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2023.7.16「御言葉を受け入れる者は幸い」 YouTube

マタイによる福音書13章1〜23節(新P.25)

1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。

2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。

3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。

8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

9 耳のある者は聞きなさい。」(10〜17節略)

18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、

21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


1.わからないたとえ

 今日も皆さんと聖書から主イエスの語られたお話を学びます。今日の箇所では「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言う弟子たちの質問が記されています(10節)。そして主イエスはこの質問に答えて自分がどうしてたとえ話を語るのかという理由を語っているのです。ふつう「たとえ」を語る、つまり「たとえる」と言う方法はこちら側の語ろうとするメッセージを相手により理解しやすくするために使われるものだと言えます。ですからその「たとえ」が的確なものであれば、相手にこちら側の意志を伝えることができます。しかしそうでない場合には余計相手を混乱させてしまうことにるのです。ときどき「ようするに」と言いながら余計に難しいことを語って相手を混乱させてしまう人がいます。これではたとえで語る意味が全くないと言えるでしょう。

 しかし、今日の箇所の主イエスのお話を聞いていると、主イエスの語られる「たとえ」は特定の人たちだけに理解できるようにさせる、むしろ「暗号」のような役目を果たしていると考えることができます。確かに「たとえ」が成立するのは聞く相手がそのたとえを理解する経験や知識をあらかじめ持っている必要があります。だから、それを持っていない人には謎のような話となってしまうのです。今日の箇所で主イエスが語ったたとえ話もそうであると言えます。この「種まき」のお話は畑に種を蒔いたことがない人が読んだり、また農業の知識や経験を知らない人が聞いてもその意味がよくわからないかも知れません。いえ、今日のお話はむしろ近代的な農業技術を知っている人にはさらに理解しがたいお話になってしまうと言えるのです。なぜなら、このお話に登場する農夫の種まきの仕方は現代の農業技術から考えると愚かで無謀なものとも考えることができるからです。

 そのような意味で主イエスの語るお話は、主イエスを信じ、その神の国の福音に希望を持って生きようとしている人にだけ理解できるものであると言えます。主イエスの語る福音に関心を示さない人々にはなぞのようなお話で終わってしまうのです。


2.非効率な種まき

 今も言いましたようにここで主イエスが語られている「種まき」のお話を現代の農業技術を知っている人が聞く場合、余計に理解し憎い部分が出てくる恐れがあります。おそらく皆さんもご存知のように畑から良い農作物を得ようとするなら、まずその畑を耕して「よい地」にしてから、その畑に丁寧に種を蒔いて行く必要があります。しかし、このお話ではそのような過程が一切省略されていて、農夫はどこに種を蒔くかは関係なく、むしろ無造作に種が蒔かれているように思えるからです。

 調べてみるとこの蒔き方は当時のイスラエルでは普通の方法であったようです。当時のイスラエルではまず種を蒔いてから畑を耕すという方法がポピュラーであったと言うのです。聖書解説者によればこの方が日差しの強い乾燥地帯の農業には好ましかったと言うのです。

 ところで主イエスはこのようなたとえ話を教えて、いったい何を語ろうとされているのでしょうか。その訳が主イエスによって18節以下で語られています。ここで蒔かれた種は「御国の言葉」であると説明されています。つまり、主イエスやその弟子たちによって多くの人に伝えられた神の国の福音こそがこの畑に蒔かれた種であると言いことができるのです。そう考えるときここで主イエスによって語られている種の蒔き方はこの福音を伝えるために用いられる方法と似ていることが分かります。なぜなら、福音は相手を選ぶことなく、すべての人に伝えられる必要があるからです。

 日本でも以前、真剣になって天皇一家に福音を伝え、彼らをキリスト者にすることが日本全体の伝道にとって効果的な方法だと力説する人たちがいました。確かに聖書の真理に従うならば、彼らもまた神の赦しを受け、救われる必要のある罪人たちであることに間違いはありません。しかし、このような主張をする人たちは天皇一家がキリスト者になれば日本伝道がより効果的に進むと考えるのです。これはある意味で相手を選んで伝道するという方法となると言えます。しかし、実際に主イエスはそのような方法を取ることはありませんでした。彼はユダヤの王やローマの皇帝に伝道することを優先的に考えることはありませんでした。むしろ、彼の周りに集まったある意味で社会的な影響力を何も持たない貧しい市民に神の国の福音を宣べ伝えたのです。そして主イエスは弟子たちにも同じような方法で福音をすべての人に伝えるようにと命じられたのです。

