1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2024
  4. 11月10日「義とされること」

2024.11.10「義とされること」 YouTube

聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節(新P.277)

21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。


ハイデルベルク信仰問答書

問60 どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか。

答 ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです。


1.私は修業が足りません

 すでに何度も皆さんにお話したと思いますが、だいぶ以前にある方に「教会の礼拝にお越しください」とお誘いの言葉をかけたときに「いえいえ、私はまだ修行が足りませんので」と言う返事をいただいたことがあります。もちろん、その方は「わたしにはその気がありません」という自分の気持ちを、わたしを傷つけないようにという配慮で語られた言葉なのかも知れません。しかし、当時の私は牧師としては経験も足りなかったせいでしょうか、この言葉をまともに聞いてしまって「この人はあとどのくらい修行を積めば教会に来てくれるのかな…?」と考えてしまったことを思い出します。

 おそらく、この礼拝に参加されている方の中で「自分はすでに厳しい修行を積んでこの礼拝に出席している」と言われる方はおられないと思います。なぜなら、教会はこの礼拝に出席するために激しい修行を求めるようなことはしていないからです。いえ、礼拝に出席することだけでありません。それは私たちの日ごとの信仰生活を考えて見ても、「わたしは今修行に励んでいる」というようなことを考える人はほとんどおられないはずです。今の私たちはキリスト教信仰と修行を結び付けて考えることはほとんどありません。

 しかし、今から500年以上前にヨーロッパで起こった宗教改革の時代、そしてその時代以前のカトリック教会の教会生活ではそうではありませんでした。当時の信仰生活では人が救われるために様々な修行、「信心業」というものが勧められ、また多くの信仰者たちもそれに励むと言うことが行われていたのです。特にこの「信心業」は信仰のために一般の世界から離れて暮らす修道院の人々の中で一層激しく行われていたと言います。私たちが宗教改革者としてよく知っているマルチン・ルターと言う人物もこの修道院で懸命に修行に励む修道士の一人であったことが知られています。


2.ルターの苦悩

①うつ病患者ルター

 しかし、修道士時代のマルチン・ルターはどんなに厳しい修行を積んでも「自分は確かに救われている」と言う確信を持つことができませんでした。当時、聖書を熱心に読んでいたルターはそこに書かれている戒めを自分がいくら努力しても完全に守ることができないことに悩んでいたのです。その上で彼は激しい修行を積めば積むほど、ますます自分はそれを完全に守れないという無力感に陥って行ったと言われています。今日私たちが取り上げているハイデルベルク信仰問答の問60の本文には次のような文章が鍵カッコで括られて記されています。

「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」

 まさ、このような言葉がマルチン・ルターの脳裏で何度も繰り返し語られ続け、彼を苦しめ続けていたと考えることができるのです。現代の心理学者が見たらきっとこの当時のルターは完全なうつ病患者と診断されていたかも知れません。


②イエス・キリストの義によって

 なぜ、ルターはこのような苦しみに陥ってしまったのでしょうか。それは神の義と言う問題に関連しています。ルターは「人はどんなに努力してもその義を自分では獲得することができない」という現実に遭遇していたのです。「神の義」とは神の御性質の一つであるとも言えます。神は完全に「義しい方」だからです。ですから人間がその神に受け入れられ、神と共に生きるためには、自分自身も「義しい者」にならなければなりません。神は不義を一切受け入れることができないお方だからです。ところがルターはどんなに厳しい修行を積んでも自分が「義しい者」になりえないことを知り、自分に絶望する者となってしまったのです。

 しかし、このような苦悩に支配されたマルチン・ルターをそこから救い出したものも聖書の言葉であり、またそこに示されたイエス・キリストの福音でした。なぜなら、聖書は私たちのためにイエス・キリストが十字架にかかり、神が私たちに求められていた完全な義を代わって満たしてくださったことを教えているからです。そのことについて信仰問答はこう説明しています。

「ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます」。

 つまり、私が自分の力で義を獲得するのではなく、イエス・キリストがそのすべてを私たちのために獲得してくださり、その義を私たち与えてくださるのです。だから私たちは神の前に「義しい者」となることができると言うのです。そしてこれこそが苦悩するマルチン・ルターを救った聖書の教えであったと言うことができます。


3.信じたときに義とされる

①まことの信仰によって

 ところで先ほどの信仰問答の文章の最初に「ただ恵みによって」と言う言葉が記されています。この「恵み」の意味は「無償」とか「何の代価も求められない」と言うもので、ただ神の側からの一歩的な好意によって私たちに与えられたものと言うことを指し示している言葉です。ですから、人間の側にはこの恵みを受け取るために、何も求められていないと言うことになります。

 しかし、そう考えるとき、私たちに疑問として残るのは、この信仰問答が神の御前で私たちが義とされるためには「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰」が必要だと教えていることです。この信仰問答は最後のところでもこのことを繰り返すように「そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」と教えています。私たちがこの恵みを受け取るためには「信仰」が必要であることを教えていることです。

