2024.11.3「最も重要な掟」 YouTube
聖書箇所:マルコによる福音書12章28b~34節(新P.87)
28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
1.イエスのエルサレム入城
今日の聖書箇所では聖書が教えている掟の中で「最も重要な掟は何か」という話題が取り上げられています。マルコによる福音書は11章からイエスのエルサレムへの旅が終わり、いよいよイエスのエルサレムでの活動が始められたことが報告されています。まず、イエスはたくさんの群衆の歓迎を受けてこのエルサレムの都に入城されています(1~11節)。この群衆たちがイエスを正しく理解して歓迎したのかどうかは分かりません。もしかしたら、彼らはそれぞれ自分たちが持っている期待をイエスが実現してくださると考えてこのような歓迎をしたのかも知れません。
ところがこのようにたくさんの人々に歓迎されてエルサレムに入城されたイエスを快く思わないが人たちがいました。それは今までこのエルサレムの町を支配し、そこから何らかの利益を受け取っていた人々です。彼らは大きく分けて三つのグループに説明することできます。一つは神殿で儀式を執り行うことを職業にしていた「祭司」と呼ばれる人々です。当時、彼らのグループは「サドカイ派」と言う呼び名で呼ばれていました。もう一つは聖書の掟を毎日の生活の中で厳格に守ることを主張し、また人々に教えたファリサイ派と呼ばれる人たちが属するグループです。聖書で「律法学者」と呼ばれる人々の大半はこのグループに属していたと考えられています。もう一つは、ヘロデ派と呼ばれるグループの人々です。彼らはサドカイ派やファリサイ派のような宗教家の集団ではなく、当時のユダヤを支配していたヘロデ家の人々を支持していた政治的グループと呼ぶことのできる人々です。このそれぞれのグループの人々はそれぞれ立場も主張も異なるものでしたが、イエスの登場によって自分たちの立場や既得権が奪われるのではないかと危機感を感じる点では同じであったようです。ですから、普通はお互い対立したり、敬遠し合ったりする間柄だったこの三つのグループの人々がイエスを陥れ、排除しようとする企みでは共同戦線を組むと言うことが起こったのです。
まず、イエスと彼らとの対立を決定的にしたのはイエスがエルサレムの神殿で商売をしていた人々を追い出すという出来事でした(11章15~19節)。ここに登場する商売人は神殿での儀式に必要な生け贄の動物や献金に必要なお金を両替するという大切な仕事を請け負っていた人々です。彼らがいなければ神殿での儀式が成り立たないと言うような重要な役目を務めていた人々なのです。ですから、イエスの行為は既成の秩序を壊すような重大な問題と受け取られたはずです。そのためこの問題を深刻に考えて、「何の権威によってこのようなことをするのか」とイエスに抗議する人々に対して、イエスは返って神の家である神殿を自分たちの利害のために使っているその宗教家たちを激しく批判したのです。そしてそれに続いて始まるのが、このときにイエスの批判の対象とれた人々とイエスとの論争です。
2.イエスに論争を挑む人々
まず12章13節で「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」と語られています。そして彼らはイエスに「ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っているか」と言う質問をしたのです(13~17節)。
ヘロデはローマの皇帝の後ろ盾を得て、王あるいは領主としての地位を確保した人物です。つまり、ヘロデ派の人々にとってはローマの力は自分たちを守る大切な後ろ盾と言えたのです。もう一方のファリサイ派の人々はローマの支配を快くは思ってはいなかったようですが、自分たちの宗教的な自由が認めるならば、ローマの支配も受け入れるという立場を取っていました。ですから彼らはこの時にイエスをローマ皇帝に対する反逆者とすることで、イエスを亡き者にしようとしてこのような論争を挑んだと考えることができます。ここでイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(17節)と言う有名な言葉を使ってこの窮地を見事に脱しています。
また同じ12章の18節では「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」と語られています。サドカイ派の人々は神殿の儀式を重んじる一方で、ファリサイ派の人々が教えた「死者の復活」という教えは聖書に反する教えだと主張しました。なぜなら、それを認めるなら亡くなった兄弟の妻をその弟が自分の妻として娶るという聖書の教えと矛盾すると彼らは考えたからです。結局イエスはサドカイ派の人々に「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(25節)と語り、彼ら自身が間違って聖書を理解していると語ったのです。
