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  4. 9月3日「自分の命を救いたいと思う者は」

2023.9.3「自分の命を救いたいと思う者は」 YouTube

マタイによる福音書16章21〜27節(新P.32)

21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。


1.悪魔になったペトロ?

①難しい言葉

 今日も皆さんと共に福音書に記された主イエスの語られたみ言葉について学んでいきたいと思います。前回、私たちは主イエスの発した「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言う問いに対して、弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたお話について学びました(マタイ16章13〜20節)。その際、このペトロの答えを聞いた主イエスは大変に喜んで「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と語られたのです。ところが、今日の箇所ではこのペトロに対して主イエスは一転して「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23節)と言う言葉を投げかけられています。この主イエスの言葉は先にペトロをほめた言葉を語られた場面に続いて記録されているものです。どうしてこのように主イエスから「幸いだ」と言われたペトロが一転して今度は主イエスから「サタン、引き下がれ」と呼ばれることになったのでしょうか。この主イエスの言葉が真実だとしたら、ペトロはこのときサタン、つまり悪魔にとりつかれてしまたったと言うのでしょうか。

 また、今日の箇所の後半部分で主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と語られています。これも大変に有名な主イエスの語られた言葉の一つです。ところがこの言葉の理解はそんなに簡単であるとは言えないと思います。いったい、「自分を捨てる」とはどのようなことなのでしょうか。この主イエスの言葉の本当の意味を理解するのはとても難しいと言うことを表すこんなお話があります。

 教会で長い間、求道生活をつづけて来た一人の青年が、あるとき牧師の元を訪れてこう報告しました。「先生、私は努力して、主イエスの言葉の通りに「自分を捨てる」ことがやっとできるようになりました」。すると喜んでこのように報告した青年に対してその牧師は「それはすばらしいですね。ところであなたが今言ったように「自分を捨てる」ことができたとしたら、今、「自分を捨てる」ことができたと言っているあなたはいったい誰なのですか…?」。

 私たちは「自分を捨てる」と言われても、自分の人格を全く放棄することはできません。私たちはどんなに努力しても誰か他人に自分を変わることはできません。自分はどこまで行っても自分のままなのです。それではその「自分を捨てる」とはいったいどのようなことを意味するのでしょうか。短い時間ですが、私たちはこれらの疑問について聖書の言葉をヒントに考えて見たいと思うのです。


②食い違うメシア理解

 今日の箇所はペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰告白の言葉に対して、主イエスがそのメシアである自分がこれから何をしようとしているのか、自分が神から遣わされたメシアとしてどのような使命を果たそうとしているのかを弟子たちに説明したことから始まっています。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。

 するとこの主イエスの言葉を聞いたペトロはすぐに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)と反応したと言うのです。それではどうしてペトロはこんな言葉を主イエスに向かって語ったのでしょうか。それは主イエスが語ったメシア像、メシアが行おうとすることが、自分たちが考えているメシア像と全く違っていたからです。だからペトロは主イエスの語られた言葉を全く受け入れることができなかったのです。

 ペトロはなぜ、主イエスの言葉を受け入れることができなかったのか。その理由は前回もお話したようにペトロたちが持っていたメシアについての期待、そのメシア像にありました。このときペトロたちは主イエスがその不思議な力を使ってユダヤの民を導き、当時、このユダヤを支配していたローマ帝国の軍隊を打ち破って、ユダヤの国を再建しくださる方だと信じていたようです。だからペトロを含めた弟子たちは、その夢がかない、主イエスがユダヤの国の新しい王となったときに、自分の働きが主イエスによって評価され、そのご褒美としてどのような位をもらえるかについて語り合い、それを巡って言い争いまでしていたのです。

 ですから、ペトロの「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言う言葉は主イエスに対して、「それは私たちの思っている計画と違います。あなたはメシアとして私たちの考えた方法に従ってください」と語っていることになります。つまり、ペトロはこのときに主イエスに「自分に従いなさい」と言ったと言うことにもなるのです。