 「まことの信仰」と言われると疑い深い私たちはすぐに「それでは偽りの信仰もあるのか…」と勝手に考えて、自分自身の信仰を疑い、不安になってしまうこともあります。このハイデルベルク信仰問答は問21で「まことの信仰」について「それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります」と既に教えています。

 私たちは聖書の教える福音によってイエス・キリストだけが自分を救い出すことのできる救い主であることを知り、そのイエス・キリストに助けを求めます。これが信仰問答の教える「まことの信仰」です。そして、注意すべきなのは、私たちがそう聖書の言葉を理解し、イエス・キリストを信じることができるのは、聖霊なる神が私たちの心に働いてくださったからだと信仰問答が教えている点です。私たちが聖書を通して、イエス・キリストを自分の救い主と信じることについて聖書はそのことも神が私たちの心になしてくださった奇跡の御業だと教えているのです。そして、聖書は私たちがイエス・キリストを信じたときに、キリストの勝ち取ってくださった完全なる義が私たちにそのまま与えられ、私たちもまた義なる者とされると言うことを教えているのです。


②信仰義認

 この地上で信仰生活を送る私たちはいまだ不完全なものでしかありません。その点で私たちはまだ完成途中にある者たちだと言えます。神はそのような私たちに日々、聖霊を送り、私たちを義なる神にふさわしいものとして変えてくださる方なのです。しかし、私たちは私たちが完全になる日を待つことなく、今、確かに自分は救われていると言う信仰の確信を持つことができます。それではその確信の根拠はどこにあるのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架です。イエスはご自分が十字架の御業を通して成し遂げてくださったすべての御業を、そのイエスを信じる私たちに与えてくださるからです。だから、私たちは今既に、神の御前で「義なる者」とされているという確信を持つことができるのです。

 このときマルチン・ルターによって見出された教えは教会では「信仰義認」と言う用語で呼ばれ、聖書の言葉を信仰の唯一の基準と考えるプロテスタント教会の人々に受け継がれて来ました。もちろん、「信仰義認」はマルチン・ルターが発明した教えではなく、聖書が最初から教えていたものです。残念なら宗教改革時代のカトリック教会ではその教えが忘れられてしまっていたのです。そのような意味でルターによって始められた宗教改革は私たちが聖書の教えに戻り、また最初の頃のキリスト教会の教えに戻るための運動であったと言うことができるのです。


4.キリストを通して実現した神の義

 ところで最初から説明しているように「神の義」とは神が持っておられる御性質の一つであると言えます。神は完全に義なるお方であり、義ではないもの、不義なるものを一切受け入れることができないお方であるとも言えます。その上で神が御自身の持っておられる義を守るために行なえることは二つあると考えることができます。

 その第一はご自身の義にそぐわないすべての者を滅ぼして、この世界から一掃してしまうことです。そうなればこの世界すべてが義なるものと変わります。聖書はその点で、神が罪を犯し続ける人間を容赦なく裁き、滅ぼすことのできる方であることを教えています。しかし、神はご自身の義を守るために実はこの方法を取ることがありませんでした。

 神はもう一つの別の方法でご自身の義を守ろうとされたのです。そして聖書が教える、この別の方法こそ、私たち罪人のためにイエス・キリストを遣わすという方法です。私たちのような罪人は自分の罪を解決して、義なる者になるという能力を持ってはいません。むしろ、自分の罪をさらに深刻にさせ、神の厳しい裁きを自分に招くことしかできません。だから、キリストは私たちの代わりに十字架にかかってその罪の責任を負い、また私たちに代わって神の要求を満たすという救いの御業をこの地上で実現してくださったのです。そして神はこのイエス・キリストによって私たちを「義なる者」としてくださることで、御自身の義を守るという方法を取られたのです。聖書が語る「神の愛」とは漠然とした何らかの感情を示すものではなく、イエス・キリストを通して、私たちに実現した救いによって明らかになった神の姿を私たちに教える言葉です。

 このようにキリスト教会は自分の救いを求める者に対して「厳しい修行を積みなさい」とは教えません。たとえその人がどんな人間であっても、ただ救い主であるイエス・キリストを信じれば私たちは救われると教えるのです。また、私たちが今ささげている教会の礼拝も修行の場ではありません。この教会の礼拝はイエス・キリストによって義とされ、救われた者たちがそこで示された神の愛に感謝をささげて、その神を賛美するために行なわれるものだかです。ですから、私たちは今日もこの礼拝で、私たちをイエス・キリストを通して「義なる者」としてくださった神に心からの感謝をささげ、賛美をささげるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問60の本文を読んでみましょう。

2.まず、この信仰問答は「わたしたちが神の御前で義とされる」ために何が必要であると教えていますか。

3.この信仰問答は私たちの良心を責め立てるどのような聖書の教えを語っていますか。

4.それではそのようなわたしたちが神の御前で義とされるために神は何をしてくださったとこの信仰問答は教えていますか。

5.この信仰問答が語っている「まことの信仰」とはどのようなものだと言えますか。ハイデルベルク信仰問答の問21を参考にして考えて見ましょう。

[参考 ハイデルベルク信仰問答]

問21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。

それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。

2024.11.10「義とされること」