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  4. 6月18日「わたしたちの主、神の独り子」

2023.6.18「わたしたちの主、神の独り子」 YouTube

ヨハネによる福音書1章14〜18節(新P.163)

14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。

17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


ハイデルベルク信仰問答書

問33 わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。

答 なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。

問34 あなたはなぜこの方を「我らの主」と呼ぶのですか。

答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放しまた買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとしてくださったからです。


1.わたしたちも神の子

 今月は第二週の礼拝で別の説教者をお招きした関係から、週をずらしてハイデルベルク信仰問答からの学びを今日の礼拝でお話したいと思います。宗教改革の中で生まれた遺産であり、私たちの改革派教会が聖書をどのように理解し、また教えてきたのかを伝えるのがこのハイデルベルク信仰問答と言う書物の特徴であると言えます。私たちは現在、このハイデルベルク信仰問答から私たちの主イエス・キリストについて学んでいます。今日はこの主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの恵みを取り上げる「神の子」というテーマについて皆さんと共に学んでいきたいと思います。

 「わたしたちも神の子である」。まずハイデルベルク信仰問答の問33はこのような言葉から始められています。私たちの住む日本では人間が簡単に「神」になってしまうような宗教観が昔から存在しています。ですから「わたしたちも神の子」と言われても特にそれに驚くと言う人も少ないのかも知れません。しかし、聖書の教えに従って生きたユダヤの民にとっては全く違います。なぜなら、聖書は神と私たち人間の区別について「創造主」とその作品である「被造物」と言う絶対的な違いを強調しているからです。だから人間が神になると言うことは決してあり得ないのです。この点において聖書の言葉を信じる者にとっては「わたしたちは神の子である」と言う言葉は驚くべき教えを語っていることになるのです。

 もちろん信仰問答は「神の子」と言う言葉を使って、私たちが聖書の教える神と全く同じような存在になったと言うことを教えているのではありません。むしろこの「神の子」と言う言葉は私たち人間と神との密接な愛の関係を表す言葉として用いられている言うことができるのです。

 主イエスは私たちが祈るときの模範となるように「主の祈り」と言う祈りの文章を教えてくださいました(マタイ6章9〜13節、ルカ11章2〜4節)。その祈りの最初の部分で天におられる神を「父よ」と呼び掛けるようにと主イエスは私たちに教えてくださったのです。それは私たちの天の父である神が私たちをご自分の子どものように愛してくださっていて、私たちの祈りに答えてくださるということを教えるためでした。つまり、主イエスは天地万物を創造してくださった真の神を私たちは自分の「父」と同じような存在として信じ、祈り続けるようにと勧めてくださったのです。

 かつてキリスト教信仰に基づいて日本社会を変えようとした社会運動家で賀川豊彦という有名なキリスト者がいました。彼がアメリカを訪問し、ナイアガラの滝を見学したときのことです。彼をそこまで連れて来た案内人が「こんな素晴らしい滝は日本にはないだろう…」と賀川に語りました。すると賀川は「これは私の父が造ったものだ」と即座に答えて、そこにいたアメリカ人たちを驚かせたと言うエピソードが残されています。

 天地万物を造られた神を私たちが「父」と呼べることは、私たちの人生がこの確かな父なる神の導きのもとに進んでいることを教えます。つまり私たちの人生は得体のしれない「運命」によって支配されているのではなく、私たちを自分の子どものように愛してくださる神の御心によって進んでいることを私たちは知ることができるのです。


2.神の独り子

①神の養子とされた私たち

 私たちが天地万物を造られた神を自分たちの「父」と呼び、わたしたちもその「神の子」と呼ぶことのできる理由はどこにあるのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答はその理由を答えるために、イエス・キリストが「神の独り子」と呼ばれていると言う聖書の教えに私たちの目を向けさせようとしています。なぜなら、私たちが「神の子」と呼ばれる理由は、すべてこの「神の独り子」であるイエス・キリストによるからです。ですから信仰問答は次のようにそのことを説明しているのです。

「なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。」(問33)

