2023.8.27「天の国の鍵」 YouTube
マタイによる福音書16章13〜20節(新P.935)
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
1. 教会とはどのような場所か
①教会が見つからない
最近、私はYouTubeで日本のいろいろなところを訪問して紹介する韓国人の作った動画を関心を持って見ることがあります。なぜなら、この動画に登場する韓国人たちが日本の街並みを見ていろいろなところで感動している姿に、自分が普段見慣れている光景が当たり前ではないと言うことに改めて気づかされることがあるからです。
この動画で紹介される韓国人がまず驚くところは日本の町の道を歩いていても「ゴミが落ちていない」と言うことです。現在の韓国の街並みがどのようになっているのか私には想像がつかないのですが…。彼らがとても感動してこのことに触れる動画を見て、「そうなんだ…」と思わされるのです。また、韓国人の彼らがはじめて日本のコンビニエンスストアーに入って感じることは、その取扱い商品の多さと、店員の応対の丁寧さだと言うのです。またさらに興味深いのはこのコンビニのトイレが来店者のために提供されている点だと言いえます。韓国のコンビニではトイレを貸してくれるところはないからです。こんな話を聞いていると日本人が当たり前のように感じているものが決してそうではないと言うことがよく分かります。もちろんこのような動画は見ている日本人がうれしくなるようなことしか紹介していないと言うこともあるかも知れません。
私が以前、韓国からやって来たゲストお迎えしたときに、彼らに言われたことは「日本ではキリスト教会の建物がない」と言うことでした。確かに私も過去に二回ほど韓国に行ったことがありますが、韓国ではどこの町に行っても視界に入るような大きなキリスト教会の建物が立ち並んでいます。むしろ、韓国では私たちが見慣れているお寺のような建物を街中で見ることは難しいのです。そしてそれに比べてキリスト教会の建物はどこに行っても目にすることができるのです。このような光景を見慣れている人にとってはキリスト教会の建物がない日本の街並みの光景は不自然に感じるのかも知れません。
今日の聖書の箇所では主イエスの語られた「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言う言葉が記されています。実は福音書の中で主イエスが「教会」と言う言葉を使うことはとてもめずらしいことです。そこで、私たちはこの主イエスの語られた言葉から教会とはどのようなところであり、またどのような使命がこの教会に与えられているのかについて皆さんと共に少し考えて見たいと思うのです。
②教会は建物ではない
まず、私たちは「教会」と言う言葉について大半の人々が抱いている大きな誤解を解く必要があると思います。なぜなら、日本人の多くの人は「教会」とは十字架が立てられている建物を指すと考えているからです。皆さんも経験されたことがあるかもしれませんが、初めて出席しようとする教会を捜して、十字架を目当てに歩いていくとときどき立派で巨大な建物に出会うことがあります。「すごい教会堂だな」と思ってよく調べてみると、そこは教会風に立てられた結婚式場だったりすると言うことがあるのです。
今日の聖書の箇所では、主イエスが自ら「教会を建てる」と言う言葉を語っています。ご存知のように主イエスは大工のヨセフの子として産まれ、主イエス自身も以前は大工であったと考えられています。しかし、聖書のどこを読んでも主イエスが弟子たちと一緒になって教会の建物を建てたと言う記載は残されていません。なぜならば、主イエスが「教会を建てる」と言う意味は建物を作るという意味ではないからです。
それでは主イエスの言っている「教会」とはいったいどのようなものなのでしょうか。それは簡単にいれば「主イエスを救い主、つまりメシア」と信じる人たち、主イエスへの信仰を持った人々の集まりを「教会」と呼んでいるのです。ですから、そこに十字架のついた立派な建物が立てられていても、イエス・キリストを信じて礼拝をささげる人々の群れが存在していなければ、その建物は「教会」と呼ぶことは決してできません。また、逆にその建物がどんなに小さく、また粗末なものであったとしても、さらには建物さえなかったとしても、そこに主イエスを救い主と信じる人々が集まっていれば、そこは「教会」であると言うことができるのです。
2.イエスとは誰か
①主イエスと共に生きた弟子たちの答え
さて教会は建物ではなく、「主イエスを救い主と信じる」人々が集まるところと考えることで大切になって来るのは、その「主イエスは救い主」と信じると言うことはいったいどのような意味を持っているのかと言うところです。なぜなら、今日の福音書の物語の中でも主イエスが弟子に求められているのは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言う質問に答えることだったからです。
