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2023.5.28「約束の聖霊」 YouTube

使徒言行録2章1〜12節(新P.214)

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


1.約束が実現することを待つ

①五旬祭と主イエスの弟子たち

 今朝は「聖霊降臨日」、ペンテコステの礼拝を皆さんと共にささげます。私たちが使っている新共同訳聖書ではこのペンテコステは「五旬祭」と言う言葉で訳されています。この五旬祭はもともとユダヤ教の三大祭の中の一つとして数えられているもので、今日の聖書箇所にもこの祭りに参加するためにエルサレムの神殿にそれぞれの国からやって来ていた人々が登場しています。この五旬祭は過越しの祭りから五十日目に祝われていたもので、ユダヤ人たちはこの日に神がモーセを通して律法を与えて下さったと考えて、この祭りをしていたようです。またこの五旬祭は春の収穫の祭りと言う特色も持っていたとも言われています。

 私たちが今日読んでいる使徒言行録にはこの五旬祭の日に驚くべき出来事が起こったことを伝えています。それがこの聖霊降臨の出来事、つまりイエスの弟子たちの上に聖霊が下ったと言うお話です。ここで少し聖書の時間的流れについて整理して考えてみましょう。主イエスが十字架に掛けられ、また三日目に死から甦られたのは過越しの祭りの時でした。ですから、私たちが「最後の晩餐」と呼んでいる主イエスと弟子たちがともに食事をされたお話は過越しの祭りのために設けられた食卓で起こった出来事と考えることができるのです。

 復活されたイエスは弟子たちの前に現れ、四十日間この地上にとどまったのちガリラヤの山から天に昇っていかれました。このことを私たちは先週の礼拝で学びました。さらにその後、五旬祭の日とはイエスが天に昇られて十日後の出来事であったと考えることができます。舞台は主イエスの昇天の出来事が起こったガリラヤからエルサレムの町に変わります。それは弟子たちが五旬祭の祭りに参加するためだとも考えることができますが、この時の弟子たちにはエルサレムに戻るもっと大切は意味がありました。それは主イエスが弟子たちに語られた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1章5節)と言う命令です。つまり、弟子たちはこの主イエスの約束が実現する日を待つために主イエスの命令に従ってエルサレムの町に戻り、その町にとどまり続けていたのです。


②約束の実現を信じて待つ人生

 この主イエスの約束の言葉で興味深いのは「エルサレムの町で待っていれば聖霊が弟子たちに与えられる」と言うことが説明されていますが、その聖霊がいつ与えられるかについては何も語られていないと言う点です。実際には聖霊はこの後、十日後に弟子たちに与えられているのですが、弟子たちはその日付は知らされていませんでした。ですからもしかしたら、約束の実現する日は一年後、あるいは十年後となる可能性もあったと言えるのです。弟子たちは主イエスの語られた約束がいつ実現するかを知らなかったからです。しかし、彼らは主イエスの約束が必ず実現することを信じて、その日を待ち続けていたと言うことになります。

 私たち現代人は待つことが苦手かも知れません。カップラーメンが出来上がる三分間さえ長いと感じてしまうことがあるからです。自分の話ですが「年を取ると気が短くなる」と言う言葉を聞いたことがありす。実際そうだなと思う体験を最近よく感じています。もしかしたら、地上に残された人生の時間が短くなるのと比例して、年寄りは気が短くなるのかなと思ってしまいます。しかし、神様の約束を待つことには年齢は関係ないという実例が聖書には紹介されています。それはこの同じエルサレムの神殿で救い主が与えられるという神の約束を待っていたシメオンとアンナと言う二人の老人のお話です(ルカ2章25〜38節)。彼らは長い人生の年月を送った果てに、神が主イエスを救い主として遣わしてくださったことを知り、喜びに満たされると言う体験をしています。

 私たちの人生は年を取って体が衰え、そして死んでいくことを諦めながら待つために与えられているのではないことを聖書は私たちに教えています。なぜなら私たちの人生は神の約束が実現するのを待つために与えられているからです。このペンテコステの日に弟子たちへの約束を実現してくださった主イエスは、私たちへの約束をも必ず実現してくださる方だと言えるのです。使徒パウロは私たちの人生の行く手にどのような神の約束が実現 するかについて次のように説明しています。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(コリント二3章18節)。

 私たちにこの約束がいつ実現するかについて知らされていません。しかし、主イエスの約束が必ず実現することを信じてエルサレムに集まった弟子たちと同じように、私たちも教会に集い、主イエスの約束が実現する日を、希望を持って待ち続けるように命じられているのです。


