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2024.1.21「わたしについて来なさい」 YouTube

マルコによる福音書1章14~20節(新P.61)

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

18 二人はすぐに網を捨てて従った。

19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。


1.福音書は何を伝えるのか

①同じ出来事を違った視点で語る四つの福音書

 今年の教会暦ではマルコによる福音書を中心にしてこの礼拝で学ぶようになっています。皆さんもご存知のように新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと言う四つの福音書が収められていて、それぞれ独自の視点からイエス・キリストの教えや御業について記録しています。「福音」とは「よい知らせ」と言う意味の言葉で、もともとは戦場において味方が勝利したことをその本国で待つ人々に伝える伝令、あるいはその伝令が伝えた内容を「福音」と呼んでいたようです。本国でその知らせを待つ人々はその伝令が伝える内容次第で今後の自分の人生が変わってしまう訳ですから、それほど重要な知らせの意味が「福音」と言う言葉には込められていると言うことになります。福音書はそのような意味、私たちの人生を変えるすばらしい知らせを伝えるために書かれた書物であると言うことができるのです。

 聖書を読み始めた当初、この福音書を読んで多くの人が疑問を感じるのは、同じ出来事を取り上げていてもそれぞれの福音書の間でその内容がかなり違っていることです。たとえば今日の聖書箇所ではシモン・ペトロやヨハネと呼ばれる人物がガリラヤ湖で働く漁師の職業を捨てて、主イエスに従うお話が記録されています。ここではまず主イエスが彼らをご覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉をかけられることで、彼らはすぐに主イエスに従って弟子となったということが報告されているのです。

 しかし、この同じ出来事を伝えているルカによる福音書は最初に主イエスがペトロたちの舟に乗って岸辺に集まる群衆にお話をされた後に、主イエスの指示によって湖に網を入れたペトロたちが大漁の奇跡を体験すると言う出来事を記録しています。そしてその後で、主イエスの「あなたたちは人間をとる漁師になる」と言うペトロたちへの呼びかけの言葉があり、彼らはその主イエスに言葉に従って弟子となります(ルカ5章1~11節)。

 また、ヨハネによる福音書ではもともと洗礼者ヨハネの弟子であったシモン・ペトロの兄弟であるアンデレが洗礼者ヨハネから「見よ、神の小羊だ」と言う言葉を聞いた後に、自ら主イエスの元に赴いています。そしてそのアンデレはこの後に自分の兄弟シモン・ペトロを主イエスの元に導いて、彼ら二人が主イエスの弟子となったと言うお話が記されているのです(ヨハネ1章35~42節)。

 このような福音書の記事を読むとどれが真実の出来事を伝えているのかと疑問を抱く人が現れます。かつてこのような人々の疑問に答えて新約聖書を研究する学者の間で、歴史上のイエスを再現しようとする作業が行われたことがあります。そのようにして彼らは四つの福音書の間の違いを解決しようと試みたのです。しかし、この作業は結局、確かな実を結ばせることがなく終わってしまいました。


②今も生きておられる主イエスを示す福音書

 福音書はドキュメント映像のように主イエスの生涯を記録したものとは全く違った性質を持っています。なぜなら福音書は主イエスを救い主と信じて生きた人々が残した記録と言えるからです。そのような意味で福音書は彼らの信仰の証であるとも考えることができます。主イエスを救い主と信じることで自分の人生が全く変わってしまったと言う体験を持つ人々が、また厳しい人生の中にあっても主イエスを信じることで希望を持って生き抜くことができた言う人々が教える証の書物だと言えるのです。それではどうして彼らはそのような人生を生きることができたのでしょうか、その秘密を私たちに教えるのが福音書の重要な役目であると考えることができるのです。

 先日、私たちはハイデルベルク信仰問答の学びで「キリストの昇天」と言う出来事を学ぶことができました。主イエス・キリストは十字架にかけられた後、三日目に甦り、その後に天に昇られて、今も生きて私たちと共にいてくださると言うことが「キリストの昇天」と言う言葉で表されていることを私たちは学んだのです。福音書はこの私たちと今も共にいてくださる主イエスを証する書物だと言うことができます。同じ主イエスを信じていてもその信仰者の証は人によって異なるように、福音書の間にも異なった証が存在しています。ですから、福音書を読む際にとても重要になって来ることは、今も生きて私たちと共に生きてくださる主イエスが私たちの人生にどのように関わってくださっているのかをそこから学ぶことにあると言えるのです。そのような意味で福音書は今から二千年に前に生きたイエスと言う人物の生涯を記録した単なる伝記のようなものではありません。今も私たちと共にいて下さる主イエスがどのような方なのかを四つの福音書は様々な視点で私たちに教えようとしていることを私たちはまず覚える必要があるのです。


