2024.11.24「王であるキリスト」
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聖書箇所:ヨハネよる福音書18章33~37節(新P.205)
33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
1.王とは誰か
教会のカレンダーである教会暦では次週からクリスマスを準備する待降節が始まります。この教会暦では待降節前の礼拝に「王であるキリスト」と言う名前が付けられています。そこで今日は聖書からイエス・キリストが私たちのまことの「王」であることについて学んでみたいと思います。
現代社会に生きる私たちには聖書の中で語られている「王」と言う存在をなかなか理解できないかも知れません。確かに現代でもイギリスや様々な国に王が存在します。厳密にいえば日本の「天皇」も「王」と呼べる存在なのかも知れません。ただ、現在の王のほとんどは「立憲君主制」と言って、その国の憲法によってその働きは大きく制限されていて国の政治に強い権限を持って関わることができなくなっています。そのことは日本の天皇の働きを考えてみてもよくわかると思います。
その一方で「王」とは呼ばれていなくても、事実上は絶大な権限を持って国民を支配する「独裁者」と呼ばれる人々も存在しています。私はYouTubeで最近、北朝鮮から逃げ出して韓国で生活する「脱北者」が日本に観光旅行にやってきた動画を見ました。その中で興味深く聞いたのは「現代の北朝鮮で太っている人は、かなりの高い地位にある証拠だ」と言うお話を聞きました。食糧事情の悪い北朝鮮では庶民は食べることに必死で、ほとんどの人はやせているのだと言います。それに反して政府の高官たちには豊かな食糧が与えられているので、当然に恰幅もよくなると言うのです。確かに北朝鮮の最高権力者はテレビの映像を見てもかなりのふとっており、それだけ贅沢な暮らしをしていることが分かります。
このようなことを考えても、現代の私たちにとって「王」と言う存在は必ずしも自分たちに必要なものとは思えないばかりか、ある意味、国民を苦しめる存在と考えることが多いのではないでしょうか。それでは聖書はどのような意味でイエス・キリストを王と呼ぶのでしょうか。そしてこの王はわたしたちにとってどのような方であると言っているのでしょうか。
2.イエスが王であること
今日の聖書箇所はローマ帝国の役人であり、ユダヤの総督であったポンテオ・ピラトから裁きを受けるイエスの姿を記しています。ご存知のようにイエスはユダヤ人の宗教指導者たちが集まる最高議会で「死刑」の判決を受けました。その理由はイエスが神を冒涜する罪を犯したからだと言うのです。ただし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人の議会には人を裁いて死刑にすることができる司法権が与えられていませんでした。そこで、ユダヤ人たちは当時のユダヤの実質上の支配者である総督ピラトの元にイエスを送って、ローマの司法権によってイエスを裁かせ、死刑にさせよと考えたのです。
ところがローマの法律には「神を冒涜する罪」と言う罪状はありません。そこでユダヤ人が訴えたのは「イエスは自分を王だと言っている」ものだったのです。なぜなら、もしイエスが自分を「王だ」と言っているなら、彼はローマ帝国の支配を認めずユダヤを独立させて自分の国を作ろうとしている反逆者と言うことになるからです。そうなればイエスはローマの法律に従って有罪判決を受け、死刑に処せられることになります。ですから、ピラトはイエスが彼を訴えているユダヤ人が言っているように「自分を王と呼んでいるのか」と言うところを調べ、この裁判の過程で明らかにする必要があったのです。
そこで「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)と問うピラトに対してイエスは次のように答えています。
「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」(34節)。
イエスがもし自分の無罪を求めていたとしたら、簡単に「わたしはそんなことを言っていない」と答えれば済むはずです。しかし、実際にイエスは王としてこの地上に来られた方であることを福音書はこの裁きを通して明らかにしようとしているのです。だからピラトはユダヤ人の宗教指導者たちが彼を反逆者として訴えていることを語るとイエスは次のように答えています。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(36節)。
実際に聖書は当時のユダヤの民衆がイエスを自分たちの王としようと考えていたことを伝えています。エルサレムの町に入城されるイエスを大歓声で迎えた人々たちの思いの中にもこのような期待があったと考えることもできます。この多くの人々はイエスがローマ帝国の支配を打ち破って、ユダヤの国を再建する「王」となってくれることを期待したのでしょう。しかし、彼らの期待に反して、イエスは民衆に向ってローマへの抵抗を呼びかけるようなことはありませんでした。そして民衆をそれ以上にがっかりさせたのは、イエスが簡単に逮捕されて囚人となってしまったという事実です。イエスはここで自分が人々が期待しているような「王」ではないことを語っています。しかし、その一方でイエスは確かに自分が王であること、そしてそのイエスの国は「この世に属していない」と言うことを語るのです。
3.イエスの国はこの世に属していない
ここでイエスは「わたしの国はこの世に属していない」と語っていますが、この翻訳だとイエスの国が今の私たちと関係のない場所にあると考えてしまうかもしれません。ですからむしろこの言葉は「わたしの国はこの世の原理によるものでない」と訳した方がよいと言う人がいます。ローマの役人であったピラトは国がどのような原理によって立てられるかをよく知っていました。ローマにはローマ法という大変に優れた法律がありましたが、ローマを強大な帝国に作り上げたのは巨大で強力な軍事力であることをピラトも知っていました。イエスを取り調べたピラトは彼がそのような軍事力とは無縁な存在であることを知り、イエスへの訴えが冤罪であることを悟ります。ところがイエスは一向に自分が「王」であることを否定することをしないばかりか、むしろ自分の国が存在するかのように語ったことからピラトは「それでは、やはり王なのか」(37節)とイエスに問い質しています。だからイエスは続けてこう語ったというのです。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(37節)