 このような意味で種まきのたとえ話はこの主イエスの行われた福音伝道の方法について、「この方法は効果的ではない」と主張する人々に対する反論を語っていると考えることができます。果たして彼らが批判するように、主イエスの伝道方法は愚かで無謀なものであると言えるのでしょうか。


3.実が結ばない理由

 その答えは明らかに「No」であると言うことができます。なぜなら、主イエスのこのたとえ話から分かるのは、福音を聞いても豊かな実り結ばない人々の理由は、蒔かれた種でも、その種を蒔いた人にあるのではないと言うことが分かるからです。むしろ、この種は良い地に落ちれば「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」(23節)ことができるのです。主イエスによって語られる福音はそれを信じ受け入れる人の人生を大きく変え、豊かに祝福する力を持っています。しかし、その種がまかれても実を結ぶことなく、芽を出さなかったり、芽が出てもすぐに枯れてしまうのは、その土地が悪かったからです。つまり福音の言葉を聞く人の心が種を育てるにふさわしいものではなかったことが原因であると主イエスは語ってくださっているのです。

 「道端」(18節)や「石しだらけで土の少ない所」(20節)に落ちた種とは主イエスの教える福音の言葉、聖書のメッセージに特別の関心を示さない人であると言えます。なぜなら、彼らは福音こそが自分を罪と死の支配から解放し、自由にさせるものと言う希望を持っていないからです。むしろ彼らにとっては聖書の教えはこの世が提供する様々な情報の一つと考えられています。だからその御言葉が自分の都合に合わなければ、それを簡単に捨てて、他の考えに従って行こうとするのです。ましてや「艱難や迫害」(24節)が起これば「こんなはずではなかった」と考えて、もとの生活に簡単に戻って行こうとする人々だと言うのです。

 福音はそのような心を持つ人の人生には決して実を結ぶことはありません。福音は主イエスを信じて、その方に従う以外に自分が罪と死の支配から解放される方法はないと考える人の心にのみ豊かな実を結ばせることができます。この点で「茨の中に蒔かれたもの」(22節)も福音が自分の人生にとっても最も大切なものであるという考えが欠けています。だから彼らは「世の思い煩いや富の誘惑」に簡単に心を奪われてしまって、福音に対する関心を失ってしまうのです。

 このような意味で福音を受け入れる心とは、この世においてよい条件を兼ね備えているようなものではないと言うことができます。むしろ、この世の生活で十分に満足している人は福音に耳を傾けようとはしません。そしてこの世の知識を身に着けている人にとっては聖書が語っている言葉は古代人の信じた迷信でしかないと考えられているのです。

 彼らと違い福音を受け入れる人は、自分の人生には深刻な問題があることに気づき、その問題を解決することができる方法はこの世にはないと言うことに気づいています。哲学者であり数学者でもあったパスカルは「自分の横にはいつも深い深淵がある」と語りました。その深淵が自分の人生を空しいものにしていると言うのです。その深淵を埋めることができるのは私たちの救い主イエスしかおられないのです。もちろんこのように、自分の人生の深淵を知ることができるのも私たち自身の力ではありません。神が私たちの心に聖霊を送り、私たちにそれを気づかせてくださるからです。だから主イエスは「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(16節)と語っています。なぜなら、この聖霊の働きがなければ私たちもまた、福音を喜んで受け入れることができなかったからです。


4.御言葉を宣べ伝える

 さて私たちのこの主イエスのたとえ話から最後に何を学び、また従う必要があるのでしょうか。もちろん第一には今、お話しましたように私たちが聖書の言葉、つまり福音を真剣に受け入れると言うことが大切であると言えます。現代は「ポストモダン」の時代だと言われています。このポストモダンの特徴は絶対的な真理を否定して、自分やそのときの状況に都合がよいものを真理と考える傾向があります。簡単に言ってしまえば聖書の語る教えだけが真理ではないと言うのです。しかし、イエスのたとえ話はどんなことがあっても福音を捨てない、神を信じて聖書の御言葉に生きるときに、豊かな実りがその人生に与えられると教えているのです。私たちは聖書の言葉こそ私たちを救うべきただ一つの福音を語っていることを信じて、その御言葉に耳を傾けていく必要があります。

