1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2023
  4. 9月10日「イエスの十字架」

2023.9.10「イエスの十字架」 YouTube

ルカによる福音書23章13〜24節(新P.157)

13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、

14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。

15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。

16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

17 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。

18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。

19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。

22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。


ハイデルベルク信仰問答書

問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられたのですか。

答 それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした。

問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。

答 あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。


1.神は人間の理想の産物か

 むかし、私が大学の経済学部の学生の時に学んでいたのはマルクスと言う人物が記した「資本論」と言う書物のです。資本論は人間が営む経済活動を通して社会や人間関係の仕組みを解明しようとする書物です。ご存知のようにこのマルクスは抑圧されたすべての人々を解放するという理想に燃えて、共産主義という思想を作り出しました。その共産主義では「宗教は民衆をだますアヘンのようなもの…」と言われ批判の対象とされて来ました。そのマルクスの本の中で確か「神とは人間が作り出した理想の産物だ」と言う説明しているものがあったことを思い出します。つまり人間が持つ「世界はこうあってほしい、人間はこうあってほしい」と言う理想が神と言う存在を作り出したと言うのです。そしてマルクスは「人間は神を作り出す代わりに、自分たちの抱いた理想を自分の力で実現すべきだ」と教えたのです。

 しかし、私たちがこれまで読んできた福音書で語られる主イエスの姿は、むしろ人間の抱いている理想とはかけ離れたお方であったことが分かります。なぜなら、神から遣わされた救い主がこの地上で苦しみを受け、その挙句十字架に掛けられて殺されてしまうなど、人間は誰も予想も期待もしていなかったからです。むしろ主イエスを自分たちの救い主と一時は考えていた民衆は、自分たちの期待と全く違った行動をする主イエスに絶望して彼の元を離れて行くことになりました。また、それは民衆だけではありません。主イエスと寝食を共にしてその方を一番理解できる立場にあった弟子たちもご存知のように、救い主が苦しみを受けて殺されるという主イエスの預言を聞いた時に、それを受け入れることができなかったのです。そして弟子のペトロはその計画を変えさせようとまでしたのです。

 聖書は自分たちに都合のよい期待を神に向かって抱く私たちに人間に対して、真の神はそのような人間の期待とは全く違った存在であることを明らかにしています。その上でむしろ、自分にとって都合のよい期待しか抱かない私たち人間の罪を厳しく指摘し、私たちに悔い改めを迫ろうとしているのです。

 このように人間は真の救い主が苦しみを受け、十字架にかけられて死なれるというようなことを考えることも、期待することもできないものなのです。しかし、私たちが今、学んでいるハイデルベルク信仰問答は主イエスがローマ帝国から派遣されたユダヤの総督であったポンテオ・ピラトの時代に裁判にかけられ、十字架につかれれたいう歴史的な事実を取り上げます。そして救い主イエスを人間の側からの期待からではなく、この裁判と十字架の出来事を通して表された神の計画を通して理解しようとするのです。


2.私たちのための法廷

①ポンテオ・ピラトの裁き

 ポンテオ・ピラトはローマ帝国から当時の植民地であったユダヤに遣わされたローマに仕える役人、「総督」と言う職務を担った人物です。彼は紀元26年から36年の間、約十年間にわたってユダヤの総督として働いていたことが分かっています。ピラトの名前は主イエスを十字架に付けた人物として有名ですが、キリスト教会以外の人々が書いた記録の中にも彼のことは登場しています。それらの記録を読むと、ピラトは「融通のきかない性格で、とても頑固なばかりか無慈悲でもあった」と伝えられています。聖書の記録の中にも「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(ルカ13章1節)と記録されていて、無慈悲で残酷な性格を持った人物であったことがそこからも分かります。

 このピラトがなぜ主イエスに関する事件に関わることになったかと言えば、主イエスを殺そうとしたユダヤ人の指導者たちが自分たちだけではイエスを死刑にすることができなかったからです。当時、ローマの支配下にあったユダヤ人議会は人を死刑にするという重要な司法権を奪われていました。彼らはそのために当時の総督だったピラトを利用します。主イエスをピラトの法廷に訴えて、ローマ法に基づいて死刑にさせようとしたのです。ところがユダヤ人議会は主イエスが神を冒涜した罪で死刑に当たると考えましたが、ローマ法では「ローマ皇帝を冒涜した」と言うことならば罪とされますが、「ユダヤ人の信じている神を冒涜した」などと言うことは罪としては取り扱うことはできません。さらにその人物が死刑にあたるような罪を犯したとも判断できないのです。

 そこでユダヤ人たちが考え出したのは「イエスはローマ皇帝に逆らって、自分がユダヤ人の王となろうとしいる」というローマに反乱を企てた人物と言う罪状で告発することです。そしてローマ法では国家に対する反逆罪を犯した罪人は十字架刑に処せられることになっていました。

 しかし、ピラトは主イエスを取り調べる中で、彼がローマに対する反逆を企てたと言う罪を犯してはいないことを確信します。その上で、主イエスがユダヤ人の指導者たちの罠にかかって、無実の罪で殺されようとしていることも知ったのです。ですからピラトは無実の主イエスを釈放させようと考えるのですが、「イエスを十字架につけよ」と言う群衆の叫びに圧倒されて、どうしても主イエスを十字架にかけるほかないと言う立場に追い込まれていきます。ピラトはこの民衆たちをなだめるために主イエスを十字架に掛けるという決定を下したのです。

