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  4. 10月20日「仕えられる者か、仕える者か」

2024.10.20「仕えられる者か、仕える者か」 YouTube

聖書箇所:マルコによる福音書10章35~45節(新P.82)

35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。

40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」

41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


1.偉くなりたい、なりたくない?

 今日の聖書のお話は「誰よりも偉くなりたい」と言う願いを抱くヤコブとヨハネの二人の兄弟とイエスとのやり取りから始まっています。日本でも今は死語になってしまったのかも知れませんが「立身出世」と言う四字熟語が存在します。この言葉が重要視され、どちらかと言うと「偉くなること」が人生の目標でもあるかのように考えられていた時代が日本でもかつてはありました。ただこの四字熟語を辞書で良く調べてみると「立身」とは「自己を修養して優れた人になる」と言う意味を持っていて、後半の「出世」はそれが人々に認められることによって実現するものだと考えられています。ですからこの言葉も「何をしてもいいから、とにかく偉くなれ」と権力欲を煽ることを教えているのではないと言えるのです。

 今日の箇所の物語を読んでみると、イエスも「偉くなる」と言うことを否定しているのではないようです。なぜならイエスはここで本当に「偉くなる」と言うことはどういうことなのかを教えようとされているからです。ですからこのイエスの言葉を正しく理解しようとするなら「偉くなる」と言う言葉を「リーダーシップ」、あるいは「指導者」と言う言葉で置き換えて考えた方がよいかもしれません。つまりイエスは本当の意味で人々を導くよいリーダーと言えるのはどのような人のことかを教えようとされている考えることができるのです。

 残念ながら現代の私たちは「リーダーになる」と言うことを決して好まない傾向があるかも知れません。だからむしろ自分が「リーダー」に選ばれることからできるだけ逃れようとするのです。それはおそらく、「余計な重荷を負いたくない」という本音が隠されているからです。また「自分が生きるのに精一杯で他人のために苦労など決して、負いたくない」と思うからかも知れません。そんな私たちにとって今日の聖書箇所に登場する「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43~44節)と言うイエスの言葉はどのような意味を持つのでしょうか。この言葉はヤコブとヨハネのように「人よりも偉くなりたい」と言う願いを持つ人間以外には全く無関係な言葉だと言えるのでしょうか。このことをヤコブとヨハネの兄弟とイエスのやり取り、またそこで語られたイエスの言葉を通して考えて見たいと思います。


2.ヤコブとヨハネの野望

①すれ違う会話

 この物語はイエスの十二人の弟子の中でヤコブとヨハネと言う二人の兄弟が「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)と言う申し出をしたところから始まっています。このマルコによる福音書は10章17節からイエスのエルサレムに向かう旅が始まったことを告げています。やがてこの旅を終えてエルサレムに到着したイエスはユダヤ人の指導者たちによって捕らえられて、十字架につかられるということになります。そしてイエスはこのエルサレムへの旅の途中で弟子たちにご自分の生涯にこれから何が起こるのか、いわゆる「受難予告」を何度も告げています。ところがその話を聞いた弟子たちはイエスの言葉の意味を全く理解できません。いえ、むしろこの時の弟子たちは「イエスが捕らえられて殺されてしまう」などということなど決して理解したくないと思っていたのかも知れません。その結果、イエスと弟子たちとの間に交わされる会話は、不自然にすれ違い続けるようなものとなっています。それは今日のヤコブとヨハネの兄弟とイエスとの間で交わされた言葉でも同じだと言えます。

 この二人の兄弟の申し出にイエスはまず「何をしてほしいのか」と答えています。するとヤコブとヨハネの兄弟は「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と言う願いをイエスに語るのです。

 ここで「栄光をおうけになるとき」と語られているこの言葉の意味は聖書を良く読んでおられる皆さんであればすぐにお分かりになると思います。それは救い主イエスが十字架にかけられるときのことを指す言葉です。なぜなら、主イエスは私たちすべての罪人の罪を贖うために十字架で命をささげられることで、私たちを救ってくださったからです。

