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  4. 1月7日「星に導かれて」

2024.1.7「星に導かれて」 YouTube

マタイによる福音書2章1~12節(新P.2)

1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


1.博士、それとも魔術師

①三人の博士たち

 今日は公現日の礼拝をささげます。神の栄光がクリスマスの日にこの地上に誕生されたイエス・キリストを通して全世界に示されたことを記念するのがこの公現日の目的です。そこで教会暦ではこの公現日に毎年同じように、占星術の学者たちが星に導かれて幼子イエスがいたベツレヘムの町にやって来たことを伝える箇所が選ばれています。皆さんもこの時期に毎年のようにこの占星術の学者たちのお話を聞いていますから、もうすっかり内容を覚えておられると思います。新しい年を迎えた私たちは、この占星術の学者たちが星に導かれてイエス・キリストの元に向かったように、私たちもイエス・キリストへと導かれる人生の歩みを今年も続けて行きたいと願うのです。

 今申しましたように、今日の物語の登場人物は聖書ではマタ イによる福音書の2章にしか登場しないのですが、全世界でクリスマスを祝う人々によく知られて来た人物であると言うことができます。ところが、実際にマタイの文章を読んで見ると、彼らについての詳しい情報はほとんど語られていないことが分かります。つまり彼らはある意味では謎に満ちた人物たちであると言うこともできるのです。

 きっとここにおられる皆さんもこの物語の登場人物を「三人 の博士たち」と言う呼び名で覚えておられる人も多いかもしれません。ところ福音書にはこの人たちの人数が「三人」だったと記録されている箇所はどこにもありません。これはこの訪問者たちが幼子イエスに「黄金、乳香、没薬」と言う三つの贈り物をささげたことから、それをささげた人たちを三人と後の人々が考えるようになったからだと言われています。

 興味深いのは彼らを「博士」と呼ぶ表現です。私たちが今読んでいる新共同訳では「占星術の学者たち」と少し違ったニュアンスの日本語の表現が使われています。これは新共同訳が出版される前に長い間、愛用されていた聖書協会の「口語訳」聖書が「東から来た博士たち」と呼んでいたことが原因であると思えます。面白いのは最近聖書協会が新しく出版した聖書協会共同訳聖書では彼らを「東方の博士たち」と訳して、むしろ「口語訳」の懐かしい呼び方に戻されていることです。


②占星術の学者たち

 実はギリシャ語の聖書では彼らは「マギ」と言う名称で紹介されています。この「マギ」は英語の「マジック」と言う言葉の語源となったとも言われている単語で、正確には「占星術師」を示す言葉になっています。そう考えると彼らは「博士」と言う呼び方とは程遠い「占星術」を使った魔術を生業とする何やら胡散臭い人物とも考えることができるのです。

 この占星術の学者たちはパレスチナの東にあるメディア・ペルシャ、現代のイランの地方からやって来た人々だと考えられます。この地での「マギ」たちの立場は非常に高く、国を治める重要な役割を担った人々であったとも考えることができます。日本でもよくドラマなどで取り上げられる安倍晴明は平安期に存在した実際の人物ですが、彼もまた「占星術師」と似た「陰陽師」として朝廷内部で重要な役割を担ったと考えられています。そのような意味で彼らを「博士」と言うある意味で尊敬を込めた言葉で呼ぶことも決して間違いではないのかも知れません。

 ところがこのように尊敬される彼らの職業も聖書の世界では その立場が逆転します。なぜなら、聖書では魔術や占いをすることが厳しく禁じられているからです(レビ19章26節、申命18章10~11節)。彼らの存在は異邦の国では重んじられましたが、聖書の神を信じるイスラエルでは死刑(レビ20章27節)に処せられるほど忌み嫌われる存在だったのです。なぜなら、聖書では魔術や占いが悪魔の働きによるものだと考えられているからです。聖書に登場する悪魔は神と人間との間を引き裂く存在と考えられています。そのような意味で魔術や占いは神を信頼して生きる私たちの信仰とは違い、私たちを神への疑いに導こうとするものだとも考えることができます。


2.星に導かれて

 このように「占星術」は聖書では禁じられているものなのですが、このクリスマス物語ではその「占星術」が大切な役割を果たしています。なぜなら、彼らが夜空に輝く特別な星を発見することができたのは、彼らが常日頃から夜空の星々を「占星術」の対象として注意深く観察していたからです。そして彼らはその特別な星を「ユダヤ人の王」の誕生を知らせるしるしと受け止めました。そしてここからこの占星術の学者たちの人生は大きく変わって行くのです。なぜなら、彼らはその星に導かれるようにはるか遠いパレスチナの地までの旅に出発することになったからです。

