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2024.11.17「人の子が来られるとき」 YouTube

聖書箇所:マルコによる福音書13章24~32節(新P.89)

24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。


1.イエスが語られた世の終わりの預言

①人の子の到来

 教会の暦ではクリスマスを準備する待降節から新しい年が始まります。ですからこの教会暦では来週の24日の礼拝が今年度の最後の礼拝となります。そのためでしょうか教会暦ではこの時期に世の終わりについて、つまり終末の出来事を語る聖書の箇所が礼拝で読まれるように定められています。聖書の中でこの終末について詳しく語っているのはヨハネの黙示録であることについては皆さんもご存知であると思います。しかし、終末についてはイエス・キリストの生涯を語る福音書の中にもイエス自身が語られた言葉が残されているのです。今日の聖書箇所はそのような中の一つであると言えます。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(26節)。

 聖書の語る世の終わりの出来事、終末論のクライマックスは「人の子」と呼ばれるイエス・キリストがこの地上に再び来られること、再臨の出来事であると言えます。そのような意味で聖書の語る世の終わりの出来事は私たちを不安や混乱に陥れるためのものではなく、むしろ私たちに救い主イエスが再び来てくださるという希望を教えるものだと言えるのです。それでは私たちはこの終わりの時に再び来られるイエス・キリストをどのような信仰の姿勢で待つべきなのでしょうか。そして私たちはイエス・キリストを待つ今、このときをどのように生きればよいのでしょうか。私たちはそのことについて今日の聖書の言葉から学んでみたいと思うのです。


②神殿崩壊の預言

 今日の聖書箇所に書かれているイエスの語られた終末の時についての教えはマルコによる福音書13章の最初に記された出来事きっかけになってイエスの口から語られることになったことを分かります。

「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(1~2節)。

 ガリラヤの田舎育ちのイエスの弟子たちにとってエルサレムにそびえる壮大な神殿の姿は大きな驚きを与えるものであったのかも知れません。このとき弟子たちが感動して眺めた神殿はクリスマスの物語に登場する人物として有名なヘロデ大王によって改築されたものでした。このヘロデは元々ユダヤ人ではありませんでしたから、彼がユダヤ人たちからの好意を受けるために、また彼らに自分の権威を示すためにたくさんの財力と年月を費やして作られたものでした。そして弟子たちはその神殿のすばらしい出来具合を見て感動を覚えたのです。

 しかし、彼らの感動もつかの間に過ぎませんでした。なぜなら、弟子たちはこの後すぐにイエスの口からこの神殿が完全になくなってしまうときが来ることを知らされたからです。このイエスの言葉は実際にこの後、紀元70年に発生したユダヤ人の反乱を鎮めるためにやって来たローマ軍によって徹底的に破壊されてしまうことで実現しています。

 ただ、この時の弟子たちにとってはエルサレム神殿の崩壊の預言は特別な意味を持って受け取られたものと考えられるのです。なぜなら、当時のユダヤ人にとってエルサレム神殿は特別な意味を持っていたと考えられるからです。ご存知のようにこの神殿はまことの神を礼拝するために作られたのものでした。もちろん、神殿自身が神を表すわけではありませんが、ユダヤ人はこの神殿と共に神が自分たちとおられるということを確信し、信じることができる役割を果たしていました。ですから、この神殿が無くなってしまうと言う出来事は、彼らにとっては到底、考えることもできない想定外の出来事であったと言えるのです。だから、弟子たちはイエスに改めて次のように質問を投げかけたのです。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(4節)

 彼らの質問は単なる神殿の崩壊の時期を聞いているようなものではありません。なぜなら彼らにとって神殿崩壊の出来事は世の終わりと等しい出来事ととして受け止められていたからです。そして、この弟子たちの問いかけに答えて語られたのが13章に記されているイエスの語られた終末についての教えであると言えるのです。


2.希望と勇気を与える世の終わりについての教え

 人は誰もいつでも自分を支えてくれて、何が起こっても自分が頼ることができる確かな存在を求めています。皆さんにとってそれはいったい何になるのでしょうか。イエスの弟子たちにとってはそれこそがエルサレム神殿の存在であったと言えるのです。なぜなら彼らはこのエルサレム神殿を通して自分たちと神との確かな関係を確信することができたからです。ですからイエスの語られたエルサレム神殿の崩壊の預言から、弟子たちは世の終わりの出来事をすぐに連想したのです。だからイエスはここで世の終わりについての教えを弟子たちに語ることになったのです。

