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2024.1.28「キリストが共におられる交わりに生きる」 YouTube

マタイによる福音書18章15~20節(新P.35)

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


1.小さな群れである教会

 今年も新しい年を迎えてすでに一カ月近い月日が経ちました。本日はこの礼拝の後に定期会員総会が開催されます。そのためこの礼拝では今年の教会の年間聖句と年間テーマを取り上げて皆さんにお話をしたいと思います。この会員総会の目的は改革派教会の規則によれば、まず前年度の活動や事務に関す報告を行い、次に昨年度の決算を承認し、今年度の予算を決めること、さらにもう一つは教会の運営を委ねる教会役員を選出することの三つが上がられています。ですからすでに皆さんにお配りした教会年報には総会で取り扱うべき内容が報告されています。

 コロナウイルスの問題が発生し、最初の緊急事態宣言が出されたのが2020年の春でした。教会もこの間、活動について感染拡大を防止するために様々な制約が必要となりました。幸いにして昨年から国家や行政が求めるコロナの制限も軽減されたために少しずつですが教会の活動も元に戻りつつあります。しかし、それでも教会の教勢、つまり教会員の数や礼拝や集会への出席者の数はなかなか簡単には回復されないというの現在の実情であると言えます。

 よく祈祷会などで他の方のお祈りを聞いていると私たちの教会を「小さな群れ」という表現で語られる人がいます。何に比べて「小さい」と考えるのかは難しい問題ですが、確かに他の教会に比べて、またこの世の様々な集団にくらべて私たちの教会の群れを「小さい」と表現することは決して間違いではないと言えます。

 世界のあらゆるところにキリスト教会が立てられ、たくさんの人がキリスト教の信者として生きている現代の社会から見れば、もしかしたら私たちの教会が「小さい」のは何か異常であると考える人もいるかも知れません。しかし、私たちが読んでいる聖書の世界で考えると「小さい」という表現は決して不自然なものではないと言うことが分かります。その証拠に主イエスを信じて従った弟子たちの群れは決して大きな集団ではなく「小さな」群れでしかありませんでした。だから主イエスはその弟子たちに対して「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12章22節)とまで語り、彼らを励ます必要があったのです。

 さらに弟子たちの上に主イエスから約束された聖霊が降り、教会が誕生した後も、キリスト教会は社会の中で極めて小さな群れでしかありませんでした。特に真の神を知らない異教の世界に出て行って、福音を宣べ伝えたパウロたちは自分たちが圧倒的な少数者であることを行く先々で感じ、またそのために様々な苦しみを経験しました。だからこそ主イエスはパウロたちに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18章9~10節)と言う励ましの言葉を彼らに語ってくださったのです。大切なのは私たちの群れが「小さい」ことに注目することではありません。なぜなら、主イエスは私たちにこう約束してくださっているからです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20節)。私たちは私たちの小さな群れの中に生ける主イエスご自身が共にいてくださることに信仰の目を向けることが必要です。この小さな群れの中に主イエスが共にいてくださることを私たちが日常の信仰生活を通して知ることができれば、それは私たちにとってどんなに大きな喜びとなるでしょうか。ですから私たちの教会の年間テーマは「キリストが共におられる交わりに生きる」としました。このテーマに従って私たちの教会の歩みが私たちと共におられる主イエスに向けられ、その方の存在を生き生きと感じることができるような活動となれるようにと考えたからです。


2.祈りの交わりの中に

 ところで主イエスはなぜ私たちの教会の年間聖句に示された言葉を弟子たちに語られたのでしょうか。この福音書の内容を読むとなぜ、主イエスがこのときにこのような言葉を弟子たちに語り、また励ます必要があったのかを私たちは理解することができます。

 まず「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われているのはイエスに従う弟子たちの群れ、そして教会に語られていることが分かります。しかも、この群れは熱心に神に祈るために集められた集団であることがこの直前の主イエスの言葉で分かるのです。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18~19節)

