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  4. 5月7日「イエスが道」

2023.5.7「イエスが道」 YouTube

ヨハネによる福音書14章1〜12節(新P.196)

1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。


1.心を騒がせる弟子たち

 私たちが今日の礼拝の中で行う聖餐式は主イエスが十字架にかかられる前の晩に弟子たちと共にした最後の晩餐をモデルとしています。主イエスはこの中で「わたしの記念として」と言う言葉を語って聖餐式を私たちが守り続けるようにと命じられています。この最後の晩餐の模様は主イエスの言行を私たちに紹介する四つの福音書の中でマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して取り上げています。しかし、私たちが今日この礼拝の中で読もうとしているヨハネの福音書だけはこの様子を記していません。その代わりと言っては何ですが、ヨハネによる福音書はこの最後の晩餐の席でなされた主イエスの長いお話をかなりのスペースを使って私たちに紹介しています(13章〜17章)。今日私たちが学ぶヨハネによる福音書14章のお話も主イエスがそのときに語られた長いお話の一部であると言えます。

 今日の箇所は次のような主イエスの語られた言葉で始まっています。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 このとき弟子たちの心は騒いでいて、落ち着きを失いかけていました。それは主イエスがこれから自分たちを離れてどこかに行ってしまうと言われたことと、弟子たちがそこにはついて行けないと言われてしまったことに原因がありました。弟子たちは「もしかしたら自分たちは主イエスから見捨てられてしまうのではないか」と心配になったのかも知れません。

 おまけに主イエスに「あなたに命懸けで従う決心があります」と言ったペトロに対して「鶏が鳴く前に、わたしのことを三度知らないと言うだろう」と主イエスは語ったのですから、弟子たちの心は穏やかではありません。この主イエスの言葉を聞いた弟子たちの心は騒ぎ、落ち着きを失い始めていたのです。だから主イエスはそのような弟子たちに対して「心を騒がせる必要はない。神を信じなさい。そして私を信じなさい。そうすれば大丈夫だ」と言われたのです。そして主イエスは弟子たちが心を騒がせる必要がない根拠を示すために、ここでお話をされているのです。

 ここで主イエスは「道」と言う言葉を使っています。聖書を読むとこの道は私たちと父なる神との間をつなぐ道であると考えることができます。また、主イエスと私たちをつなぐ道だとも考えることができます。そして主イエスはこの道を私たちのために作るとここで約束されていますし、ご自分のことをその「道」自身であるとも語られています。今日はこの「道」と言う言葉を通して主イエスと私たちとの関係、そして父なる神と主イエス、さらには私たちとの関係について考えて見たいのです。


2.イエスは救いへの道

①居場所はすでに準備されている

 主イエスはこれから弟子たちと離れていったい何をされようとしているのでしょうか。そのことについて主イエスは次のように弟子たちに説明されています。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。

 この主イエスの言葉はよく亡くなられた方のために行われるキリスト教の葬儀の中で読まれます。ご存知のようにキリスト教の葬儀では亡くなった人の霊を弔うと言う習慣はありません。それを聞いて心配になられる方もあるのですが、その心配の必要はありません。その理由がここに明確に語られています。主イエスが私たちの行くべき場所をすでに準備してくださっているのです。宿泊先を決めないままに旅に出ると言うこともたまには良いのかも知れせん。しかしそのために旅先で宿を見つけることができずに苦労するということになったら大変です。しかし、私たちの人生の旅路はそうではないと言うのです。主イエスが私たちの居るべき場所を準備してくださっているのです。私たちの宿泊先はすでに準備されています。だから私たちは自分たちがこの世を去った後のことを心配する必要はありません。だから私たちにはこの主イエスの準備があるので、葬儀で死者の霊を弔わなければならないという心配からも解放されているのです。


