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2023.7.30「天の国の素晴らしさを知る」 YouTube

マタイによる福音書13章44〜52節(新P.26)

44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。

46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、

50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。

52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」


1.解き明かしの必要がないたとえ

①天国は死んだ人が行くところ?

 以前、教会学校の教師をしていて子供たちから受けた質問の中に「天国は、死んだ人が行くところなのでしょう」と言うものがありました。私はとっさに何と答えるべきか悩んだことを思い出します。この質問の背後には「天国がどんなに素晴らしくても、そこには死なないと入れないのなら、今の自分の生活には直接に関係しない」と感じた子どもの素直な気持ちが隠されています。私はこのときに何と子どもに答えたのか残念ながら今では思い出せません。


②神の国を実現するために来られるメシア

 イエスが活動していた時代のユダヤはローマ帝国という巨大な国家に支配され、その植民地とされていました。そこで当時のユダヤ人たちはこのローマの支配から解放されて、神に選ばれた民である自分たちの国を再建することを悲願と考えていました。ですからこのローマの支配から解放されるための独立運動を「神の国」を再建する運動と考えていたのです。そしてこの運動のリーダーとなるべき方こそ、神から遣わされたメシア、「救い主」の役目だとユダヤ人たちは信じていたのです。

 しかし、実際に神から遣わされたメシアである主イエスがこの地上にやって来られて、なされたことはユダヤ人の期待していたものとは全く違っていました。彼はローマ帝国に対する抵抗運動を組織したのではありませんでした。主イエスはご自分の弟子たちと共に「神の国は近づいた」と言う福音の知らせを人々に語り伝えたのです。

 私たちはこれまでイエスが語られた神の国についてのたとえ話を学んできました。農夫によってさまざまなところに蒔かれた種の話(13章1〜23節)、また畑に撒かれた良い麦の中に毒麦が混じっていたと言うお話(同24〜43節)、このいずれもイエスや弟子たちによって伝えられた福音の言葉が、やがてはこの地上に神の国を実現させるものだと言うことを教えています。このように神の国、つまり神の御支配はこの福音の言葉を通して一人一人の心の中に実現していくことを主イエスはこのたとえ話を通しても教えてくださったのです(ルカ17章20〜21節)。


③神の国の秘密を知る者の幸い

 今日私たちが学ぶイエスが語られたたとえ話は、マタイによる福音書13章に記された神の国についてのたとえ話集の締めくくりを飾るお話と考えることができます。ただ、今日のお話はこれまで学んだ二つのたとえと少し表現の仕方が違っているところあります。以前のお話では主イエスが群衆に向けてたとえ話を語り、その後で別に弟子たちに対してだけそのたとえ話の解き明かしが語られていました。しかし、今日のお話ではそうでありません。むしろ今日のたとえ話は解き明かしが必要ないような形で主イエスによって語られているのです。このような意味で今日のお話は群衆に語られたというより、最初から弟子たちだけに向けて語られたお話であると言うことが分かるのです。主イエスの弟子たちは「天の国の秘密を悟ることが許されている」(11節)人たちでした。そしてむしろ彼らはその神の国の福音を人々に告げ知らせる使命を主イエスから与えられた者たちだったのです。ですから、今日のたとえ話はこの神の国の秘密を悟ることが許された彼らが幸いな者とされていることを教える物語となっていると考えることができるのです。


2.畑に隠された宝、高価な真珠

 まず、主イエスは神の国の福音を受け入れて、神の国に生きる者とされたことがどんなに素晴らしいことなのかを「畑で隠された宝を見つけた人」と「良い真珠を求め続け、ついに高価な真珠を見つけ出すことができた商人」の姿を通して教えています。この畑で隠された宝を見つけた人は、おそらく主人の畑で働く小作人であったと考えることができます。彼はいつものように畑に出かけて農作業に従事していると、そこで偶然にも隠されていた宝を発見します。ですから彼は別に宝物を捜すためにそこで働いていたのではありません。彼が宝を見つけたのはあくまでも偶然であったと呼べるのです。しかし、次に登場する商人の場合はそうではありません。彼は最初から良い真珠を求めて探し続けています。そして彼はその結果、ついに自分が求めていた最上の真珠を探し出すことができたのです。