そして今日の聖書箇所は「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」(28節)と言う言葉で始まっています。この律法学者は直前に起こったサドカイ派との復活を巡る論争の一部始終を聞いて、イエスの受け答えを高く評価かしたようです。そのことからこの律法学者も復活を信じる、おそらくファリサイ派に属する人だと言うことが分かります。ただ、この人物とイエスとのやり取りは、今までのイエスを陥れようとするような攻撃的な論争ではなく、むしろ真理を求める者たちの対話と考えた方がよいものとなっています。イエスが十字架で死なれたときにその遺体を引き取って墓に葬ったアリマタヤのヨセフも、またその埋葬を手伝ったニコデモもファリサイ派に属する人々であったとされています(ヨハネ19章38~42節)。それを考えるとすべてのファリサイ派の人々がイエスを目の敵にしたのではなく、イエスの教えに耳を傾けることのできる信仰者たちも含まれていたことが分かります。
3.一番大切な掟は何か
①律法学者
実は今日の箇所を読んでみると「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)と質問にイエスが答えられたとき、律法学者はすぐに「先生、おっしゃるとおりです」(30節)とあたかもその答えを待っていたかのように同意しています。ここから考えるとこの律法学者は最初から自分の側でもちゃんとした答えを持っていた上で、イエスがその質問にどう答えるかを試そうとしたとも考えられるのです。つまり、この律法学者はイエスの教師としての力量を試すためにこんな質問をしたのではないかとも言えるのです。
ここに登場する律法学者は聖書に記されている神の掟である律法を研究し、日常の生活にどのように適応していけばよいのかを人々に教える務めを持つ人々でした。旧約聖書の教えによれば律法は神がモーセと言う人物を通してイスラエルの民に与えてくださったものです。その当時、イスラエルの民は荒れ野を旅する遊牧民のような生活をしていました。そのときから歴史は進み、イエスの時代の人々はほとんど決められた土地で生活するようになっていましたから、律法が与えられた当時と、イエスの時代では人々の生活様式は全く異なっています。そこでその時代のギャップを埋めるのが律法学者の大切な役割となりました。彼らは日ごろから律法を研究することに熱心に務め、現代の生活にその律法を生かすためにはどうしたらよいのかを人々に教えたのです。
②すべての律法が目指すもの
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。これはこの第一の掟を守れば、他はそんなに大切ではないと言うことを考える質問ではありません。むしろ、すべての律法が目指す最終的な目的は何かということを問う質問だと考えることができます。そしてそう考えるとイエスの次の答えの意味もよく分かって来ると思います。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29~31節)
このときイエスは単なる思い付きでこのような答を語っているのではありません。なぜなら第一の掟の部分は申命記6章4~5節、そして第二の掟に関してはレビ記19章18節といずれも旧約聖書の言葉が引用されて語られているからです。私たちがよく知る、十戒という掟があります(出エジ20章)。これもモーセを通して与えられた神の掟の一部ですが、キリスト教会はこの掟を今でも大切にして教え続けています。この掟もよく読んでみると神と私たちとの関係について、私たちと私たちの隣人の関係についての二つの掟の要素で構成されていることが分かります。ですから、イエスのこの答はすべての掟、つまり律法が目指す目的は神を愛すること、また隣人を愛するためにあると言うことを教えているのです。
そしてこのイエスの答えに対して律法学者は満足したかのように次のように答えています。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(32~33節)