 しかし、このときのヤコブとヨハネの考えていた言葉の意味はそれとは違うようです。それはイエスがローマ帝国の支配からユダヤの民族を解放して、御自身の国を作られるときのことを意味していたからです。そしてヤコブとヨハネの兄弟はその時に作られる新しい政府の要職に自分たちを着かせてほしいとイエスに願ったのです。


②少しでも自分が偉くなりたい

 聖書はこの話の後で他の弟子たちがこのヤコブとヨハネの話を聞いて「腹を立て始めた」(41節)と言うことを伝えています。どうやらこの時、ヤコブとヨハネは自分たちの願いを他の弟子たちにわからないようにこっそりとイエスに告げたのだと思われます。もし自分たちの抱く願いが他人に非難される筋合いのない正しいものであったとしたら二人は隠れてこっそりイエスに話すことはなかったはずです。ヤコブとヨハネにそれができなかったのは、自分たちの願いが一方ではイエスの弟子としてはあまりふさわしくないものであることを知っていたからです。だから彼らは隠れてイエスに願い事を語ったのだと言えるのです。しかし、だからこそそこにはこの二人が普段から抱いていた本音が隠されていたと言えるのかも知れません。

 少し以前の礼拝でヨハネについて、イエスの名前を使って悪霊を追い出していた人に出会った事件を取り上げたことがありました。このとき、ヨハネはこの人に「やめるように」と命じたことで後からイエスにその誤りを指摘されるというお話が紹介されていました(マルコ9章38~41節)。ここでヨハネが問題としたのは、その人がイエスの名前を使って悪霊を追い出していたと言うとこと以上に、その人物がヨハネの言葉に従わなかった、つまりヨハネを無視したことにあったようです。だからヨハネは自分がその人によって軽く扱われたことに腹を立てたのです。

 私自身も経験があるのですが、普段強い劣等感を持っている人は、いつも人が自分をどう見ているのかを気にしています。ですからそのような人は他人から無視されたり、拒絶されると強い怒りを感じるのです。また、そのような人は自分の劣等感を隠すために人よりも自分が少しでも優れているということを示したいと普段から躍起になります。ですからもしかしたらヤコブとヨハネの権力への野心の背後には、彼ら自身が持っていた心の問題があったのかも知れません。


3.私の盃が飲めるか

①軽はずみな答え

 ところがイエスの語られる言葉の意味を理解できないヤコブとヨハネの兄弟は自分の権力欲を満たすためには必死です。だからそのためには何でもすると言う意気込みをイエスに答えています。なぜなら、イエスは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と尋ねると二人はすぐに「できます」と答えているからです。

 どうやらこの時の二人は自分たちが偉くなれれば、自分の人生は安泰だと考えていたようです。しかし、彼らは実際のところ自分たちがいったい何を願っているのか、また自分がどうなれば幸せになれるのかさえも分かっていなかったのです。

 そもそもイエスが栄光を受けるとき、つまり十字架にかけられるときにその右と左に座ると言うことは「イエスと共に命をささげる」と言うことを意味していました。ですから、イエスが「わたしの飲む杯」とか「わたしの受ける洗礼」と言っていることも、イエスのように自分の命をささげる覚悟ができているかということを問うている言葉になるのです。このイエスの言葉に簡単に「できます」と答えてしまった二人ですが、実際にはイエスが捕らえられたときに、二人はイエスの前から逃げ去ってしまいます。このことからも二人がイエスの言葉の意味を十分に理解しないまま、このとき答えてしまったことが分かるのです。


②私たちの人生は何のために使われるべきなのか

 興味深いのは次に語られたイエスの言葉です。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(39~40節)。

 使徒言行録の12章1節の記事によれば教会を迫害するヘロデ王の手によりヤコブは剣で殺されたと記されています。ですからイエスのこの言葉はヤコブの殉教の死を予言したものとも考えられています。ただ、ここで大切なのは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」と続けて語られているように、イエスの関心はそこには向けられていないと言うことが分かることです。なぜなら、イエスは自分に対する他人の評価ではなく、むしろ自分を地上に遣わされた父なる神のみ旨にその関心の中心を置いていたからです。

 だからこそ、イエスはヤコブやヨハネだけではなくご自分に従う弟子たちに次のような言葉を語ったのです。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(42~44節)

