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2023.6.4「神の愛と独り子イエス」 YouTube

ヨハネによる福音書3章16〜18節

14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。


1.救いの確信を求めて

①有名な聖書の言葉

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。

 この言葉は聖書の中でも最も有名な聖句の一つと言うことができます。私が子供のころからずっと聞いていたラジオのキリスト教番組では毎週のようにアメリカ人宣教師が独特の言い回しで、この聖書の言葉を朗読していたことを思い出します。

 ところで、この有名な聖書の言葉はいつ、どのような場面で誰によって語られたものと言えるのでしょうか。実際に福音書を読んで見るとこの言葉が夜中にこっそりと主イエスの元にやって来たニコデモと言う人物に語られた主イエスの言葉であることが分かります。しかし、ここで問題なのはこのヨハネによる福音書はこの言葉をニコデモに答えるイエスの言葉として10節から21節までを鍵カッコで挟んで表していると言う点です。もともとのギリシャ語の聖書の原文にはこの鍵カッコは付けられていませんから、本来はどこからどこまでがイエスの言葉なのかがよくわからないのです。ですから一部の聖書学者はニコデモに対するイエスの答えを10節から15節までとして、その後に続く16節以下の言葉はイエスご自身の発言ではなく、そのイエスの言葉を福音書記者ヨハネが解説している部分だと考えるのです。つまり、この16節の言葉は福音書記者ヨハネ自身がイエスに対して持っていた信仰を表す言葉だと言うこともできるのです。


②重要な人生の問題の答えを求めて

 今言いましたようにこの箇所はニコデモという一人の人物の登場がきかっけとなって始まる物語となっています。聖書によればこのニコデモはファリサイ派と言う宗教家のグループに属していた人物で、「ユダヤ人たちの議員」つまりユダヤの最高議会のメンバーの一人であったことが分かります。地位も名声もそして聖書に対する知識も豊かに兼ね備えていたのがこのニコデモと言う人物であったと言うことが分かるのです。

 しかし、この人物には一つ重要な人生の問題がありました。それは彼が夜、人目を忍んでイエスの元に訪ねて来たことから推測できます。その問題は一言で言えばニコデモには「自分は救われている」と言う確信がないと言う点でした。彼はこれまでファリサイ派のメンバーとして熱心に聖書を学び、そしてそこに教えられている神の戒めである「律法」を厳格に守ると言う生活を送って来ました。だから、ニコデモはその結果、人々からの信頼を受けて最高議会の議員にまでなることができたのでしょう。聖書によればニコデモがイエスの元に訪ねて来た時、彼はかなりの年齢に達する老人となっていたことが分かります(4節)。もうこの世に残されている自分の人生の年月はわずかとなって来ていたニコデモはそれを自覚しながら、「果たして自分は永遠の命の祝福にあずかることができているのか…」と言う疑問を抱くようになり、その問題が彼を悩ませていたと言えるのです。

 釈迦はどんなに心を奪われるような素晴らしい宝物であっても、そのほとんどは私たちにやがて訪れる死の彼方に持っていくことはできない。だから私たちはむしろ死の彼方までも付き合い続けなければならない物を今の内から大切にしなければならないと教えたと言います。ニコデモがこれまでの人生で得た地位も名声も、また知識の多くも、彼の死の前には何の役にも立ちませんでした。だからこそ彼は「どうしたら永遠の命の祝福にあずかることができるのか」と言う疑問に対する答えを求めてイエスの元に一人でやって来たのです。


2.信仰の熱心も確信にはなりえない

①ニコデモの抱えた不安

 ニコデモは年老いて自分が老人になっても「自分は永遠の命の祝福を持っている」と言う救いの確信がありませんでした。聖書が教える「永遠の命」は神が私たち人間に与えてくださる賜物です。ですからニコデモにその確信がないと言うことは、彼は「自分にはその祝福を神から受けるに値する資格があるのか…」と言う悩みを抱えていたと言うことになります。彼はこれまで人生の大半をファリサイ派の信徒として歩んで来ました。そしてこのファリサイ派の信仰の特徴は「神の祝福を受けるためには、自分がその神の律法を忠実に守ることで、その資格を得る必要がある」と言うものだったのです。これがいわゆる「律法主義」と言う教えの特徴です。だからニコデモはその資格を得るためにこれまで熱心に律法を守ることに励んできたのだと思います。しかし、残念なことに彼はそのような熱心な生活を送って来ても、結局、自分が永遠の命の祝福を受けることができていると言う資格を持っているとは思えなかったのです。