 その世の終わりの出来事が近づくと、弟子たちを惑わす「偽キリスト」が出現し、さらには人々を恐怖に陥れる戦争や自然災害、そして飢饉が起こるとイエスは語っています。もちろん、イエスがこのようなことを語るのは私たちを恐怖に陥れるためではありません。むしろ、そのような出来事の中でもイエスは私たちが神を信頼して生きることをここで求めておられると言えるのです。そしてそれをよく示すのがキリスト教会への迫害を預言するイエスの言葉の中に現れています。

「(あなたがたが)引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。

 実際にこのマルコによる福音書を最初に読んでいた読者たちはローマ帝国による厳しい迫害の中にあったと考えられています。自分たちの信仰の仲間たちがローマによって捕らえられたり、中には信仰を守るために命さえ奪われる者もいました。そのような厳しい状況の中に生きる人々に向けてこの福音書は記されたと考えられているのです。そのことから分かるように、聖書の教える終末論は人々を恐怖や混乱に陥れるために語られているのではありません。むしろ、厳しい現実に生きる信仰者たちに対して確かな希望と勇気を与えるために終末論は語られていると言えるのです。なぜなら、世の人々が「確かだ」とよりどころにしているものがすべてなくなるような出来事が起こったとしても、キリストの福音を信じて生きるものには「聖霊」なる神が遣わされ、彼らを導いてくださるからです。


3.神の世界創造の御業が完成されるとき

 私が多分高校生の頃だったと思います。当時、『ノストラダムスの大予言』と言う書物が出版されて、それがベストセラーになったことがあります。ノストラダムスが預言したという「1999年に世界は滅亡を遂げる」と言う言葉にたくさんの人々が好奇心をもって耳を傾けました。当時の日本では公害などの自然破壊の問題が深刻になりつつあり、「このままでは世界は滅んでしまうのではないか?」と考える人々の心をこの預言の言葉が捕らえて大流行となったのです。

 このノストラダムスと同じように確かに聖書は世の終わりの出来事を教えています。しかし、聖書のメッセージがこのノストラダムスと大きく違う点は、聖書が語る終わりの時とは、世界が終わってしまい何もかもかが無くなってしまうと言うことではなく、むしろこの世界が完成すると言うことを教えているところです。

 ご存知のように聖書は神がすべてのものを造られたことを教えています。だからこの世に存在するものはすべて神の作品であると言うことができます。ですから歴史や時間と言ったものまで神が造られた被造物であると聖書は教えているのです。神は世界を創造されたときから、その御業を休まず続けてくださっています。そして聖書はその神が造られた世界が神の御業によって完成するときが必ずやって来ると教えているのです。つまり聖書の教える世の終わりとは、神の世界創造の御業が完成するときであると言うことができるのです。

 ですからこの神の御業を信じる私たちは世の終わりを、希望をもって待つことができるのです。なぜなら、そのときには私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくださった神の御業がすべて完成を遂げることができるからです。ですからイエスがここで語っている「人の子の到来」とは私たちの上に実現した救いを、そして世界の救いをすべて完成させるためのものだと言えるのです。


4.終わりのときをどのように生きるのか?

①イエスこそまことの神殿

 最初に申しましたようにこの当時のユダヤ人にとってエルサレムの神殿は神が自分たちと共にいてくださると言うことを確信することができるような大切な役割を果たしていました。だからその神殿の破壊の預言は、自分たちの確かな信仰の確信を失いかねないような出来事として彼らに受け止められたのです。ところで聖書はこの神殿について別の箇所でイエスが次のように語っていることを教えています。それはヨハネによる福音書の2章に記されている言葉です。このときイエスはエルサレム神殿で商売をしていた人々を強制的に追い出すということをされています。そこでこの行動に抗議する人々に対してイエスは次のような言葉を語られているのです。

「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(18~21節)

