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  4. 10月13日「永遠の命」

2024.10.13「永遠の命」 YouTube ※準備中

聖書箇所:ヨハネによる福音書17章1~7節(新P.202)

1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。

3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。

7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。


ハイデルベルク信仰問答書

問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。


1.永遠の命

①何をすれば永遠の命を得られるか

 ある時、イエスのところに一人の人がやって来て次のような質問をしました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10章17節)。彼は常日頃から信仰にたいへん熱心な人物であったことは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』と言う神の掟を子供の時からすべて「守ってきました」(20節)と断言しているところから分かります。しかし、彼はそのように熱心に信仰生活を送って来たのですが、自分が「永遠の命」を受け継ぐことができいるという確信を持つことができませんでした。だから彼はイエスのところにわざわざやって来て、この質問に対する答えを求めたのです。

 ところがこのお話ではこの人物は結局、悲しみながらイエスのところから立ち去ると言う結末で終わっています(22節)。それは「子供のときから自分は神の律法を守って来た」と語るこの人にイエスが「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と命じられたからです。彼はこのイエスの言葉に従うことができませんでした。そして福音書は彼がイエスのところから立ち去らざるを得なかった理由について「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と説明しています。

 私たちはこのイエスの言葉の中で「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言う部分に注目しがちかも知れません。しかし、このイエスの言葉で大切になってくるのは最後の「私に従いなさい」と言う言葉であると言えます。なぜなら、聖書が教える「永遠の命」はこのイエス・キリストを通してだけ私たちに与えられるものであると言えるからです。このときイエスがこの人に「持っているものを売り払え」と言った理由はこの人が「永遠の命」をまるで自分の財産と同じように自分の力で手に入れることができると思い違いしていたことを気づかせようとしたのです。


②救いの目標点

 「永遠の命とは何か」と言う問いに今日の聖書のテキストであるヨハネによる福音書は「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言うイエスの言葉を引用して答えています。ここで語られている「知ること」と言う言葉は、「信じて生きる」と言う言葉に置き換えることができるかも知れません。なぜなら、聖書が語る「永遠の命」はイエス・キリストが御自分の命と引き換えに私たちのために勝ち取ってくださった恵みの賜物だからです。だから、私たちはこの「永遠の命」をイエス・キリストを信じる信仰を通して受けることができるのです。

 私たちはキリスト教の教理を宗教改革の遺産の一つであるハイデルベルク信仰問答を通して今、学び続けています。この信仰問答は第二部の「人間の救いについて」と言う部分をこれもキリスト教会で古くから伝わっている「使徒信条」の文書を使って解説しています。この使徒信条の文章は教会の週報に毎週掲載されています。それをご覧になられると分かるように使徒信条の最後は「永遠のいのちを信じます」と言う言葉で結ばれています。つまり、この使徒信条の文章の順番から考えると「永遠の命」は私たちの救いの最終的目標とされていることが分かります。どんなに困難な旅路をたどったとしても、旅の目的地にたどり着くことができたなら、そのすべての苦労は報われると言えます。ですからどんなに熱心に信仰生活に励み、また聖書を勉強してもこの目的に地にたどり着かなければ意味がありません。イエスのところを訪れた人が抱えていた問題はそこにありました。しかし、この人は残念ながらその目的地を前にして、元来た道を戻っていくことしかできなかったのです。


2.今感じてる永遠の命の喜び

①私たちの人生を導くのはイエス・キリスト

 興味深いことはハイデルベルク信仰問答が今日の問58で、「私たちがどうしたら永遠の命を得ることができるか」と言う疑問を取り上げるのではなく、私たちにはすでにこの永遠の命を持っていると言う前提から説明をしているところです。それはこの信仰問答の問1の「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と言う答えに「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」と語ったところから始まっている特徴であると言えます。つまり、この信仰問答を読む人はすでに自分が救い主イエス・キリストのものになったことを前提とされているのです。

 ある説教者は私たちがイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じて生きる信仰生活を車の運転に例えて説明しています。つまり私たちがイエスを信じて生きるということは、今まで必死に自分でハンドルを握り運転して来た車の運転席から離れて、その運転席をイエス・キリストに譲り、自分はその車の助手席に座ることだと言うのです。つまり、救い主イエスのものとされた私たちの人生を導いてくださっているのは、このイエス・キリストであると言えます。この方は決して何か途中で道に迷ったり、誤った目的地に向っていくことは決してありません。私たちは必ずこのイエスによって私たちの人生の目的地である「永遠の命」と言うゴールにたどり着くことできると言うのです。


②救われた者の喜び

 さて、信仰問答は私たちに与えられている永遠の命の祝福について、私たちは今、限りある地上の命を生きていながらも「永遠の喜びの始まりを心に感じている」と教えています。つまり、信仰問答がここで永遠の命についてくどくどと説明を語らないのは、私たちがその永遠の命の喜びを確かに感じているからだと言うのです。