 ある人々は「信仰は、自分がそう強く信じればよい」と言うように人間の側の強い信念が大切だと教えます。しかし、このときのニコデモにとって重要だったのは自分の救いを確かめることができる客観的な証拠だったと言うことができます。神の律法をいくら熱心に守っても、人間の力には限界があってそれを完全に守ることはできません。つまり、どんなにニコデモが律法を熱心に守る生活を続けてきても、「自分はこれで大丈夫、永遠の命の祝福が与えられている」と言う確信を持つことは不可能なのです。むしろニコデモは熱心な信仰生活を送りながら、もう一方で「このままで大丈夫だろうか」と言う不安を強めて行ったと言うことができるのです。


②律法主義に逆戻りしてしまった人々

 アメリカ大陸に渡っていったピューリタンは私たちと同じ改革派の信仰を持つ人々でした。彼らは「自分たちの救いは神の一方的な選びによる」と言う信仰を受け継いだ人たちなのです。しかし、その一部のピューリタンの中では、むしろ律法主義に逆戻りすると言う現象が生まれたと言う歴史を神学校の授業で学んだことがあります。その問題はニコデモと同じように「救いの確信」を巡って起こったと言われています。彼らは自分たちの救いは神の一方的な選びによるものであって、自分たちの行う善い業のような功績によるものではないと信じていました。ところが彼らは「自分は神に選ばれているのか」と言う肝心の部分で、それを確かめる方法で大きな過ちを犯してしまったのです。それは「良い木は良い実を結ぶ」と言うイエスの教えた原則に基づいて(マタイ7章18〜20節)、選ばれている人は聖書の掟を熱心に守る力を持つことができると考えたのです。結局彼らは「自分は神から救いに選ばれている」と言う信仰の確信を得るために、聖書の掟を厳格に守るというような信仰を送り、それができない人は神に選ばれた人ではないと考えたのです。これで結局、彼らはイエスが否定したファリサイ派と同じような律法主義に似た信仰生活を送るようになってしまったと言うのです。

 私たちはどうでしょうか。聖書の教えに従って熱心に信仰生活を送ると言うことは決して間違った態度ではありません。しかしどんなに熱心に信仰生活を送っても、私たちは聖書の教えるような理想的な信仰生活を送ることができないときがあります。そんな自分の姿を示されたときに「自分はこれでも神に救われているのだろうか…」と言う不安を持ったとしたら、私たちも今日の聖書箇所に登場するニコデモと同じような人生の問題を持っていると言うことができるのです。


3.救いの確信をイエスに求める

①旗竿に掲げられた青銅の蛇

 自分が救われていると言う確信を自分自身に求めること、「自分がまじめな信仰者だから大丈夫」と考えることが間違いであることを今日のヨハネによる福音書の言葉は私たちに教えています。なぜならヨハネは次のように語っているからです。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(14節)。

 この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と言う出来事は旧約聖書の民数記に21章4節から9節に記されている物語を指しています。この物語ではモーセによってエジプトから導き出されたイスラエルの民が荒野での過酷な生活に耐えきれず、神とモーセに不平を言って逆らいます。すると神は「炎の蛇」、つまり猛毒を持った蛇をイスラエルの民の中に送ることで彼らを罰します。そこでたくさんの人々がこの毒蛇のために命を失うと言う悲劇が起こったのです。この後で自分たちの犯した罪に対する赦しを求めるイスラエルの民の願いに受け入れて神がモーセに命じたことは、炎の蛇を青銅で作ってそれを旗竿の上に掲げると言う方法です。そしてもし毒蛇にかまれた者であって、すぐにこの旗竿の蛇を仰ぎ見るならその人の命は守られると教えたのです。毒蛇にかまれた者がそこで自分の傷や自分をかんだ毒蛇を見つるだけなら、毒はすぐにその人の体全体に巡り命を奪います。しかし、蛇にかまれた瞬間、その視線をすぐに旗竿の上の青銅の蛇に向ければその人の命は助かったと言う物語が旧約聖書に記されています。

 この福音書の言葉は自分の信仰生活に目を向けて、そこに自分の救いの確信を求める者は、決してその確信を得ることができないし、永遠の命を得ることもできないと言うことを教えています。そして私たちにとって大切なのは「人の子もあげられなければならない」と言う言葉で表現されているように、私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス・キリストに私たちの救いの確信を求めることだと言えるのです。だからヨハネは「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と続けて語ったのです。


