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  4. 8月20日「カナンの女の信仰」

2023.8.20「カナンの女の信仰」 YouTube

マタイによる福音書15章21〜28節(新P.30)

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。

23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。

26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、

27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


1.ユダヤ人の確信

①カナンの女

 今日も皆さんと一緒に主イエスの御業と御言葉を伝えている福音書の物語から学んでいきたいと思います。今日のお話の中にはすべての人を区別することなく愛した主イエスの姿とは一見矛盾するような主イエスの行動と言葉が記されています。ここでは娘の病の癒しを願う一人の母親が登場しています。普通であればこのような場合、主イエスはその母親を憐れみ、すぐにその願いを聞き入れて、娘の病を癒やすと言う順序で進んでいくはずです。しかし、ここではそのような予想に反する出来事が記録されています。なぜなら主イエスはこの母親に対して「わたしには関係ない」というような冷たい態度を取られているからです。

 ここで問題となるのは彼女が「カナンの女」(22節)と呼ばれているところです。カナンはイスラエル民族がエジプトから移り住んだ約束の地を表す呼び名です。そして聖書が「カナンの女」と言う言葉を使っているのは、彼女がイスラエル民族がこの地に移り住む以前から存在していた先住民族の末裔であることを意味しているのです。ですから彼女がここで主イエスから冷たくあしらわれている原因は彼女がイスラエルの民、つまり「ユダヤ人ではなかった」と言うことにあると言えるのです。このような意味で今日の聖書の物語を正しく理解するためには当時のユダヤ人がどのような信仰を持っていたのかを知り、そして彼らが自分たち以外の外国人つまり「異邦人」の救いをどのように理解していたかを調べる必要があるのです。


②アブラハムの子孫

 ご存知のように主イエスはマリアとヨセフというユダヤ人の家庭の子として産まれ、育てられました。そして彼らユダヤ人の信仰の特徴は、自分たちがアブラハムの子孫であると言うことにありました。なぜなら、旧約聖書によれば神はこのアブラハムと契約を結んで、アブラハムの子孫を祝福するという約束をしてくださっているからです。さらに、このユダヤ人のもう一つの特徴は神の律法を重んじて、それを日常生活の中で実践するというところにありました。旧約聖書によればこの律法は神からモーセを通してイスラエルの民に与えられたものと言われています。それではなぜ、彼らだけがこの律法を神から受けることができたのでしょうか。それは先ほど語ったように、自分たちの先祖であるアブラハムと神との約束があったからです。ですから律法は彼らがアブラハムの約束を引き継ぐ者たちだと言うことを示す、明らかな証拠と考えられて大切にされて来たのです。

 このことからも分かるようにユダヤ人の信仰において最も重要なことは自分たちがアブラハムの血を受け継ぐ子孫であると言うところにありました。だから彼らは、このアブラハムの子孫ではない外国人、つまり「異邦人」は神の約束とは無関係な人々と考えていたのです。今日の箇所で主イエスが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と語られているのは、主イエスが神とアブラハムとの約束を実現するために神から遣わされた救い主であることを意味する言葉であると言えるのです。ですからこの言葉は「自分は神とアブラハムとの約束とは関係のない外国人のためにきた救い主ではない」と言う意味でも語られていると考えることができるのです。


2.イエスにすがりつく母親

①カナンの女の信仰

 さて「カナンの女」に対してこのような冷たい態度を示した主イエスでしたが、もう一方のこの「カナンの女」と呼ばれる母親はイエスに対してどのような対応をしたのでしょうか。なんと彼女は、「わたしは外国人のために遣わされていない」と言う主イエスの語られた言葉に対して、それを聞いて諦めてしまうのではなく、むしろ主イエスに食らいつくようにして次のように語ったと言うのです。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(27節)。

 前後しますが、この女性がなぜこのようなことを語ったのかと言えば、必死に助けを求める彼女の言葉にその直前で主イエスが「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と語られているからです。ここで主イエスが「子供たち」と語っているのはアブラハムの子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人のことを指しています。そしてもう一方の「小犬」と呼ばれているはこの女性のようなユダヤ人ではない外国人、異邦人を意味していると考えることができます。

