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  4. 6月25日「恐れるな」

2023.6.25「恐れるな」 YouTube

マタイによる福音書10章26〜33節(新P.18)

26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」


1.恐れてはならない

①恐れるからこそ、準備する

 他国との戦争に備えてある国の政府が最強の軍隊を作ろうと考えました。そのために考え出されたアイデアが他の人間に比べてより「恐怖」の感情をあまり抱かない人々を選抜して、新たな部隊を創設することでした。そして様々な心理テストを行って、「恐怖」の感情をあまり感じない選りすぐりの兵士が選び出されました。やがて実際の戦地にその部隊が派遣されたときにどのような結果になったか…。結果は戦地から生き残って帰って来た兵士はその部隊からは一人もいなかったと言うものでした。

 「恐れる」と言う感情は私たち人間が必ず持っているものあると言えます。人は「恐れる」からこそ、そうならないような備えをしようと考え、行動します。東日本大震災を経験した私たちは、再び大地震が起こったときに同じような被害を出さないために、今まで様々な備えをして来ました。これもまた、私たちが地震やそれによって引き起こされる災害に会うことを恐れているからです。このような意味で私たちが抱く「恐れる」と言う感情は私たちの生活を維持するためにも必要なものでると言うことができます。


②主イエスの言葉の正しい意味は何か

 心理学では人間が抱く「不安」と「恐怖」の違いを説明する明確な定義があります。不安はそれを引き起こしている原因が漠然としています。そのため人がその不安を取り除くことは簡単ではありません。しかしこれに対して「恐怖」の場合にはその感情を引き起こしている原因がはっきりしているのです。だからその問題に対する対象の方法も考えて、備えることができるのです。

 今日の聖書の箇所で主イエスは「恐れるな」と言う言葉を三回も繰り返して語っています。この言葉を誤解して「信仰者は決して恐れてはならない」と考えてしまうと、私たちの信仰生活に様々なトラブルが生じてしまうかも知れません。先にもいいましたように、「恐怖」の感情がその人を守り、また問題に備えるようにもさせるからです。それではなぜ主イエスは私たちに「恐れるな」と命じておられるのでしょうか。私たちは聖書から主イエスの言葉の意味を正しく理解する必要があると思います。


2.福音宣教のために

 まず今日の主イエスの言葉は直接にはいったい誰に語られたものなのでしょうか。この言葉が記されたマタイによる福音書を読んでみるとその事情が少しわかってきます。まず、この福音書は10章の最初で主イエスが十二人の弟子たちを選ばれたことを取り上げています(1〜4節)。さらに主イエスは続けてこの十二人の弟子を福音宣教の旅に派遣しています(5〜15節)。そして今日の箇所の直前で主イエスは福音宣教の使命に遣わされる弟子たちが行く先々で様々な迫害に出会うことを予言されているのです(16〜25節)。たとえばイエスはその迫害について次のような言葉で説明しています。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16節)。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」(17節)。

「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(21〜22節)。

 弟子たちが主イエスから与えられた福音宣教の使命に生きようとするとき、彼らは今まで経験したことのない厳しい迫害を受けることになるとここでは予言されています。まさにこの主イエスの予言の言葉こそが弟子たちに「恐怖」の感情を抱かせる原因となったものだと言えます。おそらく、この言葉を聞いた弟子たちは「自分たちにはそんな難しい使命に答えることのできる力はない」と考え、恐れたに違いありません。ですから主イエスの「恐れてはならない」と言う言葉はこのような弟子たちに語られたものであることを私たちはまず覚える必要があります。