 ここには信仰生活において私たちも陥りやすい間違い現れています。神に対して「自分の思った通りのことが実現してくださるように」と祈り、そうでない現実にぶつかると「これは私の祈ったこととは違う」とその現実を受け入れることができずに拒否することが、私たちの信仰生活にもよく起こるからです。しかしそれはある意味、神に対して私たち人間が「あなたは私の思った通りのことをして、私に仕えてください」と言っているようなものだと言えるのです。

 聖書によると悪魔は私たち人間の最初の先祖に「それを食べると、あなたも神のようになれる」と誘惑しました(創世記3章4節参照)。人間はいつもこの悪魔の誘惑に簡単には負けてしまいます。そのようにして私たちはあたかも自分が神であるかのように勘違いして、その果てには真の神を自分に従わせようと言う誤りを犯してしまうのです。


2.神から私たちを引き離そうとする悪魔

 確かにこのときペトロは主イエスのことを心から心配して、その「主イエスのために」と自分の素直な気持ちを語ったのかも知れません。つまり、ペトロの人格が突然悪魔に支配されて、オカルト映画に登場するような存在にペトロが変わってしまったわけではないのです。そのような意味で聖書の描く、悪魔の働きは人間の興味本位から作られるオカルト映画の筋書きよりも、もっと巧妙で私たち人間の心を利用することが上手だと言うことができるのです。

 たとえば福音書はこの悪魔が荒れ野で主イエスを誘惑した物語を私たちに伝えています(マタイ4章1〜11節)。その際に悪魔は主イエスがメシアであることを否定することはしていません。むしろ、悪魔は主イエスに対して「わたしの言った通りにすれば、あなたはもっと簡単にメシアとなることができる」と誘惑したのです。

 ある物語の中に巧妙な悪魔の働きが次のように紹介されているものがあります。その悪魔は最近、教会に行き始めた青年に対していろいろと邪魔をして、彼が教会に通って、神を信じることがないようにしようとするのです。とろこがその悪魔の計画はどうもうまくいきません。そこでその悪魔は自分の親玉である悪魔にそのことについて相談をしようとします。すると悪魔の親分はこう言うアドバイスを子分の悪魔にしたと言うのです。「お前が邪魔をすればするほど、その青年は真剣になって教会に行き、神を信じようとするだろう。それではだめだ。むしろ、お前は何もしないほうがいい。そうすれば、やがてその青年は自分から飽きてしまい、自然と教会に行かなくなるに違いない…」。

 悪魔の働きの目的は私たちを神から引き離し、その関係を破壊するところにあります。主イエスはこのとき、ペトロの言葉の背後に巧妙に隠れて働く悪魔に気づいて、このような言葉をペトロに向かって語ったと考えることができるのです。


3.「神の恵みがあれば」と語ったペトロ

 ところでこの箇所の会話で興味深いのはこのときペトロが主イエスに向かって語った言葉です。実は日本語訳聖書ではこのペトロの言葉が「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と翻訳されています。しかしこの言葉のギリシャ語の原文では「あなたに神の恵みがあるなら」と言う言葉が使われています。つまり、ペトロはこのとき主イエスに対して「あなたに神の恵みがあるならば、決してそんなことがおこるはずがありません」と説得していることになるのです。

 ここにはペトロたちが神の恵みについて抱いていた誤解、彼らの信仰の問題があらわれています。通常、私たちは自分が病気になることなく健康が守られること、また大きな災害の中でも自分の安全が守られることを「神様からの恵み」と考え、感謝することがよくあるはずです。確かにそれは必ずしも間違っているとは言えないかも知れません。ところが主イエスはこのことに関連して大変、興味深い話を聖書の中で語っているのです。主イエスはあるところで、実際に当時、災害や事件に巻き込まれて命を失った人を取り上げながら「彼らが人よりも罪深かったからそうなったと考えてはならない」と教えているのです(ルカ13章1〜5節)。このことの背後には「自分は神の恵みによって守られたが、彼らにはそうではなかった」と考える人間の抱く誤解が隠されています。