2.神の国は近づいた

①洗礼者ヨハネの逮捕

 さて、今日の聖書箇所は「ヨハネが捕らえられた後」にイエスがガリラヤの地で神の福音を宣べ伝え始められたことを報告しています。ここで登場するヨハネは先ほども少し触れた洗礼者ヨハネと言う人物を指しています。彼は当時ガリラヤの領主であったヘロデと言う人物の結婚を「律法に違反している」と批判したために、そのヘロデによって牢に入れられてしまいます。このヨハネの悲劇的な最後の姿はこの同じ福音書の5章でもう一度取り上げられています。ここで興味深いのは主イエスがヨハネ逮捕の知らせを聞いて「ガリラヤに行って」そこで福音を伝えたということです。ガリラヤはヨハネを捕らえたヘロデの支配地域ですから、主イエスは危険を避けるためにガリラヤに行った訳ではないことが分かります。

 ガリラヤはパレスチナの北部にある地方で、主イエスの故郷のナザレの町もこのガリラヤ地方に属していました。つまり主イエスにとってもこの地域は馴染み深い場所であったとも言えるのです。聖書によれば洗礼者ヨハネはヨルダン川流域の荒れ野で活動していたと伝えられています。当時、ヨハネの名声を聞いてパレスチナ全土からヨルダン川に多くの人々が駆け付けました。ヨハネの語ったメッセージが多くの人々の心を捉え、影響を与えていたことが分かります。ですからそのヨハネの逮捕は多くの人に衝撃を与えたものと思われます。特にヨハネの語るメッセージに耳を傾け、そこに希望を見出していた人々の思いは複雑であったと想定できます。「どんなに聖書に基づいて正しいことを語っても、この世の支配者の力にはどうすることもできない」そんな絶望的な思いを与えるような報せがこのヨハネ逮捕の出来事だったのです。そして聖書はそんな状況の中で、主イエスが神の福音をガリラヤで伝え始められたと報告しているのです。


②人の支配ではなく、神が支配される国

 それでは主イエスはこのガリラヤでどのような神の福音を人々に伝え始められたと言うのでしょうか。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。これが主イエスの伝える福音、良き報せだとマルコは記しています。

 神の国とは「神の支配」と訳される言葉です。「神の国」と言う言葉は人間が治める国ではなく、神自らが治める国を意味しています。現代の日本では毎年巨額の軍事費が使われる続ける時代となっています。もちろん、その理由は日本を取り巻く周辺の国々が同じように軍事費に巨額な金額を使って軍拡競争を繰り広げているからです。しかし、その一方で実際に国民の生活が豊かになるために使われる予算は決して十分ではありません。どの国でも様々な問題を抱え、貧しい人々が苦しんでいるのに、どの国も巨額な軍事費を使い続けなければならないと言う矛盾が現代社会では深刻になっているのです。実際に世界の様々な場所で戦争が続いていて、たくさんの人々の命が奪われ、悲劇は止まることがありません。それなのに世界の国々は少しも解決の糸口を見出すことができなくなっています。これは国の為政者だけの問題ではなく、まさに人間が支配する国の限界性を表さす証拠であると言えるのではないでしょうか。

 これは主イエスが活動していた時代のガリラヤでも同じでした。領主ヘロデの圧政があり、またその背後にはローマ皇帝の巨大な権力が人々を支配していました。人々はその人間の支配の中で深刻な問題を抱えて生きていました。そして主イエスはそのような状況の中に生きる人々に向けて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教えたと言うのです。

 聖書は私たちがどんな希望のない時代に生きていたとしても、神の国、神の支配が私たちの上に実現すると言う希望をここで教えています。なぜなら、この神の国、神の支配はこの世の人が支配する国のように巨大な軍事力で支えられ、維持されるものではないからです。それではこの神の国、神の支配はどのように私たちの上に実現すると言うのでしょうか。実はそれを私たちに教えるのがここで続けて語られているシモン・ペトロたちが主イエスの弟子とされる出来事だと言えるのです。


