2023.9.24「先の者は後になり、後の者は先になる」 YouTube
マタイによる福音書20章1〜16節(新P.38)
1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
1.ぶどう園の主人と労働者
①神の国はどのように実現するのか
現在でもブラック企業が雇った労働者を不当な低賃金で長時間にわたって働かせるというような問題が後を絶ちません。主イエスが今日の箇所で語っているぶどう園の主人が現代に生きていたとしら、不当に労働者を取り扱う人物として非難の的になってしまうかも知れません。しかし、このお話を読む際に私たちが気を付けなければならないことは、ここでは雇人と労働者との関係、つまり雇用関係が問題にされているのではないと言うことです。このお話の最初は「天の国は次のようにたとえられる」と言う言葉で始まっています。この言葉から分かるように今日のお話は神と私たち人間との関係を語ろうとしていると言えます。
「天の国」(マタイだけは「神の国」を「天の国」と言う言葉で言い換える)、「神の国」とは「神の支配」とも訳される言葉です。この世の支配者は100パーセント、完璧に国民を支配することはできません。むしろ、その支配には様々な矛盾があり、重大な問題を抱えていると言えるのです。その一つは不平等がはびこる支配であると言えるかもしれません。社会の富はほんの一部の富裕層にだけ分配され、大多数の人間が搾取され、貧しい生活を送っています。イエスの時代のユダヤ人はローマの支配の中で、神が自分たちを苦しみから解放してくださり、神自らが自分たちを治めてくださる「神の国」の実現してくださると考えていました。主イエスの指し示した神の国は彼らの期待とは大きな違いがありましたが、この神の国は確かに私たちすべての人間に祝福と喜びをもたらすものであるということを主イエスも教えてくださったのです。
それではこの「神の国」は私たちの上にどのように実現するのでしょうか。そのことを今日の主イエスのたとえ話は私たちに教えていると福音書記者は最初に述べているのです。
②私たちを見つけ出してくださる神
このお話の登場するある家の主人は自分のぶどう園で働く労働者を雇いに、夜明け、午前9時、正午、午後3時、そして午後5時と合わせて五回に渡って、町の広場に出かけて労働者を雇いました。ぶどうの収穫にはタイミングが大事であると言われています。早く取り過ぎてもいけませんし、遅くなってもいけません。ですから収穫は短時間で行われなければなりませんからそれだけたくさんの労働力が必要となって来るのです。しかし、そうだとしてこの物語に出てくる主人の行動は少し不自然であると言えます。たくさんの労働力が必要ならば、一度にたくさんの労働者を雇えばいいのに、この主人はそれをしないで何度も町の広場に出かけていきます。この主人は収穫に対してどのくらい労働力が必要になるかを分からずに、場当たりに労働者を雇い、「これでは少ない」とまた他の労働者を雇いに行ったと言うことなのでしょうか。
このたとえ話を読むと労働者を求めて何度も広場に行ったこの主人の目的は「何もしないで広場に立っている人」を見つけ出すためであったと考えることができます。「働き先を求めて広場にやって来たのに誰も自分を雇ってくれない」。そんな思いをしている人を主人は何度も広場に出かけて行っては見つけ出しています。そして彼らを自分のぶどう園に雇い入れようとするのです。さらにこの主人はもうすぐ一日の仕事が終わってしまう午後5時ごろにも広場に出かけます。すると彼はそこでも何もしないで広場に立っている人々を見つけ出すのです。
「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」(6〜7節)。
「誰も雇ってくれないのです」と言う悲痛な叫びがここには記されています。現代でも雇用主は自分の会社に利益をもたらすような人材を求めます。テレビのコマーシャルでは「即戦力」と言う言葉がよく使われています。もしかしたらこの午後5時ごろまで広場に残された人々は、そのような雇い主から「役に立ちそうにない」と判断され、敬遠された人たちだったのかも知れません。ですからそんな彼らにとっては「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言う主人の言葉はどんなに励ましを与える言葉になったでしょうか。この主人は「わたしはあなたたちを必要としている。あなたたちの働きが私には必要だ」と彼らに言っていることになったからです。