 神の国の福音に出会い、その福音を信じて信仰者になる人は大きく分けて二つに分類されるかも知れません。一つは畑で働いてた農夫と同じにように、偶然に聖書のメッセージを出会った人たちです。聖書に最初から関心を持っていたわけではないが、たまたま友人に誘われて教会に行き、聖書を学ぶようになったと言うような人が私たちの中にもいるかも知れません。また、生まれた家が教会に通う信仰者の家庭だったと言う人もこの部類に入るはずです。なぜなら、彼らが最初に福音に出会ったのは自分の意図したものではないからです。一方、最初から自分の救いを熱心に求め続けて、聖書に出会い信仰に導かれた人もおられるはずです。それまで様々なものに助けを求めたが、いずれも本当の救いを与えてはくれなかったと言う経験を経て、ついに聖書に出会い、主イエスこそ本当の救い主であると言うことを悟った人々がこの良い真珠を求め続けた商人にたとえられると言えるのです。

 このように福音に出会い、信仰者になったきっかは人それぞれ違います。しかし、畑で働く人や商人が全財産を売り払って、宝物や真珠を手に入れたことと同じように、私たちが出会った神の国の福音はたとえどのような犠牲を払っても私たちにとって惜しく無い宝物であることをこのたとえ話は教えているのです。中世のイタリアで活動したアッシジのフランシスコという有名な信仰者は自分と共に信仰生活を送る兄弟たちに次のような言葉を語って励ましたと言われています。

「兄弟たち、自分たちが信仰を得るために失ってしまったものを思い出して悲しむ必要はありません。むしろ、私たちの人生にこれからキリストが与えてくださろうとする宝を見て喜びなさい」。

 私たちの中にも信仰生活に入ることで今まで親しくしていた友人が自分から去って行ってしまったと言う経験をした人がいるかも知れません。あるいは家族の厳しい反対を受けて、孤立してしまう体験をする人もいるはずです。しかし、私たちの見つけ出した神の国の福音は私たち失ってしまったものとは比べ物にならないほど素晴らしいものだと主イエスは教えてくださっているのです。だから、神の国の秘密を悟ることが許され、信仰生活に入ることができた私たちはその素晴らしを覚え、神に感謝して生きることが大切だと言えるのです。


3.私たちは高価で貴い宝物

 ある聖書学者はこのたとえ話を全く違った観点で読むことを私たちに勧めています。それは畑で見つかった宝物、高価な真珠を私たち自身であると考えて読む方法です。そうするとこの宝物を見つけた畑で働く人、あるいは高価な真珠を見つけ出した商人は誰になるのでしょうか。それが実は、私たちの神であるという解釈です。つまり、神の目から見ると私たち一人一人は畑に隠された宝物のようであり、また高価な真珠と同じような価値を持つと言うことになるのです。確かに旧約聖書のイザヤ書にはこのような言葉が記されています。

「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し(ている)」(イザヤ43章4節)。

 この神を見失ってしまった私たちは同時に、私たち自身の本当の価値を見失ってしまった者たちだと言えます。だから私たちの人生の悲劇はここから始まっているのです。私たちは自分の力で自分がいかに価値ある存在かを必死になって示そうとして努力しています。しかし、私たちが努力して得たものは簡単に私たちから手から離れて行くのです。そして私たちは「自分は無価値な存在だ」と言う劣等感に支配されて苦しむことになります。

 しかし、神の愛はそのような私たちにいつも変わらずに向けられています。神は私たちを「値高く、貴い」存在としていつも認めてくださっているのです。そして神は失われた私たちを見つけ出し、ご自身のものとして取り戻すために、最大の犠牲を払ってくださいました。それがご自身の愛する御子イエスを私たちのために遣わしてくださったことであると言えるのです。