この12章で取り扱われているファリサイ派やヘロデ派、そしてサドカイ派の論争ではいずれもイエスと彼らの間の聖書が教える律法についての理解が違っていることが分かります。しかし、この箇所に登場する律法学者との対話ではむしろ両者が歩み寄りを見せるようなものとなっているのです。ですから今日のお話の結論部分でイエスはこの律法学者に対して「あなたは神の国から遠くない」(34節)と語っているのです。ある意味でイエスはこの律法学者の真摯な律法理解の態度をほめたたえていると言ってよいのかも知れません。
4.すべての掟を可能にするのは神の愛
しかし、私たちはそれでもイエスがこの律法学者に「あなたは神の国から遠くない」と言いながら、むしろ「まだ神の国に入ることができない」と言っていることに注意を向けたいと思うのです。聖書はかつてイエスが十字架にかけられたときに、同時に十字架にかけられた強盗の一人が、イエスに助けを求めたことに応じて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23章43節)とイエスが語られたことを記録しています。この強盗は今日のお話に登場する律法学者のように熱心に律法を研究し、その律法を守ることに励んだ人ではありません。しかし、その強盗は「今日、一緒に楽園」つまり「神の国に入る」と約束され、この律法学者は正しい律法への理解を示したのに「神の国から遠くない」と言われているのでしょうか。この二人の違いはどこにあるのでしょうか。
律法学者は確かに律法に対する正しい理解を持っていました。しかし、それでも肝心なところで彼が神の国に入るためには足りないものがあったと言うことをこのイエスの答えは教えています。それは今、この律法学者と対面してくださっているイエス・キリストに対する理解です。なぜなら聖書をどんなに熱心に学び、そこに教えられている神の掟を守ったとしても、それだけでは全く不十分であり、私たちを神の国に導くことはできないと教えているからです。なぜなら、すべての聖書の教えは私たちをイエス・キリストに導き、イエス・キリストの救いを受け、そのイエスと共に生きることを勧めているからです。
イエスの当時のファリサイ派の人々の最大の誤解は、自分たちが聖書の律法を熱心に守ることで救われると考えた点にありました(律法主義)。しかし、律法の正しい働きは私たちがそのままでは救われることができない罪人であることを教え、その私たちのためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことを教えるためにあるのです。これが聖書の教える律法の第一の役目であると言えます。
さらに聖書が教える律法の第二の役割は、イエス・キリストによって救われた者たちがどのように生きるかを教えるところにあります。今日のイエスの言葉にあるように律法は、神に対する愛と隣人に対する愛を私たちに教えています。しかし、その愛に私たちが生きるためには何が必要なのでしょうか。「愛さないとだめ」、「愛さないと罰せられる」。そのように教えられる者が行う行為は結局自分のために神を愛し、また隣人を愛することとなります。その愛は本当の意味で「愛」と呼ぶことはできません。それでは結局、私たちは神の掟を守ることができないことになります。
なぜ聖書の掟は神を愛し、隣人を愛することを勧めるのでしょうか。この愛の根拠は神の愛、その愛を表すために神がこの地上にイエス・キリストを遣わしてくださったことにあると言えるからです。この真理についてヨハネの手紙一は次のような言葉を私たちに教えています。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3章16節)。
律法学者は神の掟に関する正しい理解を持っていました。しかし、彼に欠けていることがまだありました。それはイエス・キリストを知ることです。そのイエスを通して示された神の愛を知ることです。そして聖書はこのイエス・キリストの愛を知り、またそのイエス・キリストによって神の国の住人とされた者に神を愛し、また隣人を愛することができる新しい人生を教えているのです。その上で実際に私たちがその人生に生きることができるように神は聖霊を豊かに送ってくださるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.一人の律法学者は他の人たちとイエスとの間の議論(12章18~27節)を聞いて、そこでのイエスの答えにどのような感想を抱ましたか(28節)。
2.この律法学者のイエスに対する質問はどのようなものでしたか。イエスはこの質問にどのように答えましたか(28~31節)。
3.このイエスの答えを聞いて律法学者はどのように反応しましたか(32~33節)。
4.イエスはこの律法学者の答えを聞いてどのような言葉を語っていますか(34節)。このイエスの言葉からイエスがこの律法学者をどのように評価していることが分かりますか。