 ある有名な神学者は神の恵みについて人間が抱いている誤解に対して、本当の神の恵みとは私たちを罪と死の呪いから解放し、私たちに永遠の命を与える神の救いの御業だけを指すと語りました。つまり、どんなにその人がこの世で祝福されて生きることができたとしても、結局、その人が主イエスによる救いを受けることができなかったとしたら、彼がこの世で受けたすべてのものは「恵み」とは言えないと言うのです。

 このような意味で、ペトロたちはこのとき神が与えてくださる本当の恵みを正しく理解していなかったのです。だから、彼らは主イエスがメシアとして十字架にかかって死なれようとすることが私たちに与えられる神からの本当の恵みであることを受け入れることができなかったのです。


4.十字架に従う道

①主イエスに従うために

 さてこのような神の恵みについての誤解に支配され、真のメシアとして来られた主イエスの言葉を受け入れることができないペトロたちに対して主イエスは次のような言葉を語ってくださいました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(24節)。

 ここまで聖書を学んできて分かることは主イエスが「自分を捨て」なさいと言っているこの言葉は、私たちを救い出し、私たちに本当の恵みを与えようとする神の御業を受け入れることができなくさせて、むしろ自分の思いに神を従わせようとする私たちの自己中心な考え方を捨てること、また自分が神のようになろうとする生き方を捨てることを命じていることが分かるのです。つまりここでは「自分を捨てる」と言うことが私たちの信仰の目的だと教えているのではないのです。むしろ私たちが主イエスに従うためには「自分を捨てる」ことが必要になると教えているのです。なぜなら、私たちが主イエスに従うことによって、私たちはその主イエスを通して本当の救いを、そして命を受けることができるようになるからです。


②自分を捨てることで得られる本当の命

 現代の心理学では私たちが自分自身を受け入れて、自分自身を大切にすることが重要であることを教えています。なぜなら自分自身を受け入れることができる人だけが、他人を受け入れることもできるようになるからです。それに対して今日の聖書は「自分を捨てる」とか「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と言うように、何か自分の命を粗末に扱うように教えているようにも聞こえます。しかし、主イエスが教えることも実は私たちが自分自身を大切にすることを教えていると考えることができるのです。なぜなら、主イエスは私たちのために十字架にかかり、私たちを救い、私たちの命を大切にされようとしているからです。

 私たちは自分の力や知恵では自分の命を大切にすることができません。またどうしたら自分自身を受け入れて、その人生を豊かに生きることができるかも分からないのです。主イエスが伝えたたとえ話の中に登場する金持ちは自分の努力で自分が一生の間、楽に暮らせるだけの食物を得ることができたと喜びました。ところが彼の命はその晩に取られてしまい、残された食物は彼のために何の役にも立たなくなってしまったのです(ルカ12章13〜21節)。彼は結局、自分の命を大切にすることができなかったのです。

 しかし、私たちの救い主である主イエスだけは私たちがどのように生きればよいかを知っておられます。また、この方は私たちを罪と死の呪いから解放し、私たちに永遠の命を与えることができる方なのです。

 だからこそ、私たちが「自分の命を捨てて、自分の十字架を負って、主イエスに従うこと」が必要なのです。そうすれば私たちは自分の命を得て、自分の人生を意味あるものとして用いることができるようになるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このとき主イエスは弟子たちに対してご自分がこれからどのようになられるかを語られましたか(21節)。

2.この言葉に対してペトロはどのように反応し、主イエスに対して何と語りましたか(22節)。

3.どうして主イエスはこの時、ペトロに対して「サタン、引き下がれ」と言うような厳しい言葉を語ったのでしょうか(23節)。

4.主イエスはご自分について来たいと思う者にどのようなアドバイスをここで語っていますか(24〜25節)。

5.私たちの信仰生活にとって「自分を捨て、自分の十字架を背負う」と言う主イエスの言葉はどんなことを教えていると思いますか。あなたも考えてみてください。

2023.9.3「自分の命を救いたいと思う者は」