 このイエスの言葉から分かることは、本当の神殿とはイエス・キリストのことだと言うことです。ですからエルサレム神殿はこのイエス・キリストの役割を私たちに教えるような存在にすぎないのです。だから、イエス・キリストが私たちのためにこの地上に遣わされた後、この神殿の存在は必要がなくなってしまったのです。なぜなら、私たちはこの救い主イエス・キリストを通していつも私たちと共に神がいてくださることを信じ、また確信することができるからです。そのような意味で私たちをどんな時にでも支えてくださる存在こそ、このイエス・キリストであると聖書は教えているのです。このイエス・キリストを信じる者は、この世の人々が頼りにしている様々なものがたとえ無くなってしまったとしても、希望を失うことなく、確かな人生を送ることができるのです。イエスはそのことを今日の箇所でも次のような言葉で強調して語っています。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(31節)

 私たちにはイエス・キリストの言葉、つまり聖書が与えられています。だから私たちはたとえ世の終わりが近づこうとしても、この聖書の言葉に従って生きるならば、決して恐怖や混乱に陥ることはないのです。


②自分に与えられている今を大切に生きる人生

 イエスは今日の箇所でも「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)と教えています。キリスト教の歴史ではこのイエスの言葉を無視して、「世の終わりは何時いつに来る」と言うような自分たちの主張を語り、その主張を権威づけるために聖書の言葉を勝手に解釈して教える人々が繰り返し現れました。しかしこのイエスの言葉にもあるように、私たち人間にはそのときが何時かは教えられていなのです。だからこそ聖書はその日がいつ起こってもいいように、イエス・キリストを信じて生きることを私たちに教えています。

 私はこの世の終わりの出来事を語る聖書の言葉を解説するたびに、皆さんにご紹介している言葉があります。それは聖書の教えを忠実に守るために教会を改革しようとしたマルチン・ルターが語ったと言われている言葉です。

「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える。」

 どのくらいの年月が経てば新たに植えたリンゴの木からリンゴの実を収穫することができるのでしょうか。世の終わりをことさら強調して教える人々の中には「明日世界が終わるなら、そんなことをしていても意味がない」と教えます。ですからこの言葉はそんな人々の教えとは全く違ったことを語っていることになります。それはどうしてなのでしょうか。

 この言葉は私たちに今という時間を与えてくださっている神の御心を大切にして、私たちが今と言う時間を生きることを勧めているのです。私たちの人生に二度と戻って来ない今と言う時間を私たちはどのように使ったらよいのでしょうか。もし私たちがこの大切な時間を将来への思い煩いや、過去の失敗を悔やむことで費やしてしまうならば、それは神の御心に反した生き方だと言うことできるのです。

 また、たとえ世の終わりが明日来なかったとしても、私たちが自分の植えたリンゴの木の実を必ず食べることできるとは限りません。なぜなら私の地上の命はその前にすでに尽きているかも知れないからです。しかし、もし私の植えたリンゴの木の実を他の誰かがおいしそうに食べてくれるなら、それに越したことはありません。聖書が教える世の終わりを信じる者の生き方は今、神から与えられている人生の時間を大切にして生きることを教えています。たとえ自分たちの人生にどんなことが起こったとしても希望を失うことなく、自分の人生に与えられている使命を果たして行くことが私たちにとっての喜びであると教えているのです。

 そしてイエスはそのように生きようとする私たちといつも共にいて下さり、終わりの日が近づいてたとしても私たちに聖霊を遣わし、私たちの人生を導いてくださる方だと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスは様々な苦難がこの世を襲った後にどのようなことが起こると語っていますか(24~26節)。

2.このとき来られる「人の子」とは誰のことですか、その方は何をするために来られるのですか(24節)。

3.イエスは天地が滅びることがあっても、決して滅びることがない確かなものについて何を語っていますか(30節)。

4.イエスは世の終わりときがいつ来られるかを知っているのは誰だと教えていますか。あなたは今まで「世の終わりは何時いつにやって来る」と言うように教える人々に出会ったことがありますか。

5.イエスの言葉に従う私たちは終わりの時をどのように待って、生きることが大切でしょうか。

2024.11.17「人の子が来られるとき」