書はここでその事実を紹介しています。十一人のうちで誰が、そして何を疑っていたのかと言う詳しい事情はここには記されていません。しかし、どんなに復活された主イエスと出会い、その言葉を聞いても、弟子たちの信仰はまだまだ未熟であったことがこの言葉でも分かるのです。
この「疑う」と言うギリシャ語の言葉は元々「二つの方向に歩む」と言う意味を持っています。ですからこの言葉は人間の心が二つに分裂して混乱してしまう姿をよく表していると言えるのです。実はこのギリシャ語の同じ言葉が聖書の中でもう一か所使われているところがあります。それは同じマタイによる福音書14章31節に記されている主イエスの言葉、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言うところです。
このとき主イエスの弟子たちはガリラヤ湖の上を歩いて自分たちのところに近づいてくる人物を見て「幽霊だ」と思い、驚いてしまいます。しかし、その後で弟子たちはその人物こそが主イエスであることに気づかされます。そしてそれを知った弟子の一人ペトロは「自分も湖の上を歩いて見たい」と主イエスに願いを語ります。この後、主イエスの許可を受けてペトロは湖の上を歩きだすのですが、しばらくして、彼は湖の上を吹く強い風に気を取られ恐怖に捕らわれてしまします。このとき、ペトロの心は自分を招いてくださる主イエスから離れて、強い風に向けられてしまったのです。つまり、ペトロの心がここで二つに分裂することで彼の体は湖の水の中へと沈んで行ってしまうのです。このように聖書は「疑う」と言う言葉の意味を表す典型的な出来事としてこのペトロの失敗を私たちに紹介しているのです。
しかし、私たちはこの後、弟子たちがどのようになったかについてもよく覚える必要があります。主イエスは「疑い」が生じて湖の中に沈んで行くペトロにすぐに手を差し出して彼を水の中から助け出されます。するとこの光景を見ていたすべての弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って主イエスに対する信仰を表明し、彼を拝んだと報告されているのです(同33節)。この言葉を読むとき、ペトロの内に生じた「疑い」によって起こされた出来事を通して、改めて弟子たちの主イエスに対する信仰が強められたと言うことが分かるのです。つまり、私たちの主イエスは私たちの抱く「疑い」を通しても私たちの信仰を強めてくださる方だと言えるのです。
3.近寄ってくださる主イエス
①試練を通して鍛えられる信仰
「主イエスを信じたい」と願いながらも、目の前に起こる様々な出来事によって心が二つに分裂して「疑い」の中に陥って自分の信仰のなさを嘆くことは弟子のペトロに限らず、私たちすべての者が信仰生活の中で体験していることだと言えます。復活された主イエスに出会い、40日間も共にした弟子たちでさえその弱さを抱えていたのです。しかし、その聖書は私たちの弱さの故に生じる「疑い」でさえも主イエスは用いてくださり、私たちの信仰をさらに強めてくださると言うことを教えています。同じペトロの名前が付けられた手紙の中にこんな言葉が記されていることを皆さんも知っておられるでしょうか。
「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(ペトロ一1章6〜7節)。
どんな出来事が起こってもびくともしない信仰、そのような信仰をこの言葉を通してペトロは私たちに求めていると私たちが思いがちです。しかし、ペトロの生涯は試練に打ち勝つ信仰とはそのようなことを言っているのではないことを私たちに教えいるのです。なぜなら、ペトロもまた私たちと同じように不完全な者として失敗を繰り返した人物であったからです。しかし、ペトロの信仰はその失敗を通しても主イエスよって強められて行ったのです。
②弱い私に近寄ってくださる方
それでは私たちの未熟な信仰を主イエスはどのように強めてくださるのでしょうか。今日の聖書箇所はそのヒントを次のような言葉で私たちに教えています。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)。
私たちの信仰生活は予めに決められた合格ラインと言うものがあって、「そこまで達しなければ主イエスの弟子になることはできない」と言うものでは決してありません。むしろ、主イエスは自分の力ではどうにもならず、主イエスに近づくことのできない私たちの方に自分の方から近寄ってくださる方なのです。これは先ほど取り上げたガリラヤ湖の出来事の中でもよく示されています。この時、「疑い」の心のために湖の底深くに沈んで行こうとするペトロは自分の力ではどうすることもできずに、主に向かって「助けてください」と叫びました。するとすぐに主イエスの方がペトロのもとに近づいて来てくださり、彼の手を取って湖の中から引き上げてくださったのです(14章30〜31節)。
このことから分かるように、「疑い」のゆえにどうすることもできなくなっている私たちを助けて、私たちの信仰を強めてくださるのは主イエスご自身の御業なのです。そして主イエスはそのような弱さを持つ私たちにいつでも近づいて来てくださり、助け上げて下さるお方なのです。