 もちろん、このイエスの言葉は「どうしたら偉くなれるのか」と言うような「立身出世」の方法を私たちに教えるものではありません。またどうしたら自分のことを他人が認めてくれるかということを教えているのでもありません。むしろ、この言葉は私たちが神からいただいたこの命、一度限りの人生をどのように、また何のために使って生きるのかを私たちに教えているのです。


4.イエスの模範に従うことができる私たち

 この聖書箇所を「イエスの示された模範に私たちが従い、仕えられる者ではなく仕える者となり、またすべての人の僕として生きることが教えられている」と読むことができるかも知れません。確かに、この箇所では私たちの人生の模範として十字架にかけられ、私たちのために命を捨ててくださったイエスの生き方がはっきりと示されています。ただ、そう考えるときに私たちにとって重要となってくるもう一つの問題は、私たちはイエスの示された模範に本当に従うことができるのかということです。なぜならこのイエスが示された模範は私たちの力では実現が不可能に思えるものだからです。それでは、普段から権力欲に支配されていたヤコブはどうして命を捨ててまでイエスに従うことができるようになったのでしょうか。また自分を認めない人を決して、許すことができいで腹を立てていたヨハネが、心から兄弟姉妹を受け入れて、彼らに愛を語る「愛の使徒」となることができたのでしょうか。私たちはその答をイエスの語られた次の言葉から知ることができます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。

 このイエスの言葉は単なる生き方の模範を私たちに示す言葉ではありません。このイエスの言葉は私たちの人生を全く変えてしまう福音を語っているのです。なぜなら、ここにはイエスが罪の奴隷であった私たちを救い出すために、身代金としてご自分の命をささげてくださったことが語られているからです。この福音こそが私たちの人生を全く新しくするものなのです。この福音に生かされている者はもはや人の評価で自分の価値を判断する必要はなくなります。私たちの価値はイエスの命によって高価で貴いものとすでに判断されているからです。また、救い主イエス自らが私たちの僕となって仕えてくださるなら、私たちはそれ以外に誰かに仕えてもらう必要があるでしょうか。その必要はありません。だから、イエスはその命を持って買い取られた私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と勧めてくださったのです。

 イエスがここで教えている生き方はイエスの福音によって新しくされ、そのイエスの弟子とされた私たちに求められる生き方です。なぜなら、イエスの弟子は自分の優秀さを人に示すのではなく、私たちの命をご自分の命を持って買い取ってくださった救い主のすばらしさを人々に示すために生きるからです。そしてイエスは私たちがイエスの弟子として生きることができるように働いてくださるのです。

 権力欲に支配されていたヤコブが何もかも捨てて、厳しい迫害の中でも信仰を貫くことができたのはこのイエスがヤコブと共におられたからです。複雑な人間関係の中で何度もトラブルを起こしてしまうようなヨハネが人を心から愛し、また愛される使徒に変えられたのも彼と共におられるイエスが働いてくださったからです。

確かにイエスはこの箇所で私たちに生き方の模範を示されていると言えます。しかし、私たちはここに示されているイエスの模範が私たちに実現不可能なものと考えて、そこで気を落とすこと必要はありません。なぜなら、私たちがこのイエスの模範に従って新しい人生を送ることができるようになるのは皆、救い主イエスの力によるからです。だから、私たちは気を落とすことなく、イエスにその助けを祈りながら、イエスの示された模範に従って信仰生活を送って行きたいと願うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの弟子であったゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟はイエスに対してどんな願い事を語りましたか(35~37節)。

2.イエスが「栄光をお受けになるとき」と言う言葉の意味をこの時、ヤコブとヨハネはどのように理解していたのでしょうか。

3.イエスは自分たちが何を願っているかをよくわかっていないヤコブとヨハネに対してどんなことを語られました(38節)。

4.このときのイエスの問いに「できます」と即答したヤコブとヨハネは、実際にイエスが十字架にかけられるときにどのようになりましたか。

5.イエスはご自分の弟子たち一同に対してどのような生き方を示されましたか(42~43節)。

6.イエスは人の子(救い主)としてご自身が何をするためにやって来られたと語られていますか(45節)。また、このイエスによって私たち自身の人生はどのように変えられたとあなたは思いますか。

2024.10.20「仕えられる者か、仕える者か」