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2024.10.6「頑なな人の心と神の思い」 YouTube

聖書箇所:マルコによる福音書10章2~16節(新P.80)

2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。

4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。

5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。

7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


1.離婚をめぐる議論

 今日の聖書箇所ではファリサイ派の人々との離婚を巡る議論に続いて子どもを祝福されたイエスのお話が語られています。最近の日本においては「離婚は認められべきか?」と言った議論をすること自体が時代遅れと言われるように、結婚関係に関する人々の考え方は大きく変化しています。結婚してもすぐに離婚してしまうようなカップルの話は今や当たり前のように受け流され、現代では離婚の問題以上に結婚を望まない若者たち、また結婚に積極的な意味を見いだせない人たちも増えていると言われています。ですから今日の聖書のお話を現代人が理解するためには当時の詳しい事情をまず知っておく必要があります。

 今日のお話は「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2節)と言うファリサイ人たちが発した質問から始まっています。ファリサイ派の人々は聖書が教える律法を厳格に守ることを人々に勧めていました。彼らの発言には「夫が妻を離縁すること」とは言われていますが、「妻が夫を離縁する」と言う反対の立場のケースは語られていません。ですからここには当時の男性中心の古代ユダヤ人社会の事情が反映されています。

 また、この質問をイエスにしたファリサイ派の人々の意図は「イエスを試そうとした」と語られています。聖書に登場する洗礼者ヨハネはとても有名な人物の一人です。彼は当時のユダヤの権力者だったヘロデと言う人物の結婚を「律法に反している」と批判したことで投獄され、最後にはそのヘロデによって殺されるという悲劇的最期を遂げています(マルコ6章14~29節)。今日の箇所にはヘロデの名前は一言も出てきていませんが、イエスの返答次第ではファリサイ派の人々はそれを理由にイエスを陥れ、ヨハネと同じようにこの世から抹殺しようと考えていたのかも知れません。

 また、この質問に対してイエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返しています。このモーセは旧約聖書に登場する重要な人物で、神はこのモーセを通して神の掟である律法を人々に与えました。ですからこのイエスの質問は「神がモーセを通して教えてくださった律法にはどのように命じられているか」と言う意味があります。そしてこの質問に対してファリサイ派の人々は「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えるのです。これは旧約聖書の「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)と言う戒めを根拠にした答えであることが分かります。

 ただ、この離縁状に関する解釈は当時のファリサイ派の間でも必ずしも一致せず、激しい論議の的となっていたようです。ファリサイ派の人々は離縁状を出してもよい条件をどのように考えるかという点で二つの大きなグループに分かれていたからです。一方の「この律法を厳格な条件で適応させるべきだ」と考えた人々は「妻に何か恥ずべきことを見だす」という条文を理由にして「妻の側に明らかな不貞行為が存在する場合のみ」と主張しました。しかし、別の考え方を持つ人々は「気に入らなくなったとき」と言う表現を強調します。つまり彼らは不貞行為以外でも様々な理由で妻を離縁することは可能だと考えたのです。たとえば「妻が夫に出す料理を焦がしてしまった」と言った理由で、夫がそれを気に入らなかった場合は離縁が許されるとまで教えたと伝えられています。もしかしたらファリサイ派の人々はイエスがこの内のどの解釈の立場に立つかを試そうとしていたのかも知れません。

 いずれにしても、モーセが教えたとされる旧約聖書の律法は人々に離縁を勧めているものではないことを理解する必要があるでしょう。むしろこの律法は不本意な結婚関係に縛られて苦しんでいる人に助けを与えるためのものと考えられるからです。だからイエスもここで「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と語っています。人間の側が頑固でなければこの律法は必要なかったのです。しかし、人々は返ってこのモーセの律法を悪用して、自分の身勝手な思いを理由にしても離婚は許されていると考えるようになっていたのです。


2.人を男と女に創造された神

①人は独りでいるのは良くない

 おそらくイエスはここで離婚が正しいか、正しくないかということを語ろうとはしているのではありません。むしろ、そもそも神が人間のために定めてくださった結婚にはどのような意味があるかについて聖書から答えを求めようとされているのです。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(6~8節)。