4.世の終わりまで私たちと共におられる方
①天から聖霊を送ってくださるために
主イエスはこのとき弱さを持つ未成熟な弟子たちに近づいて次のように語られています。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18〜20節)。
まずこの言葉から分かることは、主イエスが天に昇られると言うことは、主イエスがそこから天地のすべてのものを支配し、神の救いの計画を完成させるためであると言うことです。また、さらに主イエスが天に昇られると言うことは、弟子たちを地上に置き去りにしていくと言うことではなく、むしろその弟子たちと主イエスがいつも共にいることができるようにするためだと言うことが分かるのです。そしてこの約束が実際に実現したのが、天から聖霊が弟子たちのもとに送られたペンテコステの出来事であると言うことができるのです。つまり、天に昇られた主イエスはそこから私たちに聖霊を送ることで、私たちにいつでも近づき、私たちを助けてくださることができようにしてくださるのです。このように主イエスが天に昇られたことは、弟子たちから離れるためではなく、その弟子たちにもっと近づき、彼らの信仰を強めるためであったことが分かるのです。
②すべての民を弟子とせよ
このように私たちのために天に昇られた主イエスは、神の救いの計画を実現されるために私たち一人一人をご自身の弟子として用いてくださろうとしています。そのことが分かるのが弟子たちに向けて語られたこの主イエスの命令です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19〜20節)。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言う言葉は「すべての民を誰一人漏れることなく神の救いの計画の中に招くように」と言う主イエスの弟子に向けられて語られた命令です。この言葉から私たちは神の救いは特定の民族や特定の階層の人のためにだけ提供されているものではないことが分かります。この地上に生存するすべての人に対して神の救いは提供されているのです。だから主イエスの弟子たちはこの言葉を信じて、すべての民を主イエスの弟子とするために召されているのです。
私たちが今、この日本の地で主イエスの福音を知り、その福音を信じて、教会で礼拝をささげることができているのは、この主イエスの命令に誠実に従った人々がいたことを表しています。かつて、この命令に従ってはるかヨーロッパの地から東の果てである日本までやって来て福音を伝えた人々がいました。また、伝道が困難なこの日本の地で、それでもあきらめずに福音を伝えた続けた人々がいたからこそ、私たちも今、この神の救いにあずかることができているのです。
そして主イエスは私たちにも「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じてくださっています。この命令は「教会員の数を二倍三倍に増やしなさい」と言っているのではありません。「すべての人が神の救いに入れられるようにしなさい」と主イエスは命じておられるのです。またこの命令は伝道の方法に長けているプロフェッショナルだけに与えられているものではありません。聖書の中に登場する人々もプロフェショナルな人々ではありませんでした。皆、自分のそれぞれの信仰生活を通してこの主イエスの命令に従って行ったのです。
そして私たちはこの命令を考えるときにも、ペトロの物語を思い出すべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスはペトロの「疑い」さえも用いてもご自身の力を現わされ、その出来事を通して弟子たちの信仰を強め、神を礼拝する者へと変えてくださったからです。
今から二千年前に天に昇られた主イエスは今でも私たちのところに近づいてくださる方です。地上においては未成熟な私たちの信仰を、その「疑い」まで用いてご自身の力を表してくださる方なのです。私たちはこの主イエスを信頼する必要があります。そしてその主イエスが「すべての民をわたしの弟子としないさい」と私たちに命じているのは、私たちにもこの命令に従う資格があることを教えているのです。いえ、たとえ私たちにはこの命令に従うべき力がなかったとしても主イエスが私たちを助けて、私たちがこの命令に従うことができるようにしてくださると言うことを私たちは覚えたいと思うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスの弟子たちはイエスの指示に従ってどこに行きました(16節)。
2.このときの弟子たちの信仰がまだ未熟であったことについて聖書はどのような言葉を使ってそれを教えていますか(17節)。
3.主イエスはこのとき弟子たちに近寄って、どのような言葉を語られましたか(18〜20節)。
4.この主イエスの言葉から、主イエスが天に昇られることが私たちにとってどのような意味があると言うことが分かりますか。
5.あなたはあなたの身近でこの主イエスの命令に誠実に従って生きた人々を知っていますか。あなたもこの主イエスの命令に従って生きるためにどうしたらよいと思いますか。