 しかし、聖書はこのような人々の動きの背後で神の計画が進められ、主イエスが十字架に掛けられることになったことを私たちに教えているのです。


②わたしたちを免れさせるため

 それでは神はどうして救い主イエスがポンテオ・ピラトの裁判を受けると言う計画を実行されたのでしょうか。そのことについて信仰問答は次のように語っています。

「それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした」(問38)。

 この答では私たちを神の厳しい裁きから免れさせるために、主イエスはピラトの裁判を受けたと説明されています。信仰問答が語るように主イエスは「罪のないお方」です。ですからこの法廷で裁かれているのは主イエスの罪ではなく、彼が代わって負ってくださった私たちの罪なのです。つまり、この法廷は本来、私たち罪人のために開かれるものだったと言えるのです。そして、私たち罪人はこの法廷で無実を主張することはできません。なぜなら、私たちはその人生で神に背くと言う重大な罪を犯しているからです。主イエスはその私たちが神の厳しい裁きから免れることができるようにと、あえてピラトに自らの「無実」を主張することなく、死刑と言う判決を受けてくださったのです。

 「終活」と言う言葉を私たちはもうだいぶ前からよく聞くようになりました。私たちが人生の最後にやっておかなければならない大切なこととして「終活」をする必要があると言うのです。私たちは「年を取ってしまったから何もできない」と言うのではなく、「年を取ったからこそしなければならないことが残されている」と言えるのです。そして聖書はその「終活」にとって最も大切なことは私たちの人生の総決算が行われる神の裁きに対する備えであると教えているのです。なぜなら、私たちはこのままであればこの神の厳しい裁きに耐えることはできないからです。主イエスはその裁きから私たちが免れるために、神の計画に基づいてポンテオ・ピラトの裁判をうけられたのです。ですから主イエスを救い主として信じる者は、神の厳しい裁きを恐れる必要はありません。私たちは安心して、私たちの命がこの地上に残されている間、自分がしなければならない「終活」を行うことができるのです。


3.呪われたイエス

 さてハイデルベルク信仰問答の問39は主イエスが「十字架刑」を受けられたという、その特別な刑罰の方法を取り上げて、そこにも神の計画をあったことを説明しています。主イエスが生きていたころでも、処刑の方法は十字架以外にもいろいろ存在していました。たとえば、使徒言行録に登場する殉教者ステファノは石打ちの刑を受けて殺されています(使徒7章54〜60節)。また、洗礼者ヨハネはガリラヤの領主ヘロデによって獄中で首をはねられて処刑されました(マタイ14章1〜12節)。しかし、主イエスが受けられた十字架刑はこれらの処刑方法の中でも最も残酷で過酷な刑罰でした。先ほども語りましたように十字架刑は特に国家反逆罪というような重大な罪を犯したものにのみくださるものでした。なぜなら、十字架刑では罪人の手と足を十字架の木に釘付けし、その罪人を死ぬまで十字架の上で放置するものだったからです。

 しかし聖書はこの十字架刑の残酷さよりは、その処刑の方法である「木にかけられる」と言う面に私たちの関心を向けさせようとしています。パウロはこのことについてガラテヤの信徒への手紙の中で次のように語っています。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです」(ガラテヤ3章13節)。

 ここでパウロが引用している「木にかけられた者は皆呪われている」と言う言葉は旧約聖書申命記21章23節に記されています。ですから信仰問答は「わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです」と語っているのです。

 この「呪い」について皆さんはどのようなことをお考えになられるでしょうか。旧約聖書の創世記には人間が犯した罪により、この「呪い」が私たちの世界に入り込んで来たいきさつが次のように説明されています。

「神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(3章17節)。

 聖書によれば神は人間を苦しめるためではなく、喜ばせるためにすべてのものを造ってくださいました。しかし、その人間が罪を犯して変わってしまったことにより、本来、私たちを喜ばせるものだったすべてのものが私たちを苦しませるものとなってしまったのです。このように聖書の教える「呪い」は、丑の刻参りや人間の行う怪しい魔術によって生み出されるものではなく、人間の犯した罪と深く関係しているのです。

 主イエスは自ら十字架刑に処せられ「木にかけられる」者となりました。それは本来罪の故に呪われた人生を生きなければならなかった私たちに代わって呪いを受けられたからです。私たちはこの主イエスによって「呪い」から解放されているのです。

 人は自分に不都合な出来事が自分の人生に続いて起こると「自分は呪われている」と考えることがあります。しかし、信仰問答はたとえ私たちの人生に自分にとって不都合な現実が起こったとしても「自分は呪われている」と考える必要はないと教えるのです。なぜなら、私たちの人生は主イエスが私たちに代わって呪われることで、そのすべての呪いから解放されているからです。

 それではこの主イエスによって、神の厳しい裁きから免れ、またすべての呪いから解放されている私たちは自分の人生についてどう考えるべきなのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答はそのことについて問1ですでに私たちにこう教えているのです。

 「この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます」。

 主イエスを通して示された神の救いは人間の理想によって作り出されたものでは決してありません。むしろ私たちは「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ(た)」方を通して私たちが神の厳しい裁きから免れることができ、すべての呪いから解放されたことを知ることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.キリスト教会はなぜ、使徒信条の文章の中で教会とは直接には関係ないポンテオ・ピラトの名前を挙げて、主イエスの受けた苦しみを説明しようとするのですか。

2.それではなぜ罪のないキリストがこの世の裁判官であるピラトを通して厳しい裁きを受けなければならなかったのですか。

3.聖書によればキリストが「十字架につけられた」と言う処刑方法にはどのような特別な意味があることが分かりますか。

4.キリストの十字架の死が神に呪われたものだとしたら、私たちはこのキリストによってどんな確信を抱くことができますか。

5.キリストによって厳しい神の審判を免れ、私たちの上にかかっていた呪いからも解放されたとしたら、私たちはその人生をどのように過ごすことができると思いますか。

2023.9.10「イエスの十字架」