このたとえ話は「神の国」、つまり神と私たち人間との関係を語っています。ですからこのお話に出てくる主人は私たちの神、そして労働者は私たち自身と考えることができます。神は私たちを捜しに何度も何度もやって来て、私たちを見つけては「わたしにはあなたが必要だ」と語ってくださるのです。実はこれが聖書の語る福音であると言えます。私たちの神はこの世の雇用主のように人をその能力で見分け、自分にとって都合のいい存在だけを求める方ではありません。むしろ「自分なんて、何の役にも立たない」と思っているような者たちにまで声をかけ、「わたしのところに来なさい。私はあなたを必要としている。私の計画にはあなたがいなければならない」と招いてくださる方なのです。
2. 主人に不平を語る労働者
このような意味でこの主イエスのたとえ話は私たちに向けられている神の招きのすばらしさを語っていると言うことができます。しかし、そんな素晴らしい招きを神から受けたのに、その素晴らしさを理解できず、むしろ不平や不満に心を奪われてしまう人の話が続けてこのお話には語られています。それはぶどう園で一日の作業が終わり、労働者に賃金を支払うという場面で起こります。
「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った」(8〜9節)。
この主人は「最後に来た者から順に賃金を払ってやるように」と監督に命じています。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)と言う主イエスの言葉通りの出来事が起こるのです。しかし、その方法がここでは新たな問題を起こすきっかけとなっています。なぜなら、自分より後からぶどう園に来て、わずかな時間しか働いていない人たちに主人が一デナリオンの賃金が払われるのを見て、最初に雇われた人たちが「もっと多くもらえるだろうと思って」(10節)しまったからです。だから、彼らにも主人から同じ一デナリオンが支払われると自分の不満が爆発させるのです。
「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(12節)。
彼らはすべての労働者に一デナリオンを支払う主人の扱は不当であるとここで語っています。しかし、この一デナリオンは当時の労働者の平均的な一日分の賃金の額であると言われています。つまり、主人は彼らの働きに対して、十分に見合う賃金を払ったのです。ですから、もし主人が最初にやって来た労働者から順番に賃金を払っていたら、彼らはこのような文句を言わずこの一デナリオンを受け取り、喜んで家に帰って行ったかも知れないのです。しかし、ここで一番に問題なのは労働者に賃金を払う順番ではなく、他人と自分の働きを比べて、その違いを見て雇い主に対する不満を爆発させた彼ら自身にあると考えることができます。
3.神の国は恵みによって与えられる
①すべての人に一デナリオンを払いたい
実はそのことがはっきりわかるのは最後に語られるぶどう園の主人の言葉です。彼は自分の労働者に対する扱いかたが不当だと訴える人々に対して次のような言葉を語っています。
『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』(13〜15節)
主人は最初から一日分の賃金一デナリオンの約束で彼らを雇い入れました。つまり、主人は契約に反することはなにもしていないのです。ですから問題は約束通りに一デナリオンを主人から受け取りながら、その金額に不満を抱いた彼らにあると言うことができます。
また、この主人はどうして「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語り、最後に来た者にまで一デナリオンを支払ったのでしょうか。
この主人の言葉から私たちは二つのことを理解することができます。主人はすべての労働者に一日分の賃金一デナリオンを払ってやりたいと思ったのです。それは彼らが不自由な生活をすることなく、その日一日の生活を送れるためです。神はこの世に生を受けたすべての人々が生きることを望んでくださっています。たとえこの世の人々からその人の存在が「無価値だ」と判断されたとしても、神はすべての人が生きることを望んでおり、その人が生きるために必要な糧を与えようとされる方なのです。