 教会には天国の鍵が主イエスからゆだねられています。そしてその鍵とは主イエスから教会に委ねられた福音宣教の御業と考えることができます。なぜなら人はこの福音を知ることができなければ、神を信じることも、神の国に入ることもできないからです。ですから教会にはこの福音を伝えると言う重大な使命が与えられているのです。しかし、その上で福音を伝えられた人々が実際に神を信じるようになるのは人間の業ではなく、神の御業であると言うことができます。だからこそ、教会は自分たちのまいた福音の種が実を結ぶことができるように神に祈る必要があると言えます。そしてここに記されている二人、または三人の集まりはこのために熱心に祈る集まりであえると福音書は教えているのです。そして主イエスはこのように熱心に祈る人々の中にご自分も共にいてくださると約束してくださったのです。


3.必死に神に祈り続ける「小さな群れ」

①聖徒の交わりはどこに

 ところでこのマタイによる福音書の18章を読むと二人、三人の群れが熱心に祈らざるを得ない理由がさらに詳しく分かって来ます。この18章ではまず、最初にイエスは弟子たちに「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節)と語られています。この箇所は弟子たちが「天国で一番偉いのは誰か」と言う質問をイエスにしたことから始まっています。この質問を言い換えれば「神様から一番役に立つと評価していただけるのは誰か」と言う弟子たちが持っていた関心を表しているのが分かります。つまり、この時の弟子たちは「誰が主イエスの役に立つ優れた弟子か」で競い合って、「新たに自分たちの仲間にされる人々も役に立つような人間でなければならない」と考えていたと言えるのです。だから主イエスは彼らに「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と語れ、彼らの考え方が誤っていることを指摘されたと言えるのです。なぜなら聖書の中に登場する「子ども」と言う存在はまだ人間として認められない、未成熟で人の役に立たず、むしろ迷惑をかけるような者を意味するものだったからです。そしてこの未成熟の子供には何よりも誰かの助けが必要となるのです。

 以前、「聖徒の交わり」と言う使徒信条に記されている言葉に対してある方から「教会のどこに聖徒がいるのでしょう…?」と言った興味深い質問を受けたことがあります。おそらく、その方は「聖徒」と言う文字を読んで「聖人」と言う言葉でも使われるように「聖い人」または完璧な信仰を持った人のことを考えたのではないでしょうか。そう考えると教会に集まるのは皆、実際に欠点ばかりを持った人だと言うことになってしまいますから、「聖徒はどこにるのか」と言うことになります。しかし、使徒信条が言う「聖徒」は完璧な信仰を持つ人、あるいはもはや誰の助けも必要のない完全な人を意味する言葉ではありません。それは今、私たちが知った主イエスの言葉からもわかると思います。なぜなら「聖徒」とは、主イエスが弟子たちに答えられた言葉からもわかるように「子どもような者たち」であるとも言えるのです。私たちは皆誰かの助けを必要としている人間です。そして「聖徒」とは実際に主イエス・キリストの助けを必要としている人々だと言うことができるのです。またさらに言えば、そのような人々と主イエスが共にいてくださる交わりことを使徒信条は「聖徒の交わり」と表現しているのです。