 現代は大変なペットブームで「犬」を家族の一員のように大切に育てている人もたくさんおられるはずです。しかし、聖書の中に登場する「犬」は現代人の抱くイメージとは違い、汚れた動物としてのイメージで取り扱われているのです。ですからイエスの言葉には「犬のように汚れた者には神の恵みにあずかる機会はない」と言うメッセージが隠されていると言えるのです。しかし、この女性はこの主イエスの言葉にこそ自分の希望の根拠があると考え、次のように反論しています。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と語っているからです。

 少し前に主イエスが五千人以上の群衆に五つのパンと二匹の魚を分けて、彼らを満腹にさせたという物語を学びました(マタイ14章15〜21節)。そしてこのときもあまったパンくずを集めると十二の籠いっぱいになったと言われています。ですからこの物語は主イエスの恵みは誰かに与えたら、もうなくなってしまうというものではないことを私たちに教えています。この女性はこのように主イエスの無尽蔵、限りのない恵みに目を向けていると言えるのです。彼女はイエスに対して「あなたの恵みは異邦人である私があずかっても有り余るように豊かです」と言っていることになるからです。


②試練を通して主イエスと結びつく

 ところでこの女性はどうしてこれほどまでに諦めないで、主イエスに助けを求めることができたのでしょうか。一つ考えることができるのは彼女の抱える問題が誰にも解決することができないような深刻なものだったからだと言えます。

 彼女は主イエスに「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)と語り掛けました。このとき彼女が抱えていたのは自分の愛する娘の命に関わる問題でした。当時の人々は病気の原因は悪霊によるものだと考えていましたから、おそらく彼女の娘は人が癒やすことができない深刻な病を抱えて苦しんでいたと考えることができます。もしかしたら、彼女の娘は医師から「もう手の施しようがありません」と治療を断られていたのかも知れません。もし、この時の彼女に他の何らかの助けの手段が残されていたなら、主イエスの冷たい態度を受けて、「それでは他の方法を考えてみます」と言って諦めてしまうこともできました。しかし、このときの彼女は「何としても主イエスに助けてもらわなければならない、他にはもう何の方法も残されていない」と言うような状況に追い詰められていたのです。だからこそ、彼女は主イエスにすがりつくように助けを求めるしかなかったのです。新約聖書のペトロの手紙一では試練について次のような言葉が語られています。

「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1章6〜7節)。

 ペトロは私たちの人生に起こる厳しい試練がむしろ、私たちと主イエスとの関係を強めることをここで語っているのです。この言葉の通り「カナンの女」は自分の人生に起こった厳しい試練を通して、主イエスに導かれたと考えることができるのです。

 そして主イエスはこの女性の信仰に答えるように「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と語り、その娘の病は癒されたと言うのです


3.ユダヤ人読者に訴えるマタイ

 さて、私たちがここで改めて考えたいのは、主イエスはどうして「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と言う言葉をここで語られたのかと言うことです。もし主イエスがこの言葉の通り、イスラエル民族、つまりユダヤ人のためにだけに神から遣わされた救い主だとしたらどうなるでしょうか。ユダヤ人ではない私たちのような外国人は主イエスの救いの対象から外されることになってしまいます。しかし私たちキリスト教会の信仰では、主イエスはユダヤ人だけではなく、すべての民族に属する人々を救うために来られた救い主であると考えられているのです。そのようなキリスト教会の立場から考えるとき、この主イエスの言葉を私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。

 一つの興味深い解釈はこの主イエスの言葉はこのマタイによる福音書を読んでいる読者たちが思い込んでいる考えを代弁する言葉だと言う説明です。実はこのマタイによる福音書は今までも何度かお話して来たように、ユダヤ人から主イエスを信じてクリスチャンになった、ユダヤ人クリスチャンを対象にして書かれた福音書であると言われて来ました。ですからこのマタイによる福音書は他の福音書に比べて旧約聖書の引用が極めて多く記されています。これは旧約聖書で語られている神の約束が主イエスを通して実現したことをユダヤ人の読者に説明するためです。また、たとえばマタイは他の福音書が「神の国」と呼ぶ言葉を自分だけ「天の国」と読み替えて表現すると言うこともしています。それは「神の名を妄りに唱えない」と言う古くからの習慣にこだわるユダヤ人読者を配慮したためだと考えることができます。