2.教会の誕生日

①三千人の仲間たちが加えられる

 キリスト教会はその歴史の中でこのペンテコステの出来事、主イエスが弟子たちに約束通りに聖霊を送ってくださった出来事を記念して今日に至るまで礼拝をささげ続けて来ました。教派は違っても、その多くの教会ではキリストの誕生をお祝いするクリスマス、そしてそのキリストが死から甦ったことを記念するイースター、さらにはこのペンテコステを記念して礼拝をささげます。それではなぜキリスト教会はこのペンテコステを大切な出来事としてお祝いして来たのでしょうか。それはこの日に聖霊が与えられた弟子たちを通して、主イエスの福音が人々に伝えられ、それを信じる人々によってキリスト教会が誕生したからです。つまり、このペンテコステは教会の誕生日と言うことができるのです。

 この日、弟子たちに聖霊が送られるとその弟子たちがそれぞれ他の国の言葉で話し始めるという不思議な出来事が起こります。エルサレムにはこのときちょうど五旬祭に出席するために、様々な国で生活していたユダヤ人が巡礼のために集まって来ていました。彼らは弟子たちが自分たちのそれぞれの故郷の言葉を語っている姿に驚きます。なぜなら、そこで外国語を語っている弟子たちはガリラヤの田舎出身の者たちばかりで、外国語など知っているような人ではなかったからです。

 このあとペトロたちはこの出来事に驚き集まって来た人々に主イエスの福音を語ります。そしてこの日、このペトロの話を聞いて洗礼を受けて新たに信仰の仲間となった人々が三千人も与えられたと聖書は語っています。そして使徒言行録は「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2章42節)と記録しています。つまり、主イエスを信じる者同士が集まって神に礼拝をささげる教会生活がここから始まったと言っているのです。


②神によって作られた教会

 ペンテコステを「教会の誕生日」と考えるときに最も大切なのことは、キリスト教会は誰か人間のアイデアによって作られたものでも、また人間の立てた計画によって始まったものではないと言うことです。ですから使徒言行録はこの日の出来事を次のように語っています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(1〜3節)。

 ここで「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」と報告されています。つまりこの出来事は「天」、神から始められた出来事であると言うことが強調されているのです。神はこの世界を救うために、また私たち一人一人を救うために教会を作ってくださったのです。確かに現実のキリスト教会には様々な問題が存在しています。それはキリスト教会の歴史を調べても明らかなことであると思います。しかし、だからと言って教会を否定して、「自分一人が神様と向き合って信じていけばよい」と考えることは、私たちのために教会を作ってくださった神の御心に反する誤りであると言えるのです。私たちの信仰生活はこの教会を離れては成り立つことができません。ですから私たちは私たちのために教会を作り、その教会に聖霊を送り続けてくださる神の恵みを信じて、互いに励まし合い祈りながら信仰生活を送っていく必要があるのです。


3.目的を持つ聖霊の働き

①神の霊である聖霊

 私はこの説教を準備するために久しぶりに明治大正の時代に日本で活躍した有名な伝道者内村鑑三の本を読みました。内村は現実のキリスト教会の矛盾に触れて、「無教会主義」と言う独特な信仰生活を主張した人物として有名です。私たちは神が教会の創始者であると言う観点からこの内村の考えには同意することができません。しかし、この日本の地で聖書の言葉を熱心に解き明かし、福音を伝えようとした彼の姿勢からは多く学ぶことができると思うのです。

 その内村の文書の中に「聖霊の働き」について論じる文章を今回私は読んでみました。大変興味深いの彼はこのペンテコステの日に弟子たちに与えられ、そしてまたその後もキリストを信じる者に与え続けられている聖霊について、旧約聖書に登場する「神の霊」とは働きが違うと語っているところです。

 「聖霊」は文字通り「聖なる霊」と言う意味を持った言葉です。そしてこの「聖」と言う字は聖書の中では「神」を指したり、あるいは「神」と関係するものを表すために用いられる言葉です。だから「聖書」は「神の書」と言う意味を表します。聖書の中で神を礼拝する場所は「聖所」と呼ばれています。また私たちのように神を礼拝するために集められている者たちを「聖徒」と呼ぶこともできるのです。そうなると「聖霊」と言う言葉はそのまま「神の霊」と言ってよいことが分かります。そして旧約聖書にはこの神の霊が様々なところで登場しています。ここで試しに旧約聖書の最初のページを開いてみましょう。そこにはこんな言葉が記されています。