この言葉から分かることはイエスの国は巨大な軍事力を後ろ盾に立てられるこの世の国の原理とは違い、「真理」によって立てられる国であることです。そしてイエスは人々にローマへの反逆を呼び変えるためにやって来たのではなく、「真理を証するために生まれた」、つまりこの世に遣わされたと説明しているのです。さらにはこのイエスの国に属する人は、真理に属する人であり、真理を証するイエスの声に聴き従う者たちであるとも語っているのです。
ですからローマの政治家であり、哲学者ではなかったピラトはイエスのこの話を聞いて「真理とは何か」(38節)と言う疑問を発しながら頭を抱えざるをえなかったのです。真理に属さないピラトにはイエスが語る言葉が少しも理解できなかったのです。
4.真理によって立てられる国
①イエスが真理
「真理とは何か」。この問いに基づいて哲学者たちは日々研鑽を続けて来ましたが。しかし必ずしも彼らは誰もが認める「真理」を見出したとは言えません。かつて哲学者のニーチェは「真理は力」だと語ったことで有名となりました。いつの時代にも力も持った強者の論理が真理として重んじられることを彼は語ったのです。有名なところではナチスドイツの指導者であったヒットラーはこのニーチェの思想に強く影響されていたと考えられています。ですから彼は巨大な軍事力を使ってかつてのローマ帝国のような国、「第三帝国」を再建しようとしたのです。しかしこのヒットラーによって戦争でたくさんの人々の生命が失われたばかりか、ユダヤ人の大量虐殺のようなたくさんの悲劇が生まれたのです。
それではイエスの語る「真理」とはどういうものなのでしょうか。それは哲学者が頭の中で作り上げるようなものではありません。実はこのヨハネによる福音書は他のどの福音書よりも「真理」と言う言葉を繰り返し使っています。そしてその真理はいつでもイエス・キリストと深く結びつく言葉として使われているのです。それが一番よく示されているのはヨハネによる福音書14章6節に語られている次のような言葉です。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ここで福音書はイエス自身を「真理」と呼んでいます。この言葉によれば、このイエスを証するために記された福音書は「真理」を伝える書物であると言うことができます。このように聖書は真理を知ると言うことは、このイエスを知ることだと教えているのです。
②十字架につけられた王
ピラトはイエスを取り調べた結果、彼はユダヤ人たちが訴えるような罪を犯した罪人ではないと言うことを認めます。だからピラトはユダヤ人たちに対して「わたしはあの男に何の罪もみいだせない」(33節)と語ったのです。しかし、ピラトはイエスをこの決定に基づいて無罪で釈放させる権限を持ちながら、それをすることができませんでした。それはユダヤ人たちを恐れたからです。そしてピラトはイエスが無罪であると知りながら、ユダヤ人たちの力に屈服して彼を十字架にかけて処刑することになります。しかしそのピラトが最後の抵抗を表したのが、イエスがつけられた十字架の上にかけられた罪状書きに記された文章です。
「ナザレのイエス。ユダヤ人の王」(19章19節)。
ピラトはこの罪状書きをヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語の三か国語で記したと伝えられています。ラテン語やギリシャ語は当時のローマ帝国内で使われた共通語です。つまり、この罪状書きの言葉はローマ帝国内に住むすべての人々が理解できるように書かれたのです。ユダヤ人たちはこの罪状書きに文句をつけましたが、ピラトはこのことだけは決して譲歩することをしませんでした。そして、聖書はこの罪状書きの言葉を通してイエスがまことの王であることがすべての人々に示されたと語っているのです。
この世に属する王はきらびやかな戴冠式の席で自分が王であることを国民に示します。しかし、真理に属する王であるイエスの戴冠式はそのようなものでありません。彼はいばらの冠をかぶり、自分が十字架にかけられて死ぬことで、まことの王であることを示されたのです。ヨハネの福音書はこのイエスについて次のような証言を語ります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。
イエスは私たちを罪と死の支配から解放しせるために、私たちに代わってその罪を負い、十字架にかかって命を捨てられたのです。そのようにしてイエスは私たちに神の愛を豊かに示してくださったのです。この世の王は巨大な軍事力を使って、国民を支配し、自分の思い通りにしようとします。しかし、聖書が語るまことの王であるイエスは全くこれとは違います。彼は自らが十字架にかかって命を捨てることにより、私たちを救い、御自身の民としてくださるのです。そしてその救いの御業を通して神の愛を豊かに示してくださるのです。
「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。
イエスの国に属するものたちは強制的な力によってどこからか集められた者ではありません。聖書の言葉を通してイエスの愛を知り、そこで自分さえも招いてくださっているイエスの声を聞くことができた者たちです。そして私たちも今、この声に聞いて、この教会に集められたことを感謝し、私たちのまことの王であるイエスを心から賛美し礼拝をささげているのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.総督ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」と言う問いかけにイエスは何と答えられましたか(32節)。
2.どうしてイエスは自分が王でることをピラトに否定しなかったのでしょうか。そのイエスは自分の国についてどのようなことをピラトに語りましたか(36節)。
3.イエスは「それでは、やはり王なのか」と言うピラトの問いに答えて、御自分についてのどのような使命を語っていますか(37節)。