②どうして主イエスは十字架に掛けられたのか

 それでは主イエスが私たちの居場所を準備すると言うことはいったい何を意味しているのでしょうか。主イエスが私たちに先立って行って、天国で整理整頓して私たちが入れる場所を作ると言う意味なのでしょうか。そうではありません。この準備は私たちが主イエスの父である神の家に住むことができるようにしてくださるためのものです。そのために主イエスは十字架にかかり、その命をささげることで、私たちの罪を贖って、その場所に入る資格を私たちに与えてくださったのです。このような意味で主イエスの十字架こそが私たちが天の父なる神のもとに行って、そこに住むことができるようにするための「道」であると言えます。この主イエスの道を通らなければ誰も天の父なる神のもとに行くことはできません。すでに主イエスは私たちのために十字架にかかってくださったのですから、私たちは心配することなくこの主イエスの作られた道を通って天の父なる神のもとに行くことができると言えるのです。


3.イエスは父に至る道

①神を見せてほしい

 次にここでは主イエスと弟子たちとの間で交わされた、大変に興味深いお話が記録されています。たとえばここで弟子の一人であるフィリポは主イエスに対して「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)と語っています。フィリポはなぜこのような言葉を語ったのでしょうか。それはこの直前で主イエスが「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(7節)と語られているからです。フィリポは「あなたがたは…既に父を見ている」と主イエスに言われて、この言葉の意味がよく理解できなかったようです。だから「父なる神が見えるのなら、見せてください」と主イエスに向かって問い返したと言えるのです。そもそも聖書によれば真の神は「霊」であって私たちの肉眼では見えることができないお方であると言われています。それではなぜここで「見ている」とか「見せてほしい」と言う言葉が主イエスと弟子たちの間で交わされているのでしょうか。

 よく「神がいるなら見せてほしい…」と言うことを語る人がいると言います。そう人は自分の目で神がおられると言うことを確認できれば信じると言っているのでしょうか。しかし、それでは「幽霊を見た」とか言う話題と同じで、人の好奇心を満たすことができたとしても、それでは私たちの人生を変えるような信仰の体験とは結びつかないような気がします。

 私たちが「父なる神を見たい」と考えるとき、その言葉に秘められているのは「その父なる神が、自分をどう思っておられるのかを知りたい」または「父なる神が自分の人生とどうかかわってくださっているのか知りたい」と言う意味が「神を見たい」と言う言葉の中に込められていると考えることができます。

 これもよく聞く言葉で「神も仏もない」と語る人がいます。そのように言う人は自分が厳しい現実を体験して「自分の人生に神や仏が関わってくださっているとは決して思えない」。そんな気持ちをこの言葉は通して表そうとしているのではないでしょうか。つまり、人間が目に見えない「神を見たい」と言う願いは「その神の御心が何であるかを知りたい」、「神は自分をどのように思っているかを知りたい」と言う意味を持っていると言えるのです。

 キリスト教信仰は「運命論」とは違いいます。「運命論」とは自分の人生が自分とは関係ない場所ですでに決められていてどうにもならないと言う考え方です。しかし、主イエスは今日の箇所でも「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)と言われています。つまり、主イエスを見たものは父なる神の御心を知ることができ、その方がどのように自分の人生に関わろうとしておられるかを知ることができるのです。


②父なる神の愛を伝える主イエス

 新約聖書を見ると、父なる神について語る主イエスのお話が当時のユダヤの宗教指導者たちの考えと大きく異なっていたことが分かります。当時のユダヤの宗教指導者たちは「律法主義」と言う名前で呼ばれるように、聖書に記された神の戒め、つまり「律法」を誠実に守っている人だけが神に愛されていると教えました。その反対に律法を守らない者は神から憎まれていると教えたのです。

 しかし、主イエスはユダヤの宗教指導者たちが「罪人」と呼び、軽蔑していた人々の元に自ら進んで訪れ、神が彼らを愛してくださっていることを教えたのです。主イエスが訪れた人々は社会的な弱者で、自分の生活を維持することだけで精一杯で、神の律法を守るというような余裕を持っていない人が多かったのです。

 アメリカの古い映画に「エデンの東」と言う作品があります。若くしてこの世を去ったジャームス・ディーンと言う俳優がその主人公を演じていました。優秀で父親に愛される兄息子といつも父親に憎まれてしまう主人公の弟息子、ジェームス・ディーンはその弟の役を演じていました。一見に、いつも父親に対して反抗的な態度をとる弟息子ですが、実は彼は「お前を愛している」と言う言葉を父親の口から聞きたいといつも願っていました。そのために彼は様々な努力をするのですが、そのすべてが裏目になって、ますます彼は父親に憎まれてしまうのです。