 ここでイエスは神が天地万物を創造された出来事を紹介する創世記の記事を引用されています。聖書はこの部分で神が私たち人間を創造されたことについて教えています。その際、神は最初にアダム=男を創造されるのですが、そのアダムをご覧になって神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と語られています。そこで最初の人間は神が創造されたすべての生き物の中から自分を助ける者を捜し出そうとするのですが、結局人間はそれを見出すことができません。そこで神はもう一人の人エバ=女をアダムの助け手として創造されたと言うのです。創世記はそのところで「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(2章24節)と語っているのです。

 モーセの律法は神を離れて失敗を繰り返す人間に対して、彼らを助けるために与えられたものであると言えます。しかし、聖書はこれよりも遡り、男女が一体となるという結婚は神によって人間が創造された時点から存在していると教えるのです。イエスはこの創世記の記事をもとに「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と教えるのです。神は人を不幸せにするためではなく、幸せにするために人に助け手を与えてくださったことをイエスは教えているのです。


②イエスの言葉を巡る教会の解釈

 残念ながらこのイエスの言葉の解釈を巡っては、この後に生まれたキリスト教会でもさらに大きな議論が巻き起こすことなります。なぜなら、キリスト教会はここに語られている「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言うイエスの言葉を新たな掟、つまり律法と考えて人々に教えるようになったからです。そして教会は「イエスは信徒が離婚することを禁じている」と主張したのです。ですから、カトリック教会では現在に至るまで原則的に信者が離婚をすることは許されてはいません。この点でキリスト教会の歴史で有名なのは16世紀に起こった英国国教会の分離という出来事です。これは当時のイギリスの王の離婚をカトリックのローマ教皇が認めなかったことが原因とされているのです。

 私たちプロテスタント教会が結婚を巡るカトリック教会の教えに同意できないのは、カトリック教会が「結婚」をキリストの救いの恵みを受ける手段とされる「聖礼典」の一つと数え、教えているからです。ご存知のように私たちプロテスタント教会はキリストが定めてくださった「聖礼典」は洗礼式と聖餐式の二つだけと考えています。しかし、カトリック教会はこの「結婚」を含め「七つの秘跡」つまり「聖礼典」があると主張しています。ですから、「離婚」はこの秘跡である「結婚」を否定することになります。そうなるとカトリックの解釈では離婚した人はキリストの救いの恵みにあずかることできませんから、天国に入ることもできないということになってしまうのです。ですから宗教改革者たちはこのカトリック教会の誤った聖書解釈に反対しました。プロテスタント教会が離婚についてカトリック教会と違った見解を持つのはこの点で、「離婚した人が天国に入れない」ということは決してないと考えているからです。

 おそらくキリスト教会でこのような混乱が起こってしまったのはこの聖書の箇所でイエスは神が定められた結婚についての意味を教えようとしているのに、そのイエスの教えを誤解してイエスは「離婚を禁じている」と考えてしまったと言う点にあると言えます。この誤解の結果、後の教会では形ばかりの結婚制度を維持することが重んじられることになり、現実の不本意な結婚生活で苦しむ人々を軽視するという事態も生まれ行ったと言えるのです。


3.子どもを受け入れるイエス

①弟子たちが子供を受け入れなかった理由

 それではイエスは離婚を巡る議論の中でいったい何を私たちに教えようとしておられるのでしょうか。その答えを見出すために参考になるのが、このお話の次に続けて語られているイエスが子供たちを祝福されたという出来事です(13~16節)。

 このお話は「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」と言う出来事から始まっています。ここまでイエスは様々な病に苦しむ人に出会い、その人に触れるという行為を繰り返すことで彼らを癒してくださっていました。このような理由からでしょうか。人々が「イエスに触れていただこう」と子供たちをイエスの元に連れて来たと言うのです。「イエスに触ってもられれば、子供たちに幸せが訪れる」と考えた、そのような親心がこの出来事の背景にはあったと思われます。

 しかし、弟子たちはこの人々を叱りました(13節)。おそらくこのとき弟子たちは「こんなことでイエスを煩わしてはいけない」と考えたのではないでしょうか。しかし、イエスはこの弟子たちを見て「憤る」という激しい表現がここでは使われています。そして「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語られたと言うのです(15節)。

