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  4. 8月13日「苦しみの生涯」

2023.8.13「苦しみの生涯」 YouTube

イザヤ書53章4〜5節(旧P.1149)

4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。


ハイデルベルク信仰問答

問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。

答 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。

それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。


1.苦しむために生まれた

①聖書と教会の教理

 今日もハイデルベルク信仰問答からキリスト教の大切な教え、教理について学んでいきたいと思います。私たちの属する改革派教会はキリスト教会の中でも比較的に教理が好きな教会だと言われています。しかし、キリスト教の教派の中にはこの教理を毛嫌いするようなグループも存在しています。そのような教派の人たちがよく語るのは「教理ではなく、聖書が大切だ」と言う言葉です。確かにハイデルベルク信仰問答も、またウエストミンスター信仰基準も人間が考えて記した書物ですから、神の言葉である聖書とは全く違います。私たちが人間の言葉ではなく神の言葉である聖書を、私たちの信仰の基準と考えることには間違いはありません。しかし、大切なことはその聖書を私たちはどう読むのかと言う問題です。聖書は確かに神の言葉ですが、その言葉を人間が自分勝手に読んでしまったとしたらどうでしょうか。そうなると聖書を使いながら自分自身の考えを信じているというようなことになりかねないのです。

 教理はこの聖書を神の言葉として信じて来たキリスト教会がその聖書をどのように理解し、また読んできたかを示すものだと言うことができます。もちろん、そのキリスト教会も聖書を自分勝手、自分たちに都合のいいように読んで来た訳ではなりません。教会は主イエス・キリストから直接に教えを受けた弟子たち、つまり使徒たちを通して学んだ聖書の理解を守り伝えて来たのです。このような意味で教会の教理は聖書をキリストや弟子たちと同じように読むための基準と言うことができるかもしれません。ですから、聖書を大切にしようとする者にはこの教会の教理を正しく理解することが求められているのです。


②「苦しみを受ける」ために人となれれた神の子

 さて、このハイデルベルク信仰問答は第二部の部分で「人間の救いについて」(問12〜85)を取り扱っています。そしてこの信仰問答はその人間の救いについて説明するために、キリスト教会が最も大切にする「使徒信条」と言う文章を使って説明しようとしています。つまり、ここでも信仰問答はキリスト教会を作った使徒たちが聖書をどのように教えて来たのかを読者に理解させようとしてると言えるのです。

 この使徒信条では私たちの救い主であるイエス・キリストについて「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」と言う言葉に続けて、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と言う言葉を使って私たちがクリスマスで学ぶ、その不思議な誕生の次第を説明しています。ところがこの使徒信条はこの言葉に続いて「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と言う言葉でいきなり、主イエスの十字架の死を語りだそうとしています。ここには主イエスがその死に至るまで、この地上でどのような生涯をたどられたのかと言う説明が全く省かれてしまっているように思えるのです。ところがハイデルベルク信仰問答はこの使徒信条をそう読んでしまう私たちに、「使徒信条はキリストの生涯をちゃんと語っている」と言うことを改めて理解させようとするのです。それは主イエスの全生涯を「苦しみ」と言う言葉で表現することによってです。

 実は使徒信条の言葉は元々、ラテン語と言う教会がローマ帝国の時代から使っていた言語で記されています。そのラテン語では日本語の翻訳と違い「苦しみを受け」と言う言葉が「ポンテオ・ピラト」以下の言葉より、先に記されているのです。つまり、この「苦しみを受け」と言う言葉はイエスの十字架の死だけを説明しているのではなく、その全生涯の意味を説明している言葉だと考えることができるのです。神のひとり子であるイエス・キリストはその母マリアから誕生することで私たちと同じ人間となられました。それではなぜ主イエスは人間となられたのでしょうか。使徒信条はそれを「苦しみを受けるため」と説明しているのです。


2.神の怒りを体と魂に受けた

①神の怒り

 それでは主イエスは何のために「苦しみを受ける」ことになったのでしょうか。その説明が今日のハイデルベルク信仰問答37で次のように語られています。

「キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです」

 信仰問答はこのように、主イエスは「全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」ために「苦しみを受けた」と言っています。ここで注意すべき言葉は今までも何度も語って来たと思いますが「神の御怒り」と言う表現です。人間はどのようなときに「怒る」のでしょうか。多くの場合、自分の思った通りのことではないことが起こると、私たちは怒りと言う感情を抱きます。そしてその怒りが少しずつ心の中に蓄積されて行くと、最後には我慢ができなくなって怒りの感情を爆発させて外側に一気に放出するのです。そのような意味で人間の場合の「怒り」は感情表現の一つとして用いられると考えることができます。

 この点で神の怒りは「感情」と言うよりは「態度」と呼んだ方がよいのかもしれません。なぜなら神の怒りは人間の罪に対する神の正しい応答を示す言葉と言ってよいからです。裁判所の裁判官は被告人の罪を客観的に判断して、その罪に対してどのような刑罰を与えるべきかを考えます。よくドラマなどを見ると裁判所に飾られている女神像は目隠しをしながらその手に罪の重さをはかる天秤を持っています。公平な裁判をするためには余計なものを見てはいけないという戒めがそこに表されているのでしょう。そしてその余計なものには「怒り」という人間の感情も含まれているのかも知れません。

 神の「怒り」には感情と言う余計なものは含まれていません。ですからこの「怒り」は人間の犯した罪に対する神の公平な態度を示している言葉だと言えるのです。神は人間の犯した罪に対してそれにふさわしい償いを求められるお方だからです。