3.人々を恐れてはならない

①正しい命令

 あるときうつ病で苦しんでいると言う一人の女性が教会へ訪ねて来ました。その女性の話を聞いていた教会の姉妹の一人が「いろいろなことをくよくよ考えるからダメなのよ。しっかりしなさい」と言う言葉をかけて、その女性を励まそうとしたのです。私はそのとき、その女性がとても悲しい顔をして黙ってしまったことを思い出します。このとき彼女を励ますために語った教会の姉妹には何の悪意もありませんでした。おそらく、苦しむ女性の話を聞いて「何とか励ましてあげたい」とおもったのだと思います。しかし今悩んでいる人に、「悩んだらだめ」と言っても何の解決にもなりません。なぜなら、本人は「悩むのを止めたい」と思っても、それを止められないから苦しんでいるからです。

 「恐れ」を抱いている人も同じです。「恐れるな」と命じられても、それを自分の力では止めることができないから苦しんでいるのです。主イエスも確かにここで私たちに「恐れてはならない」という命令を語っています。しかし、主イエスの語る命令は「恐れ」を抱いて苦しんでいる人を苦しめるような無理解な命令ではありません。むしろ、主イエスは私たちが抱いている「恐れ」は、正しいものではないことをここで明らかにされるのです。なぜなら、私たちに「恐れ」を抱かせている問題のすべてはすでに神によってその解決策が与えられているからです。


②神が証明してくださる

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)。

 私たちの周りでも「宗教」と聞くと強い警戒心を持って私たちの話を聞くことを拒否しようとする人々が多くいるはずです。彼らには「宗教」は「人を騙して、食い物にする詐欺」と同じように考えられているようです。実際にそのような誤解を与えるように事件がこの世では頻繁に起こっています。だから私たちは福音を伝えることにいつも困難を感じているのです。

 主イエスは弟子たちに「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)と言っています。これはイエスが弟子たちに語った言葉を広く皆に告げ広げなさいと言う命令です。私たちが聖書から学んだ真理を他の人たちにも伝えなさいと言っているのです。そしてそのときに相手がどのような誤解をしても、「恐れる必要はない」と主イエスは語るのです。なぜなら、聖書に語られている神の言葉が真実であることはやがてすべての人に分かる日がやって来ると主イエスは語っているからです。

 「聖書に記されている神の言葉は無謬である」(ウエストミンスター信仰告白1章5節)、つまり聖書は誤りなき真理を伝えていると私たちは信じ、告白しています。そしてこの「無謬」と言う言葉には神ご自身がこの言葉が真理であることを証明してくださるという信仰が隠されているのです。なぜなら、誤り多き人間がいくらその知恵と言葉を駆使しても聖書の言葉が真理であると言う証明を行うことは不可能だからです。しかし、主イエスは私たちに神自らがそれを証明してくださるのだから、恐れることなくその言葉を忠実に伝えなさいとここで命じられているのです。


4.神とのきずなは決して失われることがない

①神以外のものを恐れるな

 この箇所で主イエスは「恐れるな」と言う言葉を三回繰り返して語っているのですが。正確に説明すると最初の「恐れるな」と言うのはこれから起こる出来事に対しての警告、つまり、この時点ではまだ弟子たちは伝道旅行に出発していませんから、実際には起こっていないことです。

 しかし、この後の二つの「恐れ」はすでに弟子たちが抱いている恐れ、つまり実際に今すでに弟子たちが恐れに捕らわれているものに対して主イエスは「恐れてはならない」と教えているのです。

 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(28節)。

 まず主イエスは私たちに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と命じています。そして「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と教えられているのです。この言葉は私たちに「神以外のものを恐れる必要はない」と言うことを語っています。

 ある時に神殿にやって来たペトロは、その途中の道で足が不自由で人の助けを借りながら物乞いをしている人に出会いました。そのときペトロはこの人に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と語り、その人は自分の足で歩けるようになったと言う物語が記されています。この言葉を借りれば「金銀」には私たちを本当の意味で生かす力はありません。私たちの地上の命が終わりを迎えるときには金銀は何の役にも立たないからです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者」とは私たちにこのような「金銀」しか提供できない人々、決して命を与えることができない人々のことを指しています。しかし、主イエスは私たちにこの命を与えることのできる唯一のお方です。そして弟子たちに与えられた福音伝道の使命はこの命を人々に提供する重要な務めであると言えるのです。だから私たちは神以外のものを恐れることなく、主イエスからゆだねられた福音伝道の使命を遂行していくことが大切なのです。


