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  4. 7月23日「今は裁く時ではない」

2023.7.23「今は裁く時ではない」 YouTube

マタイによる福音書13章24〜43節

24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

29 人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

(31〜35節略 聖書をご覧ください)

36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、

38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、

42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」


1.あきらめない牧師

 もう何度も礼拝でお話してきましたが、私が最初に教会に出席したのは、今から45年近く前の私が20歳ごろのことでした。それまでキリスト教とは全く無縁の環境で育った私にとって日曜日に教会に行くと言うことは並大抵のことではありませんでした。まず、子どものころから日曜日は休日、つまり何もしないで休む日として考えていました。ですから日曜日の朝、家族がまだ寝ているうちに、自分だけ起きて教会の礼拝に出席するのはとても大変でした。

 また、そのように努力して礼拝に出席しても、当時の私はキリスト教や聖書のことをあまりよく知りませんでしたから、礼拝の中で牧師が語るお話がよく理解できません。牧師の話には普段聞きなれない聖書の言葉がたくさん出て来るので、その内容は外国語を聞くような気がしました。その上、私は元々人前に出るととても緊張してしまうタイプでしたから、礼拝の席に座っているだけで緊張が高まって腹痛を起こして、一人で礼拝の場から抜け出さなければならないことが多くありました。そのようなことが理由となって、私はやがて日曜日の礼拝に欠席しがちとなりました。そして当然、教会からも足が遠のいて行ってしまったのです。

 ところがその教会の牧師はそんな私を心配してか、私の家を定期的に訪ねて来てくれました。当時、私の住む家はちょうど道を挟んで郵便局の正面に建っていました。だから、牧師の最初の言葉はいつも同じです。「郵便局まで手紙を出しに来たついでに寄りました」。その牧師が筆まめだったのかどうかは知りません。牧師は週に何回も私の家に訪ねて来るのです。そうすると私はその牧師の誘いに応じて久しぶりに教会の礼拝に出席します。しかしその後また礼拝から私の足が遠ざかる。そうするとまた、その牧師の家庭訪問が始まります。結局こんなことを繰り返して行くうちに、私は教会の礼拝にすこしずつ慣れて行ったのです。ですから私は復活されたイエスに出会って回心したパウロのようなタイプの信仰者ではありません。人から見れば信仰者になる見込みの薄い私を、それでもあきらめずに福音に導こうとした牧師やその教会の兄弟姉妹がいたからこそ、私はやがてその教会で洗礼を受けて神を信じることになったのです。


2.なぜ群衆にたとえを語るのか

 今日の聖書箇所にも前回と同じように主イエスが語ってくださったたとえ話が記されています。まずここには「毒麦」のたとえ(24〜30節)、そして「からし種」と「パン種」のたとえ(31〜33節)。さらにイエスが群衆にたとえを用いて語り続けたという報告(34〜35節)の後に最初に登場した「毒麦」のたとえの意味を主イエス自身が解き明かされるお話(36〜42節)が語られて、今日の箇所が構成されています。このようなお話の構成から考えると、おそらく主イエスのお話の中心は最初に語られた「毒麦」のたとえにあると言えるのかも知れません。

 今日の箇所でも主イエスはたとえを用いて群衆に語られたという記録が記されています(34節)。前回も私たちが学んだように主イエスがたとえ話を用いて群衆に語る理由は意外なものでした。なぜなら、主イエスがたとえを語るのは相手がその内容を理解するためではなく、むしろ分からなくするためであると説明されていたからです。イエスの語るたとえ話は天の国の秘密を悟ることを許されている者たち、つまり主イエスの弟子たちには理解できますが、そうでない人にはまったく理解不能な「謎」に終わってしまうと主イエスは語られているのです。

 しかし、これは考えて見るととても面倒くさい方法ではないでしょうか。たとえ話を聞き分ける人がイエスの弟子たちに限られているとしたら、最初から主イエスは彼らにだけお話すればよいのです。それ以外の余計な人々に語る必要はないはずなのです。それなのになぜ主イエスは弟子たちにだけではなくて、群衆に向けてたとえ話を語り続けたのでしょうか。実はその答えが今日の「毒麦」のたとえの中で明らかにされていると考えることができます。つまり、主イエスがたとえ話を語り続けた群衆は、この「毒麦」のたとえ話に登場する畑であり、そこに蒔かれた種たちだと考えることができます。この畑には良い種と毒麦の種が混じっています。人の目から見れば今の時点ではその種の違いは全く区別がつきません。しかし、主イエスの語る福音を聞いてその内容を理解し、主イエスを信じる人々がこの群衆の中からもやがて起こされるはずなのです。だから、今は語るべき相手を選り好みせず、すべての群衆を区別しないで主イエスは福音の言葉を語り続けたと考えることができるのです。