まず、この箇所では主イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と質問しています。この当時、主イエスの不思議な業を目撃し、あるいはその教えを聞いた人々によって主イエスに対する関心が人々の間に広まっていました。ここで弟子たちはこのような世間の評判を主イエスに問われて、答えています。まず、洗礼者ヨハネはこの福音書の最初の場面にも登場する人物です。人々に神の元から遣わされる救い主を指し示し、その方を迎える準備をさせるのがこの洗礼ヨハネの働きでした。またエリアは旧約聖書に登場する人物で、真の神への信仰を捨てて偶像崇拝に陥った人々と戦い、真の神への信仰を守り抜いた預言者でした。エレミヤもまた旧約聖書に登場する預言者の一人で、旧約聖書の中には彼の名前が記された書物が収められています。このような人物はいずれも、救い主と言うよりは、救い主の到来を準備するために神によって遣わされた人々であると考えることができます。つまり、世間の人々は主イエスをこのような預言者の一人であり、救い主自身ではないと考えていたことが分かるのです。
そこで主イエスはさらに一歩踏み込んだ質問をここで弟子たちに向けています。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と彼らに問うたのです。このとき弟子たちは世間の人々とは違い、主イエスと共に生き、身近でその姿を知る体験を積んでいました。そのような弟子たちの体験に基づいてここではその弟子の一人であるペトロがその質問に答えています。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)。
あるキリスト教徒の作家が書いた本の中で「主イエスを知る」とはどういうことなのかと言う説明を読んだことがあります。その作家は人々が行っているお見合いの場面を想定しながら、こう説明しているのです。お見合いの場合、互いに自分の身上書を書いて、それを相手と交換することから始まるのだと言います。最近テレビでは婚活サイトのコマーシャルがよく流れています。そこでは互いの条件にピッタリと合った相手がすぐ見つかると言われています。それがひと昔前にはお互いの身上書を交換することで行われていたのです。
確かにこの身上書にはその人についての情報が詳しく書き込まれています。しかし、その作家はその身上書をいくらよく読んで、その内容を丸暗記したとしても、それで相手のことを知ったことにはならないと言うのです。なぜなら、身上書に書かれていることはその相手についての情報だけだからです。その作家は相手を知るとは、その相手の情報を知ることではなく、実際にその相手と出会って、一緒に同じ時間を過ごすことによって得られるものだと言うのです。
これは主イエスを知ると言うことにもあてはまるとその作家は言うのです。この世には主イエスや聖書について様々な知識を提供するものがたくさん存在しています。しかし、その情報を調べただけでは主イエスについて正しく知ったとは言えないと言うのです。なぜなら、主イエスを知るには、主イエスを信じて、その方に従うということが必要だからです。つまり、私たちも実際に主イエスの弟子の一人にならなければ、主イエスに対する正しい知識を得ることはできないのです。この時のペトロの答えは、彼が自分の人生を通して得た知識に基づくものだったと言えます。
②信仰告白は神からの与えられるもの
そこでこの答をペトロから聞いた主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と答えられたのです。この主イエスの言葉はこのときのペトロと同じように主イエスを救い主であると信じる私たちに大きな慰めと励ましを与える言葉となっています。なぜなら、この時点でペトロは確かに主イエスを救い主であると語りましたが、この主イエスに対する答は彼のもっていた正しい知識に基づいたものとは必ずしも言えないからです。なぜならペトロはこの後、主イエスがユダヤ人たちに逮捕され、十字架に付けられるところで他の弟子たちと同じように、その場から逃げ出してしまっているからです。彼らがそうせざるを得なかったのは、彼らは確かに主イエスを救い主と信じていましたが、その主イエスが十字架にかかるために来られた救い主とは理解していなかったことを表しています。むしろ彼らは主イエスがその不思議な力を使って、すべての敵に勝利して、神の王国を建てられる方だと思っていたのです。だから彼らは自分たちの思ってもいなかった現実に遭遇して、パニックになってしまい、主イエスをその場に置いて逃げ出すことしかできなかったのです。