 先ほどお話したイエスの前を悲しみながら立ち去って行った一人の人とは対照的な人物が聖書には登場しています。その人の名前はザアカイです(ルカ19章1~10節)。福音書によれば彼は「徴税人の頭で、金持ちであった」と説明されています。ところが彼はイエスに対して「財産の半分を貧しい人々に施します」と語りました。彼がそう言ったのは永遠の命を自分のものにしたいから、そうしたのではありません。また、誰からか強いられてしぶしぶそのようにしたと言うのでもありません。ザアカイはむしろ喜んで、自分の意志でそうしようとしたのです。それはどうしてでしょうか。それはザアカイがイエス・キリストを知ったからです。彼はイエスを自分の家に招きました。それは同時にイエス・キリストを自分の救い主としてザアカイが迎え入れたと言うことを表しています。今まで、たくさんの財産を持っていてもザアカイの心は決してそれで満たされることはありませんでした。そのザアカイの心をイエスは救いの喜びで満たしてくださったのです。

 ハイデルベルク信仰問答は「永遠の喜びの始まりを心に感じている」と語ります。私たちもイエスを信じるとき、その心に喜びを味わうことができるのです。イエスに救われた喜びが私たちの心を満たすからです。そして信仰問答はそれこそが「永遠の命」にすでに私たちが与ってる証拠なのだと教えているのです。

 私たちのささげる礼拝はイエスの救いにあずかることができた私たちの喜びを表す礼拝です。私たちもザアカイのようにイエスを知り、イエスに救われるものとなったことを私たちはこの礼拝を通して確かめ、またその喜びを表すことができるからです。


3.人の心に思い浮かびのしない命

①神の約束に基づく確かな祝福

 さて、ハイデルベルク信仰問答はこの地上で限りある命を生きている私たちに対して、私たちはすでに永遠の命の喜びを感じており、永遠の命を知っていると教えます。しかし、その一方で続けて信仰問答は次のようにも語っています。

「この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです」。

 「この生涯の後には」とは、つまり私たちの限りある地上の生涯が終わった後にどのようなことが起こるのかということを信仰問答は説明しています。そして「目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福」と語るのです。先ほどまで、永遠の命の祝福を私たちはこの地上の生涯ですでに感じていると信仰問答は説明しながら、その「完全な祝福」の姿を私たちはまだ全く知らないとここでは教えているのです。

 私たちは誰も「この生涯の後には」何が起こるのか、何が私たちを待っているのかを知りません。なぜなら私たちは誰もまだ「自分の死」という出来事を体験してはいないからです。だからこそ信仰問答は今の私たちにはそれを知ることはできないと教えているのです。

 しかし、その一方で「この生涯の後には」、完全な祝福が私たちを待っているとこの信仰問答が大胆に語ることができるのはどうしてなのでしょうか。この言葉は人間の勝手な思い込みや、想像によって語られているものではありません。この言葉は私たちに対する神の約束に基づく言葉なのです。だからこそ、今の私たちにはその完全な祝福は知り得るものではありませんが、偽ることのない神が語る確かな事実であると信じることができるのです。


②死に勝利して甦られたイエス・キリストによって

 また、この完全な祝福を保証するもう一つの出来事はイエス・キリストご自身の復活です。なぜなら、このイエス・キリストだけが唯一「自分の死」の現実を体験しながらも、その死に打ち勝って甦ってくださった方だからです。ですから、私たちはこのイエスの復活の出来事を通しても、私たちの生涯の終わりに待つ完全な祝福を確信することができるのです。

 この信仰問答はすでに問42でイエス・キリストの十字架上での死と私たちの地上の死と言う出来事を関連付けて次のように説明しています。

「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口なのです」。

 イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪は完全に贖われ、罪の刑罰である死の呪いから私たちは完全に解放されました。だから、私たちの地上の死は神から私たちに下される罰のようなものではありません。むしろ、私たちの地上の死は、神の完全な祝福が待つ永遠の命への入り口になったと信仰問答は教えているのです。

 今、私たちはこの永遠の命と言う完全な祝福に向って地上の生涯を歩んでいます。確かに私たち自身は明日自分の人生に何が起こるのかも知ることができない者たちです。自信を持って自分の人生を導くこともできない者たちかも知れません。しかし、信仰問答はすでにイエス・キリストとの者とされた私たちはそのことで不安になる必要はないと教えます。また心配する必要もないと言っているのです。なぜなら、私たちの人生を導いてくださっている方は私たちの救い主イエス・キリストだからです。この方はご自身で地上の死を体験された方であるにもかかわらず、その死に勝利して、甦ってくださった方です。だから、この方は私たちを永遠の命と言う完全な祝福へと導くことがおできになる唯一のお方であると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず最初にあなたもハイデルベルク信仰問答の問58を読んでみましょう。

2.信仰問答はキリストのものとされた者たちが今(この地上の生涯で)、何を「心に感じている」と説明していますか。

3.信仰問答は「この生涯の後」にキリストを信じる者たちはどのようになると教えていますか。

4.聖書が教える永遠の命への希望は私たちの信仰生活にどのような慰めと励ましを与えるとあなたは思いますか。

2024.10.13「永遠の命」