3.対照的な態度を示す主人と僕

 この「毒麦」のたとえ話では、畑によい種を蒔いたのにその中に毒麦の種が混じっていることが分かることで対照的な反応が主人とその僕たちの間であらわされています。この畑の主人は自分の畑に良い種を蒔きました。また、その僕たちはその主人に命じられて直接にその農作業に携わった人たちなのかも知れません。しかし、その僕たちはこの後、自分たちは畑に良い種を蒔いたはずなのに、その畑に「毒麦」の種が混じっていることに気づき、驚きます。彼らはなぜ、毒麦の種が畑にあるのか理由がわかりません。だから「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」(27節)と主人にこの疑問をぶつけているのです。主人はこの問いに「敵の仕業だ」(28節)と簡単に答えています。すると僕たちは「これは大変だ」と慌てて主人に「では、行って抜き集めておきましょうか」(28節)と反応します。ところが主人はこのように慌てる僕たちとは全く違って終始落ち着いてこう答えるのです。

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう」(29〜30節)。

 この会話から分かるのは、主人は畑に毒麦があることを疑問に感じていません。だから彼は終始慌てることがありません。だから最初からこの出来事は彼の計画の内にあるかのように「収穫の時を待つように」と僕たちに促しているのです。

 一方、僕たちは自分たちが予想してもいなかった出来事を見て、狼狽えて、慌てています。そして主人から「敵が毒麦の種を蒔いた」と聞かされると、よく考えもせずにその種を抜き取ってしまおうと考えるのです。

 このお話を解説するある人の文章によると、当時イエスの周りに集まって来ていた人々の中にはユダヤ人たちが「罪人」と呼んで軽蔑していた人たちがたくさん含まれていました。つまり、ユダヤ人たちは主イエスの周りに集まって来た人々を「毒麦」と考え、主イエスに対して「どうして毒麦を排除しないのか」とそのやり方を非難していたと言うのです。だからおそらく、このたとえ話はそのように主イエスを非難する人々に対して語られたものだろうと考えることができると解説しています。ですからユダヤ人から見れば今は「毒麦」と判断されている人々が、やがて良い実を豊かに結ぶ者となる…、そう主イエスは信じて彼らに福音を語り続けることを止めなかったと言うことになるのです。


4.毒麦とは誰なのか

①誤った選民思想

 さて、私たちはこの主イエスの語られた「毒麦」のたとえから何を学ぶ必要があるのでしょうか。それはこのお話の中に登場する農場の主人のように、たとえ畑の中に毒麦が混じっていたとしても、慌てることなく必ず良い種は豊かな実りを結ぶことを信じて収穫の時を待つと言うことです。もちろん、農夫は畑に種を蒔くだけでその仕事がすべて終わってしまう訳ではありません。農夫は実際には種が実を結ぶまで、その成長のために働き続けなければなりません。そうすれば必ず豊かな収穫を農夫が手にする日がやって来るのです。これは私たちが福音伝道の業を諦めないで続けて行くことを意味しています。

 一方、このお話には私たちの陥りやすい過ちが指摘されていると考えることもできます。今もお話したようにおそらく、このお話は当初、主イエスの活動を批判するユダヤ人たちに向けて語られたものだと考えることができます。当時、主イエスの教えを批判したユダヤ人は、「自分たちは神に選ばれた民である」という選民思想を持っていました。彼らは「神の言葉は自分たちだけに与えられている」と誇り、そして「神はその教えである律法に熱心に従う自分たちだけを愛してくださる」という確信を持って生きていました。ですから外国人や同じユダヤ人であっても神の律法に従わない人々を軽蔑し、決してそのような人々とは親しい関係を持とうとはしなかったのです。このように当時のユダヤ人たちは自分が他の人々より優れているから神に選ばれていると言う優越感を抱いていたのです。しかし、彼らの考えに反して旧約聖書には次のような言葉を記しています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(申命記7章6〜7節)。