②永遠の刑罰

 それでは神は人間の犯した罪に対してどのような償いを求めておられるのでしょうか。信仰問答は続けてこう語っています。

「それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした」

 人が犯した罪に対して神が求める正しい償いは「永遠の刑罰」であると語られています。ですから私たち人間は皆、神から永遠の刑罰を受けるべき罪人なのです。

 ここで主イエスの苦しみは私たちの「体と魂」を永遠の刑罰から解放させるためのものと説明されている言葉に注意したいと思います。信仰問答はここでわざわざ私たち人間の人格を「体と魂」と言う二つの言葉で表しているのです。実は、キリスト教以外の宗教で大切にされるのは「体と魂」ではなく「魂」だけであると考えられています。たとえばギリシャ哲学では「体は魂を閉じ込める牢獄のようなもの」と言う言葉が有名です。ですから牢獄である体から魂が解き放たれることが人間の救いだと教えるのです。これは私たち日本人に縁の深い日本の祖霊信仰とも共通する部分があります。祖霊信仰にとって重要なのは死んだ人々の「魂」であって、肉体は関係ありません。しかし、聖書は神が私たち人間を「体と魂」を持つ存在として創造されたことから、この二つは切り離すことができないと教えるのです。だから、主イエスの救いの対象も「体と魂」を持った人間となるのです。だからこそ主イエスは「体と魂」で苦しみを受ける必要がありました。またキリスト教の救いには魂の救いだけではなく、体の甦り、つまり復活ということが重要にもなって来るのです。私たちはこの「体の甦り」という教えについては後日学ぶことになります。


3.キリストによって変えられた私の人生

①私たちの罪の深刻さ

 さてこのようにして信仰問答は神の子である主イエス・キリストがこの地上に来られて人間となられたわけを「苦しみを受けるため」であったと説明しています。なぜなら、罪を犯した私たちは本来ではあれば永遠の刑罰を免れることのできない立場にあったからです。主イエスはその私たちを永遠の刑罰から救い出すために、自らで私たちの罪を負い、その償いのために苦しみを受け、その十字架の死に至る生涯によって支払ってくださったのです。だから私たちはこの主イエスの獲得してくださった神の恵みと義と永遠の命を自分のものとすることができるようになったのです。

 さてここで私たちが覚えたいのは私たち自身が犯した罪がどんなに深刻なものであったかと言うことです。実は聖書をよく知っていたユダヤ人たちも自分が犯した罪によって、自分がどんなに絶望的な状態に置かれているかをよく理解できてはいませんでした。だから彼らは、自分たちの力でこの罪の問題を解決できると考えてしまい、神が送ってくださった救い主イエスを拒むという失敗を犯してしまったのです。

 また、自分が不幸な人生を送っていると考える人の中には「自分は神の裁きを受けている」と主張する人がいます。しかし、神が私たちの犯した罪のために求めておられる償いは、自分が人よりも不幸な人生を送ったから償えるようなものでは決してありません。

 私たちの犯した罪の本当の深刻さは、神の子が苦しんでその命を捨てなければならなかったことに明確に表されています。だから主イエスが私たちのために「苦しみを受ける」以外の方法では、自分の犯した罪への償いである永遠の刑罰から私たちは逃れることができないのです。


②主イエスの生涯によって変えられた私たちの人生

 もう一つ私たちが覚えたいのは、私たちの人生が、主イエスが「苦しみを受ける」ことで、全く変えられたと言うことです。若者はもちろんのこと年を取った者に至るまで私たち人間は自分の人生を少しでも良くしたいと考えて生きています。私たちは「自分の人生を変えたい」と言う願いをもつからこそ、新しいことに挑戦し、またそのための努力もするのです。しかし、私たちのそのような願いに反して、私たちは結局自分の人生が少しも変わっていないこと気づき、気を落としたり、絶望することがよくあります。

 キン斗雲(きんとうん)に乗って世界の果てまで行ったと思い込んでいた孫悟空が結局、そこもお釈迦様の手の中だったと言うのに気付くように、どんなに自分の人生を変えようと努力しても、結局私たちは何も変わらない自分に気づくことがよくあるのです。

 しかし、聖書はそのような私たちに教えています。私たちの人生は主イエスによって全く変えられているのです。永遠の刑罰を受けるためにまっしぐらに歩んでいた絶望的人生が主イエスによって変えられたのです。もはや私たちの人生はこの主イエスによって神の恵みと義と永遠の命を受けるべきものに変えらてしまっています。

 私たちはなぜ、聖書の中から主イエスの人生について熱心に学ぼうとしようとするのでしょうか。それはこの主イエスの人生そのものが私自身の人生そのものでもあるからです。主イエスは私たちの受けるべき罪を負って苦しまれたのです。そしてその苦しみによって私たちの絶望的な人生は全く新しい人生に変えられたことを聖書は教えています。だから主イエスを信じる私たちは次のようなパウロが残した言葉に喜びを持ってアーメンと答えることができるのです。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」コリント二5章17節)。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ハイデルベルク信仰問答は一言で主イエスの全生涯を、何を受けるためのものだったと説明していますか。

2.「神の御怒り」について、私たちはどのように理解する必要があると思いますか。

3.この神の御怒りによれば、罪を犯した私たちにはどのような償いが求められていると信仰問答は語っていますか。

4.それでは私たちの罪を負っていけにえとなられたキリストによって私たちの人生はどのように変えられたと信仰問答は説明していますか。

5.キリストは私たちに代わって「苦しみを受ける」ことで私たちに対する真実の愛を示してくださったと考えることができます。それでは私たちはこのキリストの愛にどのように答えることができるでしょうか(ローマ12章1節参照)。

2023.8.13「苦しみの生涯」