 イエス・キリストだけが「永遠からの本来の神の子」と言う言葉がここでは語られています。つまり、本当に神の子と呼ぶことのできる方はイエス・キリストお一人しかおられないと言っているのです。そして「わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神のことされたいる」のです。つまり、私たちは本来「神の子」と呼ばれる存在ではないのですが、神の独り子であるイエス・キリストによって「神の子」とされている、他の言葉で表現すれば「養子」とされていると言うことができるのです。


②恵みによって

 特にここで「恵みによって」と語られている言葉に注意すべきでしょう。この言葉は私たちには何の条件も求められていないと言うことを教えているからです。

 信仰を持っていても私たちの人生にも不都合なことが度々起こったりします。そんなときに「神様は本当に自分を神の子としてくださっているのだろうか…」と考えることはないでしょうか。もし私たちが自分の人生に起こる出来事で「私たちも神の子とされている」と言う信仰が揺らぐとしたら、私たちはこの「恵みによって」と言う言葉を忘れてしまっている可能性があります。なぜなら、私たちがいくら自分を見つめ直しても、私たちの内には「神の子」とされる価値を見いだすことはできないからです。むしろ、私たちが自分自身を見つめ続けるだけならそこには私たちが神の子ではない証拠を見つけ出すこととなります。そして「だから自分は神の子ではない」と結論づけることになりかねないのです。

 この礼拝でも何度も語って来たようにイエス・キリストは誰からも「不幸な人」と決めつけられていた生まれつき目の見えない人について「神の業がこの人に現わされるためである」(ヨハネ9章3節)と語られました。ここで明らかになるのはその人の人生をとらえる視点が主イエスとそれ以外の人では全く違うと言うことです。

 ふつう私たちは自分の人生に起こる様々な出来事を見て自分が「神の子であるか、そうでないか」を判断しようとするはずです。しかし、イエス・キリストは最初から「この人は神の子であり、神の愛の対象である」と言う確信を持ってその人の人生を見ようとしています。ですから人の目にはたとえ不都合な出来事と見えても、必ずその出来事を通して神が救いの御業を実現してくださると考えることができたのです。このように「私たちも神の子である」と言う聖書の教えは私たちの人生の見方を全く変えてしまうような真理であると言うことできます。

 私たちは主イエスによってこれから神の子となるのではなく、すでに神の子とされています。だから私たちの人生に起こる出来事は私たちを自分の子のように愛してくださる神の御業によるものだと言えるのです。確かに私たちには今、自分の人生の起こっている出来事の正しい意味が分からないかも知れません。ですから「なぜ、こんなことが起こるのか…」と悩み苦しむことも起こるのです。しかし、「私たちも神の子」であると言う聖書の教える真実は、このような人生の中でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)と言う主イエスの言葉を信じて、希望を持って生きていくことができるようにさせるのです。


3.主イエスに買い取られた私たち

①主イエスの御業によって

 しかし「わたしたちも神の子である」と言うことは、「私たちがそう信じこめば私たちの人生に良いことが起こる」というような、単なるポジティブシンキング(積極的思考)を勧める教えではありません。むしろそれはすでに私たちの人生に実現している事実を語っているのです。だから、私たちの思考がたとえネガティブ、つまり消極的になったとしてもこの事実は決して変わることがないと言えるのです。それではどうして私たちの人生はこのように変えられたのでしょうか。その理由をハイデルベルク信仰問答の問34は次のように説明しています。

「問34 あなたはなぜこの方を「我らの主」と呼ぶのですか。

答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放しまた買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとしてくださったからです。」

 なぜ、私たちは恵みによって神の子とされたのでしょうか。そこには私たちの「主」であるイエス・キリストが私たちのためになしてくださった救いの御業が働いていることを信仰問答は説明しているのです。