 現在であれば、海外旅行は当たり前のことですが、この当時の旅はそのようなものではありません。旅はときには命がけとなる可能性があります。それに彼らは占星術の学者としてメディア・ペルシャではかなりの地位を得ていたと考えられています。その彼らがその地位を捨て、また家族をそのまま置いてパレスチナへの危険な旅に出発したのです。これはある意味では「正気の沙汰とは思えない」行動だと言えるのです。そう考えると彼らは星に導かれたと言うよりは、むしろ星に捕らえられたと言っていいのかも知れません。

 新約聖書では主イエスに出会った人々が自分の職業を捨て、また家族をそのまま置いて主イエスの弟子になったと言う出来事が紹介されています。主イエスに出会った人々は、「この人の後についていきたい。この人といつも一緒にいたい」と言う強い衝動に駆られたと考えることができます。この学者たちの場合にはそれが夜空に輝く星の存在だったと言えます。旧約聖書の民数記24章17節には星にまつわるこんな言葉が預言されています。

「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いで いる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み 出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめ かみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」

 ここでは夜空に輝く星がやがて来られる救い主を表すものと して預言されています。そう考えるとこの占星術の学者は夜空くに輝く特別な星を発見したときから、すでに救い主に捕らえられていたと考えることもできるのです。


3.クリスマスを見逃してしまった人々

①新しい王

 さて彼らはやがて夜空に輝く「救い主」を表す星を頼りにパレスチナの地、ユダヤのエルサレムの都にやって来ます。彼らはそこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と人々に尋ね歩きます。この部分も少し考えると、かなり変です。なぜなら、当時のユダヤには「ヘロデ王」という王がすでに存在していたからです。彼は当時地中海一帯の国々を支配していたローマ帝国の皇帝を後ろ盾にして、ユダヤの国の王という地位を手に入れていた人物です。なぜ、彼らはすでにユダヤにヘロデ王がいたのに、あえて「新しい王」を捜したのでしょうか。

 また、彼らはヘロデ王の背後に巨大な権力を握っているローマの皇帝と言うもう一人の「王」がいることも知っていたはずです。それなのになぜ彼らはヘロデやローマ皇帝を差し置いて「新しい王」を探し出そうとしたのでしょうか。福音書はこの謎を占星術の学者に代わって最後まで追い求めています。そしてその答えを十字架にかけられた主イエスに見出したのです。なぜなら、この王は私たちに代わって十字架に掛けられ、そこで命をささげることで、世界のすべての人々をその罪から救うためにやってこられた王だからです。そのような意味で占星術の学者たちはこの世の王とは全く違う方をここで捜していたと考えることができるのです。


②不安に支配されて福音を聞き逃す人々

 残念なことに占星術の学者が「新し王」、つまり救い主を捜しにエルサレムにやって来た時、その救い主の存在を昔から聖書の預言を通して知らされていた人々は関心を示すことがありませんでした。むしろ聖書は「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と報告しています。

 ヘロデは自分の手にした「王」としての地位を守るために、エルサレム神殿を立て直して人々の好意を集めようとしました。また自分の邪魔になると考えられる人々の命を容赦なく奪いました。この王の残忍な性格はこの後、ベツレヘム周辺で生まれた二歳以下の男の子をすべて虐殺すると言う事件によく表されています(2章16~18節)。このような残忍なヘロデの性格をよく知るエルサレムの人々は「新しい王の誕生の知らせ」を祝福ではなく自分たちに災いをもたらす報せとしか聞くことができなかったのです。

 また、ここで祭司長や律法学者たちがヘロデの命令で「新しい王」がベツレヘムで生まれるということを旧約聖書の預言を用いて報告している場面が紹介されています。彼らはヘロデに尋ねられてすぐにこの答を語っていますから、以前からこの内容についてよく知っていて、関心を持っていたことが分かります。しかし、彼らのこの知識は「新しい王」に会いに行くと言う行動を伴うことがありませんでした。それはおそらく、彼らがこの聖書の言葉を自分の人生に深く関わる福音の知らせとして読んでいなかったからだと思われます。現在でも聖書は多くの人の手に渡り、たくさんの人がその内容を目にしています。しかし、聖書を読む際に大切なことは、この聖書の内容がこれからの自分の人生に深く関わる福音を知らせていると信じることです。そのような意味で私たちも聖書の言葉を自分の人生に関わる大切な福音を知らせるものと信じて読んでいくとき、私たちもまたこの聖書の物語に登場する占星術の学者たちと同じように、救い主イエスと出会い、その喜びに満たされると言う体験をすることができるのだと思うのです。


