2023.7.9「イエスの生涯」 YouTube
ルカによる福音書1章30〜35節
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
ハイデルベルク信仰問答書
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とは、どういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリヤの肉と血とからまことの人間性をお取りになった、ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。
答 この方がわたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによって、罪のうちにはらまれたわたしのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
1.資格がない
私がまだ中学生のころに千葉県の成田市では新しい国際空港の建設に対する激しい反対運動が起こりました。ヘルメットをかぶった学生たちが日本中から集まり、警官隊と乱闘を繰り返す姿が毎日のテレビで放映されていました。そこで同じ中学に通う親しい友人の一人はわざわざ成田に反対運動の見学に行ったのです。すると彼はそこで警官隊が反対派の学生たちに撃った不発の催涙弾を拾って来ました。その後、彼はその催涙弾を自分で分解しました。するとどういういきさつかその催涙弾の一部が他の人物によって中学校の教室のストーブの中に放り込まれて、たくさんの生徒が催涙ガスの被害を受けるという大事件が起こりました。
そんな時代の背景があったからでしょうか。私も中学生の時からヘルメットをかぶる学生たちのように社会主義や共産主義の思想に影響されるようになりました。おかげで高校生から大学生時代にかけて私は共産主義思想を信奉して、実際に開港直前になっていた成田空港の反対運動にも参加したのです。当時の私は「自分たちの力でこの世界を変える」と言う強い使命感に燃えていました。ところがそのような活動を続けて行くなかで、私は一つの壁にぶつかってしまったのです。それは「世界を変えて見せる」と豪語する自分なのに、その自分には自分自身を変える力さえないと言う現実でした。そのことに気づき始めた私は自分が今まで固く持ち続けて来た確信のすべてを失うと言う経験をしたのです。そしてこの経験がやがて、私を聖書やキリスト教信仰に導くきっかけとなって行ったのです。
今日も私たちは宗教改革が生み出した大切な信仰の遺産であるハイデルベルク信仰問答から聖書の教えを学ぼうとしています。今日、取り扱う問答の中で語られているのはこの世界を救い、私たち人間を救うためにこの世に生まれてくださった方こそ私たちの主イエス・キリストであると言う内容です。
聖書は私たち人間がどんなに使命感に燃えて「世界を変えて見せる」と言っても、本当の意味で世界を変え、世界を救いに導く力はどのような人間にも与えられていないことを教えます。なぜなら人間は自分自身さえ変える力を持っていない、つまり自分を救う力を持っていないと教えているからです。その理由は人類の共通の祖先であるアダムとエバが神に背き罪を犯して堕落してしまった後、すべての人間はその最初の人間の罪の影響を受けて世界を救うことはもちろんのこと、自分自身をその罪の悲惨から救う力を失ってしまっているからなのです。
2.神の子イエス
①神の御子であるイエス
もう10年以上前のことになるでしょうか。南米のチリで地下700メートルの鉱山の坑道に何人もの工夫が閉じ込められてしまうという事件が起こり、世界中にそのニュースが伝えられました。当初、工夫たちの生存も絶望視されていましたが、すぐに探索のために掘られた小さな穴を通して、鉱山の地下700メートルにある待避所で工夫たちが生存していることが分かりました。そして世界中にこのニュースが報道され、工夫たちの救出作戦が始まったのです。しかし地下700メートルにいる工夫たちの救出は困難を極めます。そして二カ月ほどの後、地上から掘削された穴に人を運べるカプセルが入れられて、そのカプセルによって無事に地下に取り残されていた工夫たちが地上に生還することができたのです。
地下に残された工夫たちは自分たちではどうすることもできず、二カ月の間、地上から開けられた小さな穴を通して送られてくる空気と食料によって生き続け、自分たちが救出される日を待ち続けたのです。
罪によって堕落した人類はまさにこの鉱山の地下に閉じ込められた工夫たちと同じような境遇に置かれていると言えるかも知れません。私たちは自分の力では罪と死に支配された暗闇の世界から抜け出すことはできません。誰かがこの地上に降りて来て、自分たちを救い出してくれることを待つしかないのです。そのために神の人間に対する救出計画が作られました。そして神はその救出計画を実現させるために天からこの地上にご自分の御子であるイエス・キリストを遣わされたのです。信仰問答はこのイエス・キリストがどのような方であるのかを次のような言葉で紹介しています。
「永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、またあり続けるお方が」。
主イエスは神の御子、つまり永遠の神ご自身であることを信仰問答は明らかにしています。ですから主イエスはこの地上ではなく天におられるべきお方なのです。しかし、地上で罪の支配下で苦しんでいる人間を救うためには、誰かがその世界に降りて行かなければなりません。だからこの永遠の御子である主イエスが人間として生まれなることで、この地上の世界にやって来てくださったのです。
②マリアの子であるイエス
「(この方は)聖霊の働きによって、処女マリヤの肉と血とからまことの人間性をお取りになった、ということです。」
ここには私たちがクリスマス物語として覚えている出来事が記録されています。聖書が伝えるクリスマスの奇跡はその不思議さに驚くだけではなく、私たち人間を救おうとされる神の救出計画が実行に移されたことを示す出来事だと言うのです。なぜなら、主イエスは「聖霊の働きによって」、つまり通常の男女の営みによってこの地上に生まれたのではなく、神の超自然的な働きによってこの世に生まれたただ一人のお方だからです。その結果、主イエスはアダムとエバの子孫がもっていた罪の影響から完全に免れることができたのです。だからこそ、この方には世界を変え、すべての人間を罪から救う力が与えられているのです。