 先ほども語ったように「私たちも神の子」と言う事実は「恵みによって」と私たちの人生に実現しました。だから私たちに求められている条件は一切なく、私たちは無償で「神の子」とされたと考えることができます。しかしその一方で、神の子であり私たちの主でもあるイエス・キリストは私たちが「神の子」となるために高価な代償を支払われたと信仰問答は教えています。それは「金や銀ではなく御自身の尊い血によって」です。つまり、私たちが神の子とならために主イエスはご自身の命を十字架でささげてくださったのです。だから、私たちはこの主イエスによって「神の子」として生きることができるようにされているのです。

 また、この問34では私たちが主イエスの御業によって「神の子」とされなかったとしたら、どのような人生を送っていたのか、そのことも教えています。それが「罪と悪魔の力」と言う言葉です。「罪と悪魔の力」私たちにどのような影響を与えるのかと言えば、それは私たちを神から引き離す力だと言えます。ですから「罪と悪魔の力」は私たちを命の根源である神から離すことで、命の反対である「死」に導く力であると言えるのです。つまり、私たちはかつて「罪と悪魔の力」によって「死」に支配される存在であったのです。ところがその私たしたちを主イエスはご自身の命を持って救い出し、この「罪の悪魔の力」から解放し、死から命へ、永遠の命の祝福に招いてくださったのです。


②神の子とされた私たちが覚えること

 ここから私たちが覚えることは二つあると思います。一つは私たちの命の価値は既に主イエスの命の価値と同じように高価で尊いものと神から見なされていると言うことです。ですから、その自分の人生を「価値がない」とか、「つまらない存在だ」と決めつけてしまうことは、この救いの真理に反する判断であると言えるのです。そしてこの判断は結果的には私たちのために命をささげてくださった主イエスの命の価値を無価値なものとしてしまう誤りであるとも言えるのです。だからこそ、私たちはこの主イエスの命によって「神の子」とされた自分の人生を大切に扱う必要があると言えるのです。

 聖書には「自分を捨てるように」(マタイ16章24節)と言うようにむしろ自分の存在を否定するような勧めが語られているところがあります。しかし、主イエスがこのように教えるのは「私たちの人生が無価値だから捨てなさい」と言っているのではありません。むしろ、私たちが自分の人生を主イエスに従い、主イエスのために使うならばそこに素晴らしい価値があらわれてくることを教えているのです。つまり、この教えも大切な自分の人生を無駄遣いしてはならないと言うことを語っていると言えるのです。

 また、さらに第二に私たちは主イエスによって罪と悪魔の力から完全に解放されていると言うことを忘れてはいけません。このことはつまり、罪と悪魔の力はもはや私たちの人生を支配して、死と滅びに導くことはできないと言うことを語っています。私たちの人生にたとえ「これは悪魔の働きではないか」と疑うような出来事が起こったとしても、もはや私たちはその力を恐れる必要はありません。もしこのような力を私たちが身近に感じたなら「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と言う主イエスの言葉を思い出すことが大切なのです。

 信仰問答は主イエスが「わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとしてくださった」と言うことを語っています。この言葉は私たちの人生を守るのは私たちの主であるイエスの役割であることを教えているのです。だからこそ私たちはこの主イエスの御業を信頼して、困難の中でも希望を持って生きることができるようにされているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ハイデルベルク信仰問答の問33と問34の文章をもう一度読み返しみましょう。あなたは自分が「わたしたちも神の子」であると言えることがどんなに素晴らしいことかを理解できますか(問26参照)。

2.私たちの主イエスだけが「永遠から本来の神の子」であるなら、私たちもどうして「神の子」と呼ばれるのでしょうか(問33)。

3.私たちは「主イエス」によってどのような境遇から解放されたと信仰問答は語っていますか(問34)。

4.それでは「主イエス」は私たちをそのような境遇から解放するためにどんな代償を払われたのでしょうか(問34)。

5.信仰問答が語るように「(主イエスが)わたしたちの体も魂も、すべてをご自分のものとしてくださった」と言う真理は私たちの人生にどのような慰めを与えるものだと言えますか。私たちがこのことを考えるためにもう一度、この信仰問答の問1の文章を読み返してみましょう。

2023.6.18「わたしたちの主、神の独り子」