 そのような意味で、このたとえ話から私たちは、私たちを愛し、私たちを救い出すために御子イエスを惜しまずに遣わしてくださった神の御心を知ることができるのです。そしてこの読み方からも、私たちが神の国の福音に出会い、救いにあずかることのできた恵みがどんなに素晴らしことなのかを私たちは確かめることができるのです。


4.神の国の真理を知る学者

①福音を伝え続ける

 この後、主イエスは漁師が網を投げて魚を取るたとえを語ります。これはある意味で前回学んだ良い麦と毒麦のたとえとよく似ています。神の国の福音は主イエスやその弟子たちによってたくさんの人々に伝えられて行きました。そして私たちも今、主イエスから弟子たちと同じ使命をいただいています。確かに私たちから福音を聞いた人たちが全員、回心して救われる訳ではありません。私たちの周りには福音に対して明確に反対の態度を示す者はむしろ少ないかも知れません。しかし、私たちが経験するのは私たちが伝える福音に全く関心を示さず、また私たちの語る言葉を無視する多くの人々の姿です。彼らの関心は神の国の福音ではなく、全く違うところに向けられているからです。

 それでは私たちは何をすべきなのでしょうか。主イエスはこれまでのたとえ話で私たちに教えてくださったように、福音の種を蒔き続けること、福音を伝える使命を続けて負って行くと言うことを命じられています。使徒言行録の中で厳し迫害を受けながら福音を伝える使命に生きたパウロたちに主イエスは幻を通して語った言葉が残されています。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(18章9〜10節)。

 主イエスは今、弟子たちと同じように福音を伝える使命を与えられている私たちにもこの言葉を語ってくださっているのです。


②天の国のことを学んだ学者

 最後に主イエスは次のような言葉で天の国、神の国についてのたとえ話を締めくくっています。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(13章52節)

 聖書は隠れた世界のベストセラーだと昔から言われています。教会に行ったことのない人でも聖書を持っていると言う人は日本でも意外に多いかも知れません。しかし、だからと言って彼らのすべてが熱心に聖書を読み続けているのかと言えばそうではありません。私はメルカリというサイトを通して今まで何冊も聖書を安く購入することができました。売りに出される聖書の大半はミッションスクールなどに通っていた人が「いらなくなったから」と言う理由で出品したものです。購入してみると読んだ形跡が見つからないような新品同様のものが送られて来るのです。

 いくら聖書を持っていてもそれだけでは何の役にもたちません。聖書は読んで見なければその価値がわかりません。主イエスが「天の国のことを学んだ学者」とここで言っているのは、別に研究機関などで聖書を専門的に学ぶ学者を意味しているのではありません。主イエスの語る「学者」とは聖書に示された福音に耳を傾け、救い主イエスを信じることができた者たちを指しているのです。

 このように主イエスを信じて信仰生活を送る者にとって聖書を読むことは欠かすことのできない日課となっています。なぜなら、私たちは聖書の言葉から日々、私たちに語りかけてくださる神の言葉を聞くことができるからです。そのような意味で、聖書は私たちにとって神の言葉と言う宝物を収めている倉と同じような役目を果たしています。

 私たちはこの聖書の言葉を通して私たちの人生に隠された神の御心を知ることができます。また私たちが送る一見、繰り返しのような日常生活の中でも確かな神の導きがあることを聖書の言葉を通して私たちは知ることができるのです。

 このような私たちは主イエスのたとえ話から、神の国の福音に出会ったすばらしさと、その福音を伝える使命の大切さ、さらにはその福音によってどんなに私たちの人生が祝福されているのかを知ることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.畑に隠された宝を見つけた人、高価な真珠を見つけ出した商人はそれぞれ、見つけた物を手にいれるために何をしましたか(44〜45節)。

2.このたとえ話は天の国の福音に出会い、主イエスを信じることができた者たちに何を教えていると言うことができますか。

3.漁師が湖に網を投げるお話は天の国について何を教えていますか(47〜50節)。

4.主イエスが語った「天国のことを学んだ学者」とはどのような人たちのことを表していますか。彼らの生活の中では聖書の言葉はどのような役割を果たすと考えることができるでしょうか(51〜52節)

2023.7.30「天の国の素晴らしさを知る」