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  4. 7月2日「イエスか、家族か」

2023.7.2「イエスか、家族か」 YouTube

マタイによる福音書10章37〜42節(新P.19)

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


1.批判されたキリスト教

①厳しい主イエスの言葉

 今日も皆さんと共に聖書に記されている主イエスの言葉に耳を傾けて行きたいと思います。今日の聖書箇所の直前で主イエスはこのような言葉を語っています。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(10章36節)。

 主イエスの語られた言葉としては非常に激しい表現がここでは記されています。私たちが知っているように主イエスは何よりも人に対する愛の大切さを教えた方です。また弟子たちに剣を持って争うことの無意味さを教え、平和を説かれた方であると言えます。今日の主イエスの言葉はそんな私たちの主イエスに対する印象を覆す言葉のように聞こえます。いったい私たちはこの主イエスの言葉をどのように理解すべきなのでしょうか。また、主イエスはこのような厳しい言葉を使って、私たちに何を求めておられるのでしょうか。


②人倫に反する教え

 日本が近代国家を目指そうとした明治時代に起こった出来事に、内村鑑三の不敬事件と言うものがあります。当時、高等学校の教師をしていた内村が学校で明治天皇の記した教育勅語が読まれるときに他の教師たちがするような最敬礼を行わなかったという出来事が問題となったのです。やがてこの事件は日本中を騒がせることとなりました。ご存知のように内村鑑三はキリスト教の熱心な信仰者でした。そこで内村のこの事件をきっかけに日本中でキリスト教に対する反発が起こり、その中でも東大の哲学者だった井上哲次郎という人物がキリスト教に対する激しい批判を論じたことで有名となりました。その井上が「キリスト教の教えは人倫の教えに反するものだ」と非難のやり玉の根拠として取り上げたのが今、私たちが読んだ主イエスの言葉だと言うのです。

 教育勅語を作った当時の政府は国民が親や目上の者に従うことを通して、その頂点である天皇に忠誠を誓うようにさせようとしました。ですから「キリスト教は人が尊ぶべき家族や国家の秩序を否定する危険な教えである」と言う批判が盛り上がったのです。

 現代でも「カルト宗教に息子や家族を奪われた」と訴える人の姿をニュースなどで聞くことがあります。「あんなにいい子供だったのに、なぜあの子は変わってしまったのか」と言う言葉が語れ、結論として「宗教は怖い」というような印象がたくさんの人に植え付けられていくのです。主イエスは本当にこのような言葉を語り、国家や家族の秩序を破壊しようとしているのしょうか。


2.イエスの発言の意図

 何度も語るように私たちがこの主イエスの言葉を正しく理解するために大切なことは、「なぜ、主イエスはこのような言葉を語られているのか」、「主イエスはどのような意図をもってこの言葉を語ったのか」と言うことをまず解明することです。私たちがこれまで学んできたようにこのマタイによる福音書10章は主イエスによって十二人の弟子が選ばれ、彼らが伝道旅行に派遣されることが記されている箇所です。そしてその際に主イエスは伝道旅行に派遣される弟子たちにいろいろなアドバスを語っているのです。

 私たちの改革派教会が経営している神戸の神学校では毎年夏になると「夏季伝道」と言って、神学生が地方の牧師のいない教会に派遣されて行きます。その際に神学校では派遣式と言って、これからしばらく一人で見知らぬ場所に遣わされて奉仕する神学生のための式が行われます。この式で神学生が奉仕先で問題を起こすことがないようにと様々な注意事項が神学校の校長から語られるのです。

 イエスのアドバイスも弟子たちが立派にその使命を果たして旅先から帰って来ることができるように語られたものであると言えます。つまり、今日の主イエスの厳しい言葉もまた弟子たちが福音伝道の使命を果たすために必要なこと、その注意事項を語っていると言えるのです。

 今までも語ったように、弟子たちが福音を伝えるときに受ける人々の反応は必ずしも好意的なものではありませんでした。むしろ弟子たちは旅先で迫害され、様々なトラブルに会うことが予想されたのです。弟子たちはそのときにどのように対応すべきなのでしょうか。主イエスの言葉はこのように福音伝道の使命を行う弟子たちのために語られているものであり、またこの弟子たちと同じ使命を与えられて生きている私たちにも語られているものなのです。