 また、このたとえ話の解き明かしは特にイエスを信じて従う弟子たちにのみ語られています。弟子たちは主イエスから福音を伝える使命を与えられた人々でもあります。ですからその弟子たちがどのような覚悟で福音を語るべきかをこのお話は教えられていると考えることができるのです。それでは福音を伝える使命を負っているものにとってこのたとえ話から学べることは何でしょうか。

 第一に福音を伝える方法に効果的な方法はは無いと言うことです。むしろ福音が効果を表すのは人間が考えた方法ではなく、そこに聖霊なる神が働かれるからです。だからこそ、たとえ愚かで無謀なやり方だと人から批判されたとしても、主イエスの弟子は忠実に御言葉を伝えていく使命が与えられているのです。

 第二に福音を伝えるべき相手を勝手に選り好みしてはならないと言うことです。確かにイエスも「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10章5〜6節)と語り、福音を語る相手を選ぶように教えているような言葉を語っています。しかし、これはむしろ自分にとって最も身近な人々から福音を伝えるようにと言う主イエスの指示であることを忘れてなりません。なぜなら、私たちにとっても最も身近な家族や知人に福音を語ることは返って難しからです。自分をよく知っている相手に口先だけの言葉を語ったとしてもすぐにそれが見抜かれてしまいます。だから私たちはむしろそのような身近な人を、福音を語るべき対象から外してしまうことがあるのではないでしょうか。

 こんなお話を聞いてことがあります。ある教会の牧師が教会員に「皆さん熱心に伝道をしましょう」と訴えて、教会のチラシを配布する奉仕への参加を呼びかけました。するとその教会で最も年配の二人の婦人もこの奉仕に参加したいと言うのです。そこで牧師はこの婦人たちに教会のチラシを渡して、「この通りを右側に曲がったところにある家々にこれを配布してください」と言いました。牧師が行った場所は最近、建ったばかりの裕福な人が住む新興住宅街が広がっていたからです。ところが、その二人の婦人は右に曲がるべきところを間違えて、左に曲がってしまいます。そこは貧しい人たちが住むスラムのような場所で、今まで一度もその場所から教会にやって来た人はいません。やがてそのチラシを見た一人の女性がやって来ます。彼女は夫と離婚し、三人の子どもを抱えて貧しい生活を強いられていました。彼女はその苦しみから逃れるために麻薬やアルコールに手を染めてもいました。それでも苦しみから逃れることのできない彼女は教会のチラシを見て、救いを求めてやって来たのです。この女性を教会に受け入れることは簡単ではありませんでした。しかし、皆がこの女性のために祈り続けることで、この女性はもちろんのこと教会の全体の雰囲気が変わって行ったと言うのです。神の御言葉が、この教会に豊かな実りを結ばせてくださったのです。

 もちろん、今日のたとえ話が語るようにすべてが私たちの都合よく進むと言うものではありません。むしろ、私たちがどんなに教会のチラシを配布しても誰も教会にやって来ないと言う体験を私たちはしています。その一方で教会に通って神を信じている私たちを、家族や身近な人は「騙されている」とか「愚かだ」と批判するかも知れません。そしてそんな経験を繰り返すと私たちはすっかり自信を失ってしまうのです。

 しかし、今日のたとえ話で主イエスは私たちが自信を失う必要はないと教えています。なぜなら、それは福音を受け取る人の側の心に問題があったからです。しかし、だからと言って私たちが勝手に先走って「この人はだめだ」と考えて、その人を福音を語るべき対象から外してしまうのも主イエスの教えではありません。私たちはそのことを次週学ぶ「独麦のたとえ」からも学ぶことができます。いずれにしても、私たちは今日の主イエスのたとえ話を通して「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(テモテ二4章2節)と言う使徒パウロの語った言葉を思い出し、私たちに与えられている福音伝道の使命を果たして行きたいと願うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもイエスが語ってくださったたとえ話を読んで見ましょう(1〜9節)。ここにはどんなお話が語られていますか。

2.弟子たちはイエスにどのような質問をしましたか(10節)。この質問にイエスは何と答えられましたか(11〜17節)。この答からイエスの語られたたとえ話にはどのような特徴があることがわかりますか。

3.御国の言葉の種が蒔かれても実を結ぶことができない人たちについて主イエスはその理由をどのように説明していますか(18〜22節)。

4.良い土地に蒔かれたものはどうなりましたか(23節)。私たちはこのイエスのお話からどのようなことを学ぶことができますか。

2023.7.16「御言葉を受け入れる者は幸い」