4.幼子を礼拝する

①拝む

 さてこの物語でさらに注意すべき内容は占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を、…拝みに来た」(2節)と言っていること、また、彼らが母マリアと共にいる幼子を見つけた時、「ひれ伏して幼子を拝んだ」(11節)と言われていることです。なぜなら、聖書はこの「拝む」と言う言葉をそんなに簡単には用いることがないからです。ですから彼らがこのとき幼子イエスを「拝んだ」と言うことはこの方を神ご自身、またその神が遣わしてくださった特別な存在と信じていたことを表しています。旧約聖書のイザヤ書60章6節には「らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」と言う言葉が記されています。マタイはこの言葉を背景にして、ここに記した出来事が旧約聖書の預言の通りに、神の栄光が神を知らない異邦人たちの上にも表されたことを伝えていると考えたのでしょう。そしてこの出来事が「公現日」として長い教会の歴史の中で大切にされて来たのです。


②没薬

 さて私たちは最後に占星術の学者たちが幼子にささげた「黄金、乳香、没薬」について、特にその中で「没薬」が意味することについて考えたいと思います。なぜなら、この没薬はある意味で生まれたばかりの幼子にささげるにはあまりふさわしくないものと考えられるからです。この没薬は主イエスが死んだ後、墓に葬られる際にニコデモが埋葬の道具として持っていたものです(ヨハネ19章30節)。そのような意味でこの没薬の存在は生まれて来た幼子が十字架で命をささげるために私たちの住む地上に来られたことを示すものと考えることができるのです。

 ただ、この没薬の役割は他にも考えることができます。それは彼らが占星術の学者たちであったことと関係します。彼らにとって没薬は他の乳香や没薬と共に占星術の魔術を行う大切な道具として用いられていたのです。特に没薬は特定の人物を呪うためにその名前を紙に記す際に用いられた特別な道具であったと考えられています。そう考えると彼らはこのとき、自分たちの大切な占星術の道具を幼子にささげたと考えることできます。ですからこれは彼が新しい人生を始めることを示すものだったとも考えることができるのです。占星術の学者たちが「黄金、乳香、没薬」をささげてしまえば、彼らはもはや占星術を行うことができません。彼らはそのような一大決心をしてこの宝物を幼子にささげたのです。なぜなら、このとき彼らが出会った幼子を通して、彼らは人類に示された神の素晴らしい計画を知ったからです。そしてその神に信頼するなら、もはや占いも魔術を自分たちには必要ないと確信することができたからです。

 この新年、私たちの住む日本では大きな自然災害や事故が起こり、私たちを不安にさせています。そのような意味ではこの聖書の物語に登場するエルサレムの人々のように、私たちの住む日本でも様々な人が不安に支配されているのかも知れません。もちろん、私たちはこの現実から目をそらすことはできません。ただ、私たちはこのような現実があるからこそ、神に信頼してこの新しい年も信仰の歩みを続けて行きたいと思うのです。私たちの人生にたとえどのような出来事が起こったとしても、私たちを不安や恐れから自由にしてくださる神が、私たちの歩みを導いてくださることを信じて行きたいと思うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスが生まれたとき、エルサレムの町にやって来た人たちはどのような人たちでしたか。彼らは何をしにここまでやって来たのですか(1~2節)。

2.この人々の言葉を聞いてなぜヘロデ王やエルサレムの人々はなぜ不安になったのでしょうか(3節)。

3.ヘロデ王の「メシアはどこに生まれるか」と言う問いに答えた人たちはどのような人々でしたか。彼らはその答をどこで見つけたのですか(4~6節、ミカ5章1節)。また、どうしてヘロデ王はこの質問の内容に関心を持ったのでしょうか(7~8節)。

4.「東方で見た星」は占星術の学者たちをどこに導きましたか。そこで彼らは誰と会い、何をしましたか(9~11節)。

2024.1.7「星に導かれて」