②私たちを心に留める神

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。

 神殿の庭ではそこにやって来て神に動物犠牲をささげる人のために、律法で決められている様々な動物が商品として売られていました。雀はその動物の中でも最も貧しい人がささげることができるような安価なものでした。聖書の巻末に記されている資料では一アサリオンは当時の労働者に払われた一日分の賃金一デナリオンの十六分の一と説明されています。他の解説書では一アサリオンは約50円と説明されています。そして雀は一匹では売り物にならないほどに価値が低いと考えられていたとも言われていました。「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。神はこんな小さな雀のような存在にも心を留めてくださっていると主イエスは教えてくださっているのです。私たちがたとえ自分を「取るに足りない無価値な存在」と考えていたとしても、神はいつもそんな私たちを大切な存在として心に留めてくださっていると言うのです。

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(30節)。

 皆さんの内で「今自分の髪の毛は何本ある」と答えられる人はいるでしょうか。多分いないはずです。この主イエスの言葉は、私たちが自分自身のことさえ、良く理解できていない愚かな存在であることを言い表しています。心理学では私たちの抱く「恐れ」は私たちが勝手に考えた物語の上に生じていると説明されています。つまり、私たちは事実ではないのに、勝手に自分が描いた物語によって「恐怖」を感じて、苦しんでいるのです。なぜなら、私たちは自分のことさえよくわかっていない者たちだからです。しかし、神はそうではありません。私たちのすべてをご存知の上で、私たちを最善の道に導かれるのがこの神の働きなのです。だから、私たちは自分で勝手に描いた自分の人生に対する物語によって「恐怖」に捕らわれてしまうのではなく、私たちのことをすべてご存知の神に信頼し、その言葉に従って生きる必要がと言われているのです。


③喜びに満たされて帰ってきた弟子たち

 ルカの福音書では主イエスがこの十二人の弟子たちを派遣したこととは別に、再び七十二人の弟子たちを選んで宣教旅行に派遣したと言う出来事が記されています(10章1〜12節)。そしてルカはこの後に、七十二人の弟子たちが主イエスの元に喜んで帰って来たと言う報告も付け足しています(同17〜20節)。それはイエスの語った言葉が真実であったことを彼らが実際に宣教旅行の旅先で経験したからでした。彼らは「恐れるな」と言う主イエスの命令が、口先だけの根拠のない命令でなかったことを、実際に神が自分たちを守ってくださったことを通して知ったのです。

 このことから私たちが学べることは、いくら主イエスの「恐れるな」と言う命令に心を留めて、自分の心に何度も言い聞かせ、その言葉を信じようとしても、それだけでは私たちは自分を支配する「恐れ」から解放されることはできないと言うことです。

 大切なのは私たちが主イエスの命令に従って実際に生きることです。そうすれば私たちはこの主イエスの言葉が真実であることを知ることができるのです。そのような意味で主イエスがわたしたちに対して語っている「恐れるな」と言う命令は、私たちがこの弟子たちと同じ喜びにあずかるための命令であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは私たちに恐れないで何をしなさいと命じていますか(27節)。

2.実際に人々に対して私たちが主イエスの福音を証ししようとするとき、あなたはどのような恐れを抱きますか。

3.主イエスが語る「体は殺しても、魂を殺すことのできない者」とはどのような人のことですか。また「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」とは誰のことを言っているのでしょうか(28節)。

4.「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(29〜30節)と言う主イエスの言葉を読むときあなたの心にどのような慰めが与えられますか。また神に対するどのような畏れが生じますか。

2023.6.25「恐れるな」