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1章2節)。

 世界は最初、神の霊に覆われていたと創世記は語っているのです。またこの「霊」と言う言葉は元々「息」とか「息吹」と言う意味を持っています。同じ創世記の2章には神が最初の人間を土の塵から形づくられたときに「その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(7節)と記されています。つまり、私たち人間の命は神の息、神の霊によって生まれたものであることが語られているのです。このように旧約聖書も「神の霊」が私たちの世界と私たちの命に深く関わって来たことを私たちに説明しているのです。


②神の救いを実現させる聖霊の働き

 旧約聖書では他にも神のために特別な使命を受けた人々がこの神の霊を受けて、その使命を果たすことができたことが語られています。内村が問題とするのは旧約聖書で取り扱われているこの神の霊の働きです。イスラエルのために選ばれたリーダーたちはこの神の霊を受けてたくさんの敵と戦い、彼らを殺害しました。また預言者エリアはこの神の霊を受けて、バアルと言う偶像に仕える偽預言者たちと戦い、最後には彼らを一人残らず皆殺しにしています。内村はこのような旧約聖書に記された出来事を取り上げて「キリストの霊、聖霊はこのような霊とは違う」と語るのです。内村はこの点に関してパウロが「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5章22〜23節)と言う言葉を引用し、「聖霊は絶対平和の霊だ」とまで語っているのです。内村の伝記で彼は最初日清戦争にはある程度理解を示していましたが、日露戦争以後は戦争自身を神の御心に反する悪であると主張したことを読んだことがあります。そんな内村の平和主義がこの聖霊の理解の中にも貫かれているのかも知れません。

 私たちはこの内村の言葉からイエス・キリストははっきりとして目的のために私たちに聖霊を与えてくださっていると言うことを考える必要があると思うのです。つまり、聖霊は私たちの思いや都合を実現させるために送られてきた方ではないと言うことです。確かに旧約の時代にはイスラエルの民の生存を守るために神の霊が彼らに送られたのかも知れません。しかし、ペンテコステの日に教会に送られた聖霊は、自分たちの敵を殺害したり、武力で倒すために神から送られたものではないのです。

 私たちはイースターの日に復活された主イエスが入り口に鍵をかけていた部屋の中に集まる弟子たちの真ん中に現れて「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったことを少し前の礼拝で学びました。そのとき、主イエスは弟子たちに息を吹きかけられて次のような言葉を語られているのです。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20章22〜23節)。

 このように主イエスは私たちの罪が赦されるため、また私たちを通してたくさんの人々の罪が赦されるために聖霊を送ると約束してくださっているのです。このように、主イエスは明確な目的を持って聖霊を私たちに与えて下さっていることが分かるのです。

 教会はこの罪の赦しが、イエス・キリストの十字架の死を通して実現したことを語り続けています。また、この罪の赦しを通して神と私たち人間の関係が回復され、世界を救う神の計画が実現したことを教え続けているのです。そのような意味で聖霊は主イエス・キリストによって実現したこの神の救いをすべての人々に与えるために働く霊であると言えるのです。だからもし、私たちが聖書を読んで、その言葉を「神が自分のために語られているものだ」と信じることができたとしたら、それは聖霊の働きです。またその聖書の言葉を通して主イエス・キリストを信じることができるなら、それも聖霊が私たちの上に働いてくださった証拠だと言えるのです。そしてこの聖霊は私たちの信仰生活を今も導いてくださっているのです。さらにこの聖霊は最後には私たちを「キリストと同じ姿に造りかえてくださる」お方だと言えるのです。私たちはこの聖霊がペンテコステの日から始まって私たちキリスト教会に送られ続けていることを信じ、その聖霊の働きに信頼しながらこれからも信仰の歩みを続けて行きたいの思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.五旬祭の日に弟子たちはどうして「一つになって集まって」いたのでしょうか(使徒1章4〜5節参照)

2.このとき弟子たちの上にどのようなことが起こったと聖書は説明していますか(2〜4節)。

3.当時、「天下のあらゆる国から帰って」このエルサレムの町に滞在していた人々は弟子たちのどのような姿を見て驚きましたか(5〜6節)。

4.弟子たちは様々な言葉を使って何を語っていたことが彼らの証言を通して分かりますか(7〜11節)。

5.使徒言行録はこの日、弟子たちに聖霊降臨の出来事が起こった結果、どのようなことがその後に起こったと報告していますか(41〜42節)。

2023.5.28「約束の聖霊」