 この聖書の言葉から分かるようにイスラエルが神に選ばれたのは彼らが他の国々の民より優れていたからでは決してなかったのです。普通、入学試験や入社試験でもそうですが、選ばれる人は選ばれるべき素質を持っていると試験で判断されて合格者となります。しかし、神の選びはそうではありません。私たちは「恵み」によって、つまり自分自身には全くその資格がないのに、神はその無資格な私たちを選んでくださったのです。つまり、この主イエスのたとえ話を用いれば、私たちこそが本来、どこから見ても「毒麦」としてしか判断されかねない者たちだったと言えるのです。その毒麦に神の御業によって信仰が与えられ、神の民とされたと言うのが私たちの人生に起こった神の奇跡なのです。

 ですから「自分は神から選ばれた」ということを根拠にして人を差別したり、軽蔑することは決してできません。むしろ、自分のような誰が見ても「毒麦」としか見えない者に聖霊が送られたからこそ、私たちは神の民とされたのです。だから私たちはこのことを神に感謝するとともに、同じ聖霊が働くならば、どんな人でも救いにあずかることができると言うことを信じて、人を差別せず、すべての人が神の愛の対象であることを信じて福音を語り続ける必要があるのです。

 主イエスはこの後で「毒麦」のたとえの意味を弟子たちに教えています。その中で、世の終わりに起こる神の厳しい裁きについて語っています(36〜42節)。ここから私たちが学ぶべき点は、裁きは神がなされるべきものであって、私たちの業ではないと言うことです。また、畑に毒麦を蒔いた「敵」が誰であるのかを究明して、その敵と戦うことも私たちのやるべきことでもないのです。私たちがやるべきことは、福音の種を蒔き続けること、またその成長のために互いに忍耐を持って助け合っていくことであると言うことができます。


②信仰の忍耐

 おそらく、私たちはこのようなお話を聞くと「誰が毒麦なのか」、また「毒麦を蒔いた敵はだれか」と言うところに関心を持つのかも知れません。そして犯人捜しのように周りの人々を観察して、「あの人が問題だ。あの人さえいなければ」と言う結論に達します。しかし、主イエスは「それはあなたたちのすることではない」とこのたとえ話を通して私たちに教えてくださっているのです。

 むしろ、私たちはこのたとえ話を読むとき、自分こそかつてはこの「毒麦」だったと言うことを覚える必要があります。私たちは収穫のときに刈り取られて集められ、火で焼かれる存在でしかありませんでした。しかし、その私たちを神は早急に裁こうとはなさらなかったのです。神は忍耐を持って福音の種を私たちに蒔き続けてくださり、時至って私たちのために救い主として御子イエスを遣わしてくださったのです。

 また、私たちがこのように信仰を得るためには、私たちの周りで忍耐を持って福音の種を蒔き続けてくれた人たちの存在があるからです。もし、それらの人が私たちの姿を見て「これはだめだ」と簡単に福音を伝える働きを止めてしまっていたら、私たちは今、信仰者としてこの礼拝に集うことはできなかったはずです。このように聖書が教える忍耐は「じっとして、我慢する」ことではありません。むしろ神の御業に信頼して、自分にゆだねられている使命を果たして行くことこそが私たちに求められる信仰の忍耐なのです。

 ですから私たちはこのたとえ話を通して今は誰の目にも毒麦のように見える者でさえ、神は良い種にしてくださることを信じ、信仰の豊かな実を結ばせてくださることを確信することができます。そしてこの神の御業に信頼する者は、人を裁くのでも、犯人捜しをするのでもなく、忍耐を持って福音の種を蒔き続けることができると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスはマタイによる福音書13章24〜30節でどのようなたとえ話を語られていますか。

2.ここに登場する僕たち(27節)は何に驚き、この後に主人の言葉を聞いて何をしようとしましたか(28節)。

3.どうして主人は「今、毒麦を抜くのはよくない」と僕たちに言ったのですか。そして主人は何をすること勧めましたか(29〜30節)。

4.イエスは31〜33節でどんなたとえ話を語っていますか。このお話からあなたは「天の国」について何を学ぶことができますか。

5.36〜43節にある「毒麦」のたとえについてのイエスの説明からあなたが学べる点は何ですか。

2023.7.23「今は裁く時ではない」