さらにこの主人の言葉から分かることは、すべての人々の命の価値は一デナリオンを受けるにふさわしい存在であると言うことです。最初に来た労働者は午後5時ごろに雇われて働いた人たちは「一時間ほどしか働いていない」と判断しています。彼らの働きは役に立っていないと考えるのです。しかし、この主人の彼らに対する見方は違います。5時ごろ雇われた人もまた一デナリオンを受けるにふさわしい働きをしたと考えるのです。主人にとっては彼らの働きがなければ自分の計画が実現しない、彼らは主人にとってなくてはならない大切な存在として認めらえているのです。だから主人は彼らにも同じように一デナリオンを払ってやりたいと思ったのです。
②神に招かれることの素晴らしさ
この主イエスの語られたお話は実は19章で語られるお話から続いていると考えることができます。なぜなら19章の終わりも「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(30節)と言う今日の箇所の16節と同じ言葉が主イエスによって語られているからです。
この19章で弟子のペトロは主イエスにこのような言葉を語っています。
「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19章27節)。
ここでペトロは自分の支払った犠牲、またその働きに関心を向けています。ペトロは「他の誰よりも自分は主イエスのために働いて来た」と言う自信を持って語っているのです。だからもし主イエスがそんな自分を差し置いて、他の弟子たちを自分と同じように取り扱ったとしたら、ペトロは主イエスに対して腹を立ててしまったかもしれません。今日の主イエスのお話はそのような考えを抱く人々に語られていると言えるのです。
このぶどう園の主人は「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と言う言葉を語っています。この言葉をギリシャ語の原文通りに読むと「わたしがしたよいことをあなたたちの目は悪いと判断するのか」と言う言葉になります。つまり、問題なのは主人の行為を「悪い」と判断してしまう彼らの物の見方に原因があると言うことが分かるのです。
確かに私たちは自分の働きが他人から評価されることを喜びと感じています。他人からの自分に対する評価によって自分の価値を判断しようとするからです。しかし、私たちは必ずしも人の評価に見合う働きがいつもできるとは言えません。そして、もし私たちが何らかの理由で、人の評価に見合うような働きをすることできなくなってしまったらどうなるでしょうか。私たちはその時、「自分には生きている価値がない」と結論付けるしかなくなります。主イエスはこのような私たちの「物の見方」をここで問題として取り上げているのです。そして「神があなたたちをどのように見ているかを知りなさい」と教えてくださっているのです。神は私たちを必要とされています。たとえ「自分は役に立たない。必要とされていない」と考えている人たちにも神は「わたしのぶどう園に行きなさい」と言って招いてくださっているのです。
また、今日のお話に登場する早朝から雇われた人は自分の働きについて「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」と言っています。彼らにとってぶどう園の働きは一日分の賃金を受けるための手段にすぎません。だからもし働かなくても同額の賃金がもらえるなら、彼らにとってはその方がよいと言えたかも知れません。
しかし、一日も終わりに近づいたときにぶどう園の主人から「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言われた人たちの考えは全く違います。彼らは自分の価値を、自分の存在を主人に認めてもらえたのです。だから彼らにとってはぶどう園で働くことができること自体が喜びとなったのです。私たちもこの午後5時に雇われた人と同じです。だから、神に招かれ、神のために生きることができるようにされたことを喜びとすることができるのです。神は私たちのような取るに足らない小さな者の働きまで必要としてくださいます。そして私たちの小さな働きを正しく評価してくださる方だと言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.この主イエスのお話しに登場する主人は何をするために出かけて行きましたか(1節)。
2.この主人が労働者と結んだ契約はどのようなものでしたか(2節)。
3.主人はぶどう園の労働者を雇うために何度、広場まで出かけていきましたか(1~7節)。
4.労働者たちに賃金が支払われるときに、その支払われた賃金を巡ってどのような問題が起こりましたか(8〜12節)。
5.このお話に登場する主人が神で、労働者たちが私たちを表すと考えるなら、私たちはこのお話から何を学ぶことができるとあなたは思いますか(13〜16節)。