 そしてこのようなユダヤ人の読者にとって「救い主は外国人ではなく、自分たちユダヤ人たちを救うため来られた」と言う考えは簡単には捨てきることのできないものだったと言うことができるのです。そしてこのようなユダヤ人クリスチャンたちの思い込みを私たちに伝えているのが最初のキリスト教会の歩みを示した使徒言行録の記録であると言えるのです。

 この使徒言行録の記録によればキリスト教会は最初、主イエスの弟子であったユダヤ人たちによって始められました。しかし、その歩みの途中で教会はユダヤ人だけの組織から、外国人、つまり異邦人が加わる組織に変わって行ったのです。しかしそれは教会のリーダーたちが話し合って、その方針転換を考えたからではありません。むしろ神がユダヤ人ではなく、外国人つまり異邦人を救うと言う御業を実際に行われたからなのです。使徒言行録ではこの神の御業を当初、ユダヤ人で構成された最初のキリスト教会の人々は理解することができず、混乱したことが記されています。しかし彼らは結果的に、この神の御業を受け入れることになりました。そしてキリスト教会はユダヤ人だけではなく、世界中のすべての人々のための教会となって行ったのです。このように聖書が伝える神の御業は人間の考えや思いをはるかに超えて自由であり、すべての国々の人々を救うために働かれるのです。

 おそらく今日の物語もまだ「救いはユダヤ人だけ」と言う古い思い込みに支配されているマタイ読者たちに対して、実際の主イエスはその思い込みを超えて自由な方であり、外国人を救われる方でもあることを示すことで、彼らが自らの誤りに気づき、古い考えを捨てて、神の御業に心を開くようにと促したものであると考えることができるのです。つまり、大切なことは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言う言葉を超えて、外国人であるカナンの女性に救いの手を差し出した主イエスの御業にあると言えるのです。


4.思い込みを捨て、神の御業により頼む

 ところで私たちも自分な勝手な思い込みによって、神の恵みを見失うと言うことをしていないでしょうか。たとえば、私たちが神に熱心に祈ってもその答えが得られないと思うようになるときはどうでしょうか。

 「神は私の祈りに答えてくださらない。他の人ならともかく、わたしだからだめなんだ…」。そう考えてしまうことはないでしょうか。つまりそれは「主イエスは他の人たちのために来られたかも知れないが、私のために来られた方ではない。私にはその救いにあずかる資格がない」と考えていると言うことになります。

 ユダヤ人たちは「神が遣わされる救い主は自分たちだけを救ってくださる」と言う勝手な思い込みをしていました。私たちはこの思い込みと全く反対に「神から遣わされた救い主は自分を救うために来られたのではない」と言う思い込みに捕らわれてしまうことがあるのです。そしてこの二つの思い込みはいずれも救い主の力を勝手に人間の側から限界づけてしまうと言う誤りを犯していることにあります。

 しかし、実際の救い主であるイエス・キリストの御業には限界と言うものはありません。主イエスの御業は私たちの思いを超えてはるかに超えて自由であり、また無尽蔵の恵みの力を持っておられるのです。ですから私たちにとって大切なのは自分の勝手な思い込みを捨てて、実際の主イエスの御業に目を向け、またその御業に信頼して生きることだと言えるのです。

 この後、キリスト教会が全世界に広がりすべての国々の人々に福音を語ることになったのは、その教会に集った人々が自分たちの古い思い込みや考え方を捨てて、実際の神の御業に信仰の目を向け、その御業に従おうとしたからです。

 このように、今日の主イエスの物語は、私たちが古い自分の考えや思い込みから離れて、主イエスの恵みの御業に心を向け、そのすばらしい救いの御業を信頼して信仰生活を送ることを勧めていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがティルスとシドンの地方に行かれるとそこでどのような人に出会いましたか。その人はどのような問題を持っていましたか(21〜22節)。

2.主イエスはこの人の願いにどのように対応されましか(23節)。またそれでも必死に願うこの人にどのような言葉を語りましたか(24節)。

3.この人は主イエスの「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と言う言葉を聞いてどのように答えましたか(27節)。

4.この人の答えを聞いた主イエスはこの人に何と語られましたか。またこの人のために何をされましたか(28節)

2023.8.20「カナンの女の信仰」