3.主イエスに選ばれた弟子たち

 ガリラヤ湖は塩分濃度が高くて生物が生息できない死海とは違い、様々な生物が生息することのできる豊かな湖でした。この物語に登場するシモン・ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの兄弟たちはそれぞれこのガリラヤ湖で魚をとる漁師として生きていました。そしてこの二組の兄弟には漁師としての共通点と共に、マルコはその違いもあったことを報告しています。なぜなら、主イエスの招きに応じたシモン・ペトロとアンデレは「網を捨てて」主イエスに従ったと語られているのに対して、ヤコブとヨハネは「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」主イエスに従ったと紹介されているからです。このことからヤコブとヨハネの家はたくさんの雇人がいるような「網元」のような裕福な家である一方、ペトロとアンデレの家は普通の漁師の家であったことが分かります。ただ、福音書がここで教えようとしているのは彼らが皆、律法学者や祭司と言うような聖書や宗教儀式に対する専門知識を持っている人ではなく、無学で普通の人だったと言うことです。

 この世の企業は求人の際に、その人がどのような経歴を持ち、またどのような特技を持っているかを判断材料にします。できるだけ企業に役に立つ人物を採用しようとするからです。しかし、福音書は主イエスの選考基準にはそのようなものは全く関係していないと言うことを教えています。なぜなら、主イエスはたとえその人が何の経歴も持っていなくても、また人々の役にたつような技術や才能を持っていなくても、御自分の弟子とすることができる力を持っておられるからです。ここで大切なのは人間の側の力ではありません。主イエスがもっておられる神の子としての才能、あるいはその力なのです。なぜなら、主イエスはどんな人でもご自分の弟子として用いることができる方だと言えるからです。だからこそ、私たちは信仰生活の中で自分の力のなさや、愚かさを嘆く必要はありません。むしろ私たちは私たちと共に生きて、私たちの人生を十分に用いることのできる方、主イエスの力を信頼して希望を持って生きる必要があるのです。そのような意味で私たちの希望はいつも、私たち自身ではなく、主イエスに向けられることをこのペトロたちが主イエスの弟子とされる物語は私たちに教えているのです。


4.人生を変える神の国

 さて、このマルコによる福音書の伝える物語はこの礼拝の最初にお話したように、同じ出来事を取り扱う他の福音書に比べてとても簡単に記されています。ここには弟子となるシモン・ペトロやヨハネたちが何を考え、どのような決断に至ったのかと言う事情は一切紹介されていないのです。二組の兄弟とも主イエスの呼びかけに、すぐに応じて、何もかもそこに置き去りにして主イエスに従ったことが紹介されていだけなのです。

 ここには主イエスの呼びかけの力、その呼びかけが私たちの人生にもたらす大きな影響力が語られていると言えます。ここに登場する人々は主イエスの呼びかけの言葉を聞いた途端、まるでそれに従うこと以外には考えられないように、その主イエスの言葉に従って行動しているからです。そのような意味で福音書は彼らの人生にこの主イエスの言葉を通して神の国、神の支配が実現したということをここで教えていると言えるのです。

 聖書の教える神の国、神のご支配は地上の人の作った国のように軍備や人の持つ力によって実現するものではありません。神の国は主イエスの呼びかけの言葉、聖書の言葉によって私たちの人生に実現していくものなのです。福音書はそのような意味で、この二組の兄弟の人生に主イエスの御言葉を通して、神の国が実現したと言うことを報告しています。そしてこの出来事は二千年前にガリラヤ湖の湖畔で起こった出来事に限定されてしまうものではありません。今も、主イエスは復活して私た ちと共に生きてくださっているからです。だから主イエスは今も聖書の御言葉を通して、また天から聖霊を私たちに送ってくださることで、私たちの人生に神の国を実現してくださっているのです。

 福音書はこのペトロたちと同じように主イエスの呼びかけに従い、全く人生が変えられた人々の証を伝える書物であると言えるのです。そして福音書は私たち人生の上にも、主イエスの御言葉によって神の国が実現することを教えているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスがガリラヤに行かれたのはどんな時のことでしたか。またイエスはそこで何をされましたか(14節)。

2.福音書はイエスが宣べ伝えた「神の福音」の内容を何であったと言っていますか。イエスは神の国が近づいたことで、人々に何をすることを求めておられますか(15節)。

3.イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、そこでどのような人をご覧になられましたか(16、19節)。

4.イエスはここで出会った人々に何という言葉を語られましたか(17節)。

5.彼らはこのイエスの言葉を聞くとどのようになりましたか。この出来事から私たちはイエスについて、またその語られる言葉についてどのようなことが分かりますか(18、20節)。

2024.1.21「わたしについて来なさい」