このような失敗はこの弟子たちに限られるものではないと言えます。私たちもまた、信仰生活の中で自分たちの期待と違った現実に出会って、混乱に陥ると言うことがよくあるはずだからです。なぜなら、私たちがもっている主イエスについての知識は決して完全なものではないからです。むしろ私たちは毎日の信仰生活で日々主イエスと出会い、その方についての新たな知識を与えられていくと言ってよいのです。その点では私たちの主イエスに対する知識は完全ではなく、いつも不十分であると言うことできます。しかし、だからと言って私たちは「わたしは本当に主イエスを信じているのだろうか」と自分の信仰を疑う必要はないと言えるのです。なぜなら、私たちが「主イエスを救い主」と信じることができるは、私たちの知識や悟りの結果ではなく、神の御業であるからです。
大学でギリシャ語の知識を十分に身に着けて聖書を研究している人たちは、私たち以上に聖書についての豊かな知識を持っています。しかし、彼らが皆、主イエスを救い主として信じているかと言えばそうではありません。なぜなら、その多くの人は聖書の言葉を学問の対象としてしか考えていなからです。彼らに比べて、私たちの聖書についての知識は比べ物にならないくらい貧弱なものかもしれません。しかし、私たちが主イエスを救い主と信じることができるようになったのは、私の聖書の知識ではなく、神が私たちに聖霊を遣わしてその信仰を告白させてくださるからなのです(コリント一12章3節参照)。
だから、私たちはこの信仰を与えてくださった神に感謝して、その神が主イエスに対する正しい知識を私たちに日々新たに与え続けてくださることを信じて、信仰生活を送る必要があるのです。
3.教会に与えられている「天国の鍵」
さてこのような主イエスに対する信仰を告白したペトロに対して主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(18節)と語ってくださいました。この言葉からもわかるように主イエスの教会はこの時のペトロのように主イエスを救い主と信じる者たちの上に建てられるものだと言うことができます。だからたとえ、そこに十字架のついた建物がなかったとしても、そこに主イエスを信じる者たちが集まっているならば、そこが主イエスの建てた教会であると言えるのです。この主イエスの言葉によればこの教会には「天国の鍵」が預けられていると言われています。そして「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とも言われているのです(19節)。
最近、長い間誰も開けることができなくなっていた金庫を専門の鍵開け職人がやって来て開けると言うテレビ番組がよく放映されています。おそらく「天国の鍵」とはこのような金庫の鍵のような物理的なものではなく、人々を天国、つまり神の祝福へと導く役目が教会には与えられていると言うことを表す言葉だと考えることができます。なぜなら、天国はペトロにように主イエスを救い主と信じる者たちに与えられる者だと言えるからです。そして、人々をその主イエスの信仰に導くために教会には聖書の言葉、主イエスの福音が与えられているのです。
福音書には別の箇所で岩の上に自分の家を建てる(マタイ7章24〜27節)と言うたとえ話が語られています。ここでは主イエスの言葉を信じて、その言葉に従って生きることを岩の上に家を建てるとたとえられているのです。このような表現から聖書では「岩」と言う言葉を使って神の言葉を説明していることが分かります。そして主イエスはここでは「ペトロ=岩」の名前を通してこのことを私たちに教えているのです。
ですからこのペトロに主イエスから天国の鍵が与えられていると言うことは、教会に神の言葉が与えられていることを示しているのです。このようなことからも教会にこの神の御言葉が与えられていること、またその言葉を人々に伝える福音伝道の使命が与えられていることがとても重要であることが分かるのです。なぜなら、教会が行う福音伝道によって多くの人が天国に入ることができるからです。もし、私たちがその使命を怠ってしまうならば、天国の門を閉ざしてしまうことにもなりかねないのです。そして教会の使命はこの天国の門を閉ざすことではなく、その扉を開いて多くの人を天国に招きいれることだと主イエスは私たちに教えてくださっているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき弟子たちにどんな質問をされましたか。弟子たちはその質問に何と答えましたか(13〜14節)。
2.イエスはこの質問に続けて次に弟子たちにどのような質問をしていますか。この質問に対しては誰が何と答えていますか(15〜16節)。
3.17節のイエスの言葉から「あなた(イエス)はメシアです」と言う信仰の告白は、私たちにとってどのような意味を持っていることがわかりますか。
4.またイエスはどこに教会を建てると言われていますか(18節)。この教会にはイエスからどんなものが与えられていると言われていますか(19節)