3.十字架を負う、主イエスの模範に従う

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)。

 これは私たちが自分の家族を愛することを禁じている教えではありません。むしろ、私たちが主イエスを信じて、その福音を証しようとするときに起こるトラブルを取り上げているのです。なぜなら、私たちの家族や親族を結びつける絆としてキリスト教とは違う古い日本の宗教がそこで大切な役割を果たしているからです。私たちが家族を大切にすることは聖書の教えることで大切なことです。しかし私たちが神以外のものを礼拝することは私たちの信仰に反するものなのです。だから私たちが自分の信仰を大切にして古い日本の宗教行事に加わろうとしないなら、「家族の絆を否定するもの」という批判が加えられ、迫害される可能性が生まれるのです。

 このような場合に私たちはどう対応したらよいでしょうか。私たちが自分の信仰をまげて家族が求める絆に従うことが大切なのでしょうか。それとも、これを機に家族との縁をすべて切る必要があるのでしょうか。主イエスはこの同じ10章の中で次のような言葉を語っています。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)。

 ここで主イエスは狼の群れのような危険な状況に置かれている弟子たちのために神様に対して「鳩のように素直になること」そして、「蛇のように賢く」対処するようにと教えているのです。この主イエスの言葉で私たちに一番に求められていることは神に対する素直さ、神に対する従順です。私たちがいつも神の御心を覚え、それに従うことが私たちの人生の第一の目的だと言えるからです。そして「蛇のような賢さ」とはその神に従うためにはどうしたらよいかを、自分の知恵を使って考え行動することです。そして聖書はこの知恵の模範がすでに示されていることを私たちに教えているのです。

「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」

 この言葉は困難の中に置かれている私たちに主イエスの模範に従って生きることを求めている言葉です。主イエスは実際にこの世で「蛇のように賢く、鳩のように素直に」なることでご自身に与えられて救い主としての使命を全うすることができた方だからです。


4.私たちは小さなイエス

①傷つけられたプライド

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(40節)。

 私たちが人々に福音を伝えようとして、そこでかえって迫害を受けたり、深刻な困難に出会うときに私たちに起こりやすいことが二つあると言えます。一つは、神の言葉を熱心に人々に伝えても誰もその言葉に耳を傾けてくれないことにがっかりしてしまうことです。私たちはそこですっかり自信を失ってしまうのです。そして自分の家族や友人に福音を伝えることを止めてしまうことになるのです。

 また、もう一つは福音を伝える私たちを無視する人やまた反発して様々な妨害を行う人に対して怒りの感情を燃やして、「この恨み晴らさずにおかれようか」と思ってしまうことです。実際に主イエスの弟子のヨハネは自分たちの言葉に従わない人々に腹を立てて、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9章54節)と主イエスに語ったことがありました。ヨハネは自分たちが人々に無視されたことに腹が立って仕方がなかったのです。

 この二つとも共通した原因は「自分のプライドが傷つけられた」と言うところにあるようです。しかし、私たちが腹を立てても、また自信を失っても、私たちが福音を伝えるという使命は行えなくなってしまうのです。つまりこの二つの態度は「蛇のように賢い」ものではないと言えるのです。


②神が正しく評価してくださる

 主イエスはここで私たちのことを「小さな者」と呼んでいます。確かに私たちはこの世において、「小さな者」、「いてもいなくてもよい者」として扱われているかもしれません。しかし、そのようなこの世の私たちに対する評価で自信を失ったり、怒りを燃やす必要はないのです。なぜなら私たちの本当の価値を神は知ってくださり、正しく評価してくださるからです。私たちはすでに主イエスの命によって買い取られ、神の子とされた者たちだからです。神は私たち一人一人を主イエスと同じ価値を持つ者と評価してくださるのです。

 だから、主イエスは「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と語り、私たちが今既に天の父から主イエスと同じ価値を持つ者とみなされていることを教えているのです。だから主イエスは私たちがたとえ困難に直面してもそれで自信を無くす必要はなく、またたとえ自分をこの世が正しく評価しなかったとしても腹を立てる必要もないことを教えているのです。大切なのは私たちがそれぞれ与えられた使命を主イエスの模範に従って全うすることであることを、私たちは今日のイエスの言葉からも学ぶことができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.マタイによる福音書10章37〜38節を読んで見ましょう、ここで主イエスは私たちにどのような生き方を求めていますか。

2.この言葉は直接には主イエスによって宣教旅行に派遣される12人の弟子に語られた主イエスの言葉となっています。どうして主イエスは彼らにこのような言葉を語ったのでしょうか。

3.宣教旅行の旅先では弟子たちの語る福音を聞いて彼らを受ける入れる人も、また拒否する人もいました。主イエスの語られた40節の言葉を通して、弟子たちに対する人々の態度が何に反映されていることがわかりますか。

4.誰かがイエスの弟子である「小さな者」たちに行ったことに対してなぜ神は正しい報いを与えられるのでしょうか(42節)。

2023.7.2「イエスか、家族か」