②人に躓きを与える罪

 さてこの18章で主イエスはさらに続けて人を躓かせる罪の深 刻さを教えています。

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められ る方がましである」(6節)。

 「私はあの人のために躓いた」。そんな言葉で教会の特定の兄弟姉妹の行為や言葉を非難する声を聞くことがあります。今まで語りましたように教会は主イエスの助けを必要とする不完全な人間の集まりです。だから、その教会の中では様々な問題が生じることは避けられないことだと言えます。ただ聖書が「人を躓かせる」と言う意味は正しく理解する必要があります。「躓かせる」とはその人と神との関係を邪魔したり、破壊するような行為を表しているからです。だから、かえって相手に言葉巧みに取り入り、また気に入られるような行為をしたとしても、その相手が結果的に人を頼りにすることとなり、神を忘れてしまうのならば、それもまた「人を躓かせる」という深刻な罪を犯したことになると言えるのです。つまり、相手を「躓かせない」と言うことはその相手の気に入るような言葉を語り、また行動をすることでは決してないと言うができます。主イエスはここで私たちがそのような罪を犯すことを避けるようにという勧めと共に「つまずきは避けられない」(7節)と言う現実を認めています。だからこそ、迷い出でた一匹の羊を捜しに残りの九九匹の羊を置いて出かけていった羊飼いのたとえが主イエスによって続けて語られているのです。人の価値観では自分たちの集団の利益に反すると考えられる人、あるいは役に立たないと言う人は排除されて当たり前です。私たちはこのような現実を社会の中で普段、十分に経験して実感しています。しかし、神の見方はこの世の価値基準とは違うと主イエスは教えてくださるのです。神は私たちがご自分にとって役に立つ存在であるから愛されるのではありません。だから主イエスは「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)と語り、「小さな者」を大切にされる神の御心を強調されたのです。そして主イエスは私たちの教会がこの「小さな者」たちの集まりであるとともに、「小さな者」を神のもとに導く使命を持っていることを教えられたのです。


➂神に祈る小さな群れ

 さていよいよここで主イエスが語られた「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言う言葉が登場します。これまで語って来たように教会は主イエスの助けを必要とする不完全な人間の集まりです。そしてその教会はこの世の価値観とは違い、「小さな者」を追い求め、また大切にする神の御心に従っていく者たち集う場所でもあると言えます。そして主イエスも言うように「つまずきは避けられない」と言う現実がこの教会には存在しています。そこでさらに取り上げられるのが躓きの罪を犯した兄弟姉妹をどのように取り扱うのかと言う問題です。主イエスはまず罪を犯した兄弟姉妹に対して二人っきりになり個人的に忠告すること勧めています。そしてそれがだめならば二人または三人の証人を立てることが求められると言うのです。それはその兄弟の犯した罪が個人的な思いからではなく、客観的にも証拠づけられ重大な罪であることを明らかにするためです。そしてそれでもだめなら教会に申し出て、教会裁判を行いなさいと教えるのです。その結果、最後まで罪を悔い改めないなら「その人を異邦人や徴税人と同様に見なせ」(17節)、つまり教会の交わりから除くようにというアドバイスが記されています。

 実はここで取り上げられている内容は罪を犯した相手を裁くと言うよりは、むしろどうしたら「その兄弟を得ることができるか」つまり、神から離れないようにさせるためのアドバイスであることが分かります。この世の刑法では犯罪者を罰することが重要となり、日本では「死刑」という最高刑が存在しています。しかし、教会の決まりにはそのような罰則はありません。なぜなら、すべてのことはその人が罪を悔い改めて神との関係を回復させることに目的が置かれているからです。だからたとえその人が最終的に教会の群れから離れるようになったとしても、その人の命のある限り、神との関係を回復し、教会に戻る道はいつまでも残されているのです。

 ここで興味深いのは罪を犯した者が罪を認めるために立てられる商人の数が「二人、三人」と言うわれているところです。そしてここから考えるなら「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言う言葉の意味は、神の子どもたちが一人でも失われることがないようにと祈り続ける人の中に主イエスが共にいてくださると言う意味であるとことが分かるのです。教会はこの世に対して圧倒的に「小さな群れ」であると言えるかも知れません。しかし、そこに集まる私たちは「小さな者」、主イエスの助けなしでは生きていくことのできない者たちであると共に、さらに「子どものような」者たちを神のもとに導くために祈り続け、また、その人々が一人として神の前から失われることがないようも祈る続ける群れであると言えるのです。そしてその群れの中に主イエスはいつも共にいてくださると約束してくださっているのです。


4.教会生活の場に共におられるキリスト

 最後に私たちは私たちと共におられる主イエス・キリストの存在をどのようにして教会生活の中で確認していくことができるのかについて考えて見ましょう。なぜなら、主イエスは私たちにご自身の存在を示すために教会用語で「恵みの手段」と呼ばれるものを与えてくださっているからです。