 どうしてイエスは弟子たちに行動を見て「憤る」ことになったのでしょうか。これは今までも触れましたが、弟子たちがそのような行動をとった理由に問題がありました。弟子たちが子供たちをイエスから遠ざけようとしたのは、時間を使って子供の相手をしても何の役にも立たないと彼らが考えたからです。なぜなら、子供たちに何かをしても、逆に子供たちの側がそれを理由に何かをして返してくれるということはないからです。それならむしろ他の大人のために時間をかけて何かをすることの方が大事になります。彼らなら何らかの形で自分たちに利益をもたらしてくれる可能性があるからです。このような意味で、弟子たちは「自分にとってその人は何の役に立つ」という基準で人を考え、行動していたこと分かるのです。


②私たちに助け手を送ってくださる神の御心

 離婚をめぐる論議の中に隠されている理由も同じ傾向がありました。なぜなら離縁を求める人々は配偶者が自分の役に立たなくなったから切り捨ててもよいと考えていたからです。イエスが問題にしようしたところはそこにありました。なぜなら、創世記が教えるように人の存在の背後には神の深い御心が隠されているからです。神は私たちの思いを超えて、私たちにふさわしい助け手を与えてくださると聖書は教えているからです。ですから、私たちはお互いの存在理由をこの神の御心を通して考えるべきだとイエスは教えて下さっているのです。

 人の価値を「自分に役に立つか立たないか」で判断する生き方は、やがては自分の存在理由をも脅かすものとなることになります。なぜなら、私たちは加齢に伴って少しずつ何かができなくなるという悲しい体験をして行くからです。もし、そのとき私たちが「役に立つか、立たないか」の理由で人の価値を考えているならば、私たちにとって年を取ると言うことは、役に立たない存在になっていくと言うことになってしまうのです。

 しかし、イエスは私たちが今神によって生かされている理由はそのようなことから判断すべきではないと教えているのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とイエスはここで教えてくださっています。私たちは皆、神の前では子供たちのような存在であると言えます。皆、不完全で誰かの助けをいつも必要としています。そして神はその私たちを助けるために配偶者を与え、また家族を与え、友人や隣人と言う様々な人間関係を通して助け手を与えてくださっているのです。

 子どものころ小学校の先生に教えてもらったお話を思い出します。ある人が地獄と天国を巡るツアーに参加することになりました。ちょうど時間は食事時、地獄でも天国でも盛大な食事会が開かれています。出されている食事のメニューは地獄も天国も同じ、豪勢で美味しそうなものばかりだと言うのに、その食事を前にして地獄の人々は見るからに皆やせ細って、飢えで苦しんでいます。その原因は彼らが食事の際に使っている箸の長さに問題がありました。その箸は一メートル以上もあって、彼らが一生懸命にその箸を使って食事を自分の口に運ぼうとしてもそれができないのです。この箸の長さは天国でも同じでした。ところが天国の人々は皆、見るからにふっくらとした健康そうな顔をしています。その原因は彼らの箸の使い方に違いがありました。彼らは長い箸を使って、その食事を自分の口にではなく、お互いに向き合った相手の口に運んでいたからです。このお話の出典を今回改めて調べてみると、どうやら古い仏教説話にあったことが分かりました。

 いずれにしても私たちが人を自分にとって「役に立つか、立たないか」で判断するなら、やがてはその判断は自分自身をも苦しめることになるはずです。しかし、私たちの存在理由はそんなところで判断されるのではありません。そうではなく私たちが私たちのために助け手を送ってくださる神の御心にその理由を求めて生きようとするなら、私たちの人生もまたその家庭も、そして様々な人間関係も豊かに神によって必ず祝福されることをイエスはここで私たちに教えてくださっていると言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスを試そうとしたファリサイ派の人々はイエスにどんな質問をしましたか(2節)。

2.イエスの「モーセはあなたたちに何を命じたか」と言う質問に対するファリサイ派の人々の答えから彼らがそのことについてどう考えていたことが分かりますか(3~4節)。

3.イエスはモーセがこのような掟を書いた理由をどう説明していますか(5節)。

4.イエスは旧約聖書のどのような箇所を引用して、結婚が神のみ旨によって造られたものであることを説明されましたか(9節)。

5.子供たちをイエスの元に連れて来た人々をどうして弟子たちは叱ったのでしょうか(13節)。

6.「神の国はこのような者たちのものである」と語ったイエスの言葉から、私たちは人に対する神の見方について何を学ぶことができるでしょうか(14節)。

2024.10.6「頑なな人の心と神の思い」