そして神は罪を犯した人間自身がその犯した罪の報いを受けるように求めておられます。つまり、人間の罪を贖って、その報いを担うことができるのは人間でなければなりません。主イエスが神の御子であるだけなら、人間の罪を肩代わりすることができません。だからこそ主イエスはマリアと言う女性を通して私たちと同じ人間になる必要があったのです。
ここに真の人間でありながら、アダムとエバの罪の影響を受けることのない方が誕生されました。このようにイエス・キリストの誕生と言う出来事は彼が私たちをその罪から救うことのできるただ一人のお方であることを教えているのです。
3.私達の罪の重荷を担う主イエス
先日の水曜日に行われた祈祷会で主イエスの語られた有名な「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28〜30節)と言う御言葉を学びました。その時使用したテキストでは主イエスの「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言う自己紹介の言葉をヘブライ語にまで遡って理解すると言う解説が語られていました。ご存知のように新約聖書はすべてギリシャ語の言葉で記されています。ですからこの言葉をギリシャ語だけで考えると「柔和」と「謙遜」と言う意味しかないのです。しかし、主イエスが大切にしていた旧約聖書の言葉、つまりヘブライ語から考えてみると、この言葉には他にも「貧しくて、身分が低い者」と言う意味が隠されていると言うのです。
この主イエスの言葉を福音書に記したマタイ自身がそこまで考えていたかどうかとは分かりません。しかし実際に主イエスはマリアの子としてこの地上に生まれ「貧しくて、身分の低い者」となられたことは歴史も示す事実であると言えます。それではなぜ主イエスは王様の住む宮殿のようなところで生まれるのではなく、貧しく低い身分となられたのしょうか。それは私たちすべての人間を救うためであると言えます。なぜなら、主イエスはもともと地上の王など足元にも及ばない神の御子であり、人間が近づくこともできない神であられたのです。そしてその主イエスは私たちを救うためにこの地上に降りてくださり、私たちのために人間となってくださったからです。
この祈祷会ではさらに「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言う言葉の解説でも、「軛」は農作業に従事する二頭の牛に付けられものだと言うことを学びました。つまり、この言葉は主イエスが私たちの荷を共におってくださると言うことを示していると言うのです。私たちの罪の重荷を神の子がともに担ってくださるからこそ、私たちはその罪の重荷から解放され、本当の休みを受けることができるのです。
4.義の衣をまとわせていただく
信仰問答は次の問36で、このように私たちを救うために生まれてくださった主イエスから、私たちはどのような益を受けるかと聞いています。どんなご利益を私たちは主イエスから受けるのかをここでさらに説明しているのです。
「この方がわたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによって、罪のうちにはらまれたわたしのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。」
むかし人々から「清廉潔白」な人物として慕われ、尊敬されていた人物がいました。その人物は自分が何かこの世の道徳に反した過ちを犯したときには、その過ちを記憶にとどめて自分を戒めるために自分の家の柱に一本くぎを打つことにしました。その代わりその罪を償ような何らかの善行をした場合にはそのくぎを柱から抜くことにしたのです。日々の生活の中で起こす数々の過ちの故に柱に打たれるくぎの数は増えて行きました。しかし、それに代わる善行はなかなか増やすことができず、釘を抜く回数はわずかです。そこで「このままではだめだ」と彼は決心を決めて、それから一心に善行に励むことにしたのです。やがて彼の念願かなって柱に刺された釘をすべての抜くことができる日がやって来ました。そして柱に打たれたすべての釘を抜き取ったその人物はあらためて、考え深げにその柱を見つめながら「釘はすべてなくなったのに、釘跡は消えずに残っている」と言ったと言うのです。
私たちが決心を決めてどんなに善行に励んでも、私たちの体に残る罪の傷跡は決して消えることはありません。このような姿では聖なる神のみ前に誰も立つことはできないのです。
かつて預言者イザヤと言う人物はやがて神が自分たちのために遣わしてくださる救い主について預言を残しました。旧約聖書に記されたこのイザヤの預言の言葉の中に次のようなものがあります。
「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。」(イザヤ書61章10節)。
私たちははそのままでは神のみ前に立つこともできない罪人です。そして自分ではその罪の傷跡を減らすどころか、増やすことしかできない者たちだからです。しかし、その私たちがそのままの姿で神のみ前に立つことができるように私たちの救い主イエスはご自身が十字架の上で勝ち取ってくださった「義の衣」をそっと私たちの上にかけてくださるのです。それがこの信仰問答が語る「わたしのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる」と言う言葉の意味です。
確かにこの世には「自分こそ、世界を救う救い主だ」と豪語する人たちが今でも現れます。しかし、彼らは結局、自分の語る言葉で多くの人々を惑わし、返って苦しませるだけで、誰も救うことはできないのです。なぜなら、彼らには救い主としての資格がないからです。しかし、私たちを完全に救うことがおできる方がただ一人おられます。それは真の神の子でありながら、その母マリアを通して人間となられた私たちの主イエス・キリストです。そして私たちの救いはこの方の御業によって確かなものとされているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.信仰問答は主イエスがもともとどのような方であったことを教えていますか。またその方が処女(おとめ)マリアから生まれることによって、どのような方となったと説明していますか。
2.どうして主イエスは私たちと同じ人間となる必要があったのですか。また主イエスはどのような点で、私たちのような普通の人間とは違っているのですか。
3.私たちはどんなに努力しても自分の罪を取り去れることも、またその罪を償うこともできません。信仰問答はそのような私たちがなぜ、神のみ前に立つことができると言うのでしょうか。