 まず、第一の恵みの手段は礼拝で語られる神の言葉です。私たちの教会には神を祭るように祭壇は存在していません。代わりに教会堂の中心には聖書の言葉が語られる講壇がいつも置かれているのです。なぜなら、主イエスはこの礼拝で語られる神の言葉を通して、御自身が私たちと共に生きてくださっていることを教えてくださるからです。主イエスは神の言葉に耳を傾ける私たちに実際に天から聖霊を送ってくださって、そのことを私たち一人一人に確信させてくださるのです。学校の学びにはいつか卒業と言う時期がやって来ます。しかし、私たちの礼拝生活には卒業はありません。なぜなら、礼拝で語られる聖書の言葉を学ぶことは普通の学びとは違い、私たちが実際に主イエスと出会うために行われるものだからです。

 さらに、私たちが生きている主イエスと出会うための第二の手段は、教会の礼拝で行われる洗礼と聖餐式と言う礼典です。これは主イエスご自身が私たちに守り続けるように定めてくださったものです。主イエスが私たちと共におられると言う事実は目には見えません。しかし、人間は何かを確かめるときに目で見たり、手で触ると言った様々な自分に備わった感覚を用います。主イエスはそのような人間の性質をよく知っておられます。だから、御自身の存在を私たちが持っている実際の感覚で確かめることができるようにしてくだったのがこの礼典の意味だと言えるのです。

 小さな子供は人ごみの中で迷子にならないようにと両親の手を握り続けます。主イエスの定めてくださった礼典にあずかることはこの子供の行為と似ています。特に私たちが毎月、礼拝であずかっている聖餐式はこの地上の信仰生活の中で私たちが迷子になることがないように、そして実際に主イエスの導きを得られるようにと行われるものなのです。そして主イエスは私たちのこの願いに答えて、天から聖霊を送り、しっかりと私たちの手を握り返してくださる方なのです。

 そしてさらに私たちが信仰生活の中で主イエスの存在を確かめることができる三つ目の手段は「祈り」であると言うことができます。先日、婦人会の主催するヘンリー・ナーウェンの本の読書会に参加して、私たちが神に祈るということは、私たちが今ここで神に心を向け、神からの語り掛けに耳を傾けることだと言うようなことを学びました。私たちは祈りとは一方的に神に対して自分の願いを語ることだと勘違いしがちですが、ナーウェンの言葉はその過ちに私たちが気づくことができるようさせるものです。

 なぜなら、私たちの祈りは聖書を通して私たちに語られる神の語り掛けに答えることから始まるからです。自分の人生観を持ち、自分の生き方に自信のある人は神に祈る必要はありません。しかし、聖書の言葉はまず私たちの持つその人生感に疑問符を投げかけます。「誰が神に一番役に立っているのか」と質問した弟子たちに、「あなた方は皆、神の助けをもとめなくてはならない子どものようなものたちなのだ」と主イエスが語ったようにです。私たちはこの神の語り掛けによって、どうしても神に祈る必要がある者として導かれるのです。そして神は私たちのささげた祈りに答えを与えてくださる方でもあります。その神の答えは私たちの期待したものではないことも多いはずです。しかし、神は私たちのことを私たち以上に良く知ってくださっているので私たちの祈りに対する最善の答えを与えてくださるのです。そして神はこの「祈り」を通して御自身が私たちと共にいてくださることを私たちに確信させてくださるのです。

 このように教会の年間聖句や年間テーマは何か私たちに真新しいことをするようにと求めているものではありません。むしろ、私たちがこれまでしてきた教会生活がどんなに大切であるかを捉え直して、そこから神の恵みを受けて、新たな力を持って教会生活を再スタートさせるものとして選ばれているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスはそのお名前によって二人、三人の人が集まると ころにどんな約束を語ってくださいましたか。

2.この主イエスが語る二人、三人の集まりは福音書を読むと どのような人の集まりであることが分かりますか。

3.私たちの教会生活には私たちと共にいてくださる主イエス の存在を確かめにために、どのような恵みの手段が与えられて いますか。

4.私たちと共にいてくださる主イエスの存在を確信し、喜び を持って信仰生活を送るために、あなたはこの新しい年の教会 生活でどのようなことを心がけてみたいと思いますか。

2024.1.28「キリストが共におられる交わりに生きる」