②神の愛が御子イエスを通して示された

 そしてヨハネはここで私たちの救いの確信にとって大切な客観的な証拠がすでに神によって私たちに与えられていることを次のように教えているのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。

 ヨハネの語る「世」は神に敵対し、神に背き続ける存在です。そしてその中には間違いなく私たち一人一人の含まれていると言えるのです。この世は本来、神に愛される資格を持っていなのです。しかし、聖書はここで驚くべき神の御心を示しています。その愛される資格のないこの世を、神は愛してくださっていると言うことをです。そしてその愛が言葉だけではなく、真実であることの証拠として御子イエス・キリストがこの世に与えられたのです。この「与える」と言う言葉は「与え尽くす」と言う意味を持つ徹底した言葉であると言えます。神が私たちを愛するために御子イエスの命まで与え尽くされたと言うことを表しているのです。つまり、私たちの救いが確かなことは神が私たちのために御子を世に与えてくださったことを通してはっきりとわかると福音書記者は教えているのです。このように私たちが神に愛されると言う資格を持っていることは、私たちのためにこの世に遣わされたイエス・キリストによってはっきりと示されていると言えるのです。つまり、私たちの救いの確信の根拠はこのイエス・キリストであると聖書は教えているのです。


4.すでに与えられている永遠の命

 作曲家フォーレが作った「レクエム」はとても有名です。このフォーレのレクエムには当時の他の作曲家がレクイエムを作る際に必ずその曲の構成の中に取り入れた「最後の審判」、「怒りの日」と言う部分がありません。そのためにフォーレのレクイエムは当初、「聖書的ではない」とか、「異端の教えだ」と言うような猛烈な批判を受けたと言われています。

 私たちが読んでいるヨハネによる福音書の特徴も他の福音書が取り扱っている世の終わりの出来事、つまり、この世界に神の厳しい裁きがどのように実現するかと言うことを語っていないところにあります。しかし、だからと言ってヨハネは「神の裁きはない」と教えているのではありません。ヨハネがその代わりに強調するのは神の裁きは既に実現していると言う主張です。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(17〜18節)。

 ヨハネがこのように神の裁きを語るのは、私たちの救いも最後の審判を待たなくてもすでに実現していると言うことを私たちに教えるためであるとも言えます。昔読んだ小説の中に登場するユダヤ教のラビは「キリスト教徒は死んでから天国とか地獄があると信じているから、ノイローゼになるのだ」と語っていたことを思い出します。このラビが語ったようにノイローゼになって心理的な混乱に陥る人の多くは自分の過去を悔やむこと、また将来の自分を心配することで大切な今と言う時間を使い果たしてしまうところにその症状が現れます。最近の心理学の用語ではこのような症状を「マインドフルネスに生きられない」と言う言葉で表現します。そしてマインドフルネスとは私たちの持っている力を大切な今と言う時間に注ぐことを教えるのです。

 ヨハネが神の裁きや私たちの救いを最後の審判の時まで引き延ばすことなく、今すでに実現していると教えるのは、私たちの心を大切な今と言う時に向けるためだと考えることができるかも知れません。神は罪人である私たちが受けるべき厳しい裁きを、主イエスを十字架に掛けて裁かれることですでに実行してくださいました。だから、私たちは自分の罪で満ちた過去のことを思い出して、それを悔いる必要はもうないのです。また、イエス・キリストによって救いの確信をいただくことができる私たちは、これから自分がどうなるかと言う心配もする必要がありません。大切なのは私たちの人生に与えられた今と言う時をどう送るかと言うことにあるのです。そして聖書は私たちがこの大切な今と言うときを主イエス・キリストと共生きることを教えているのです。なぜなら聖書が教える「永遠の命」とは、命そのものである主イエス・キリストと共に生きることを表すものだと言えるからです(ヨハネ5章39節)。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ヨハネによる福音書3章に登場するニコデモと言う人物はどんな問題を抱えて悩んでいたのでしょうか(3節)。

2.民数記21章4〜9節の物語を読んで見ましょう。モーセは何のために「荒れ野で蛇を上げた」のでしょうか(14節)。

3.この言葉に続けて語られている「人の子もあげられねばならない」と言う言葉は私たちに何を教えているのでしょうか(14〜15節)。

4.神が世を愛されているという確かな証拠を私たちは何よって知ることができるとヨハネは教えていますか(16節)。

5.ヨハネは神の裁きがどのように実現していると言っていますか。また御子イエスを信じる者はなぜ裁かれないと言えるのですか(17〜18節)。

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