 イエスが訪ねて行った人々もこの映画の主人公と同じように「神に愛されたい」と願っていました。しかし、彼らのやることなすことはすべてその願いとは違って、失敗だらけの人生を送っていたのです。「やっぱり、こんな自分を神は愛してくださらない」。そう考えざるを得ない状況にあった彼らに主イエスは「神はあなたたちを愛してくださっている」と語り掛けてくださったのです。

 今日の主イエスのお話は最後の晩餐の場面で語られていると先にお話ししました。そしてヨハネはこのイエスのお話の最初にこんな言葉を記しています。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13章1節)。

 この席で主イエスが弟子たちに語られた言葉は主イエスの弟子たちに対する愛で貫かれています。そしてこの愛は主イエス一人のものではなく、父なる神の思いでもあると主イエスはここで語っているのです。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う言葉の意味はそのことを私たちに教えています。主イエスが私たちに示された神の愛は、主イエスの勝手な思い込みでもなく、またユニークな聖書の解釈でもありません。なぜなら、主イエスが間違いなく私たちに父なる神を示してくださったと言うことは主イエスの復活が証明しているからです。

 父なる神は主イエスが間違いなくご自身の愛を私たちに示されたことを証明するために、主イエスを死から甦らせてくださったのです。このような意味で主イエスこそ、私たちが父なる神の愛を知ることができるただ一つの道であると言うことができるのです。


4.私たちを通して働かれるイエス

 また主イエスは今日の最期のところでこんなことを語っています。

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。

 イースターの礼拝から学び続けているように主イエスの復活という出来事を境に主イエスの弟子たちの生涯は大きな変貌を遂げて行きます。主イエスが捕らえられたとき、主イエスを捨てて逃げ出してしまった弟子たちが、主イエスの復活の後にどんな脅しにも屈することなく大胆に主イエスの復活を証言する者と変えられたのです。そしてその弟子たちの働きを通してキリスト教会が生まれました。これはかつての弟子たちの生き方からは想像することのできない出来事でした。しかし、その出来事の秘密を主イエスはここで明らかにされています。

 弟子たちの驚くべき活動の秘密は主イエスの復活にありました。復活された主イエスはその後天に昇られて私たちと今も共に生きておられます。そして地上に生きる私たちに天から聖霊を送り、私たちの人生を通して今も主イエスはこの地上で御業を続けて行われているのです。

 最初の教会の活動を伝える使徒言行録と言う書物の中で、あるとき弟子のペトロがエルサレム神殿の門の前で物乞いをしていた足の不自由な人を癒やすと言う出来事が起こりました。このときペトロは何の躊躇もなくこの出来事を目撃した人々に語りました。足の不自由な人を癒やしたのはペトロの力ではなく、ペトロと共に今も生きて働いてくださる主イエスであることをです(使徒3章)。

 復活された主イエスは今も私たちと共に生きて、私たちを通してこの地上に御業を実現されようとしています。そしてそのために私たちに聖霊を送ってくださるのです。そしてこのことも主イエスの作られた道によって実現したと言うことができるのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

 主イエスはこの礼拝に参加する私たち一人一人にもこの同じ言葉を語り掛けてくださっています。主イエスが作られた道によって、私たちの居場所がすでに天に確保されています。主イエスの作られた道を通して、私たちは神の愛を確信することができます。また、その主イエスが天から聖霊を私たちに送ることで、主イエスが私たちの人生に働いてくださるです。だから私たちに必要なことは心を騒がせて心配することではなく、主イエスと主イエスを遣わされた父なる神を信じることだと言われているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスは弟子たちに「心を騒がせる」のではなく、何をしないさいと命じていますか(1節)。

2.主イエスはこれからどこに行き、そこに何をされに行くと言われていますか(2〜6節)。

3.イエスは弟子たちに「あなたがたは既に父を見ている」と語られました。この言葉から天の父なる神と主イエスがどのような関係にあることがわかりますか(7〜11節)。

4.イエスは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と弟子たちに語られました。この言葉からこの後にキリスト教会を生み出すことになった使徒たちの働きについてどのような秘密がわかりますか(12節)。

2023.5.7「イエスが道」