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2024.12.1「キリストを待つ」 YouTube

聖書箇所:ルカによる福音書21章25~28, 34~36節(新P.152)

25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。

35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。

36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」


1.クリスマスと待降節の目的

①多くの人に忘れられていた救い主の誕生

 キリスト教会では今日からクリスマスを準備する待降節、アドベントの期間に入ります。皆さんのご奉仕によってすでにこの教会でもクリスマスの飾りつけが終わり、周りの風景がクリスマスバージョンに早変わりしています。例年のことですがこの時期、隣の保育園に通っている小さな子供が帰り道の途中で教会の玄関に前にたたずむ姿が見られます。小さな幼児がそこに飾られているクリスマスツリーのネオンに気づいて、玄関ドアのガラスに顔をつけてそのネオンの光を興味深げに見つめる光景です。無邪気な小さな子供にとっては私たちの教会が飾っている小さなクリスマスツリーの光もその心を捉えるだけの価値があるようです。

 今から二千年以上前にイエス・キリストは救い主としてユダヤの国でお生まれになりました。神の子であるイエス・キリストが貧しく、その当時の家庭としては全く平凡なヨセフとマリア夫婦の子としてこの地上に誕生したのです。だからでしょうか。この救い主の誕生を知り、またその出来事を心から喜んでやって来たのは野原で夜通し羊の番をしていた羊飼いたちや、東の方の国から不思議な星に導かれてやって来た占星術の学者たちだけだったことを聖書は報告しています。それ以外の人は、救い主の誕生の知らせに気づくことも、その出来事に関心を抱くことさえなかったのです。それはどうしてでしょうか。おそらく人々は日々思い煩いや、自分の生活を取り巻く様々な不安な出来事にのみ心を向けることで、救い主を待ち望むという大切な心を忘れてしまっていたからです。


②キリストの再臨を待つ者の心構え

 今日の聖書の箇所は少し前の礼拝で学んだマルコによる福音書の伝えるこの世の終わりを語る箇所とほとんど同じ内容を取り扱うルカによる福音書の記事が選ばれています。ここでは世の終わり、つまり救い主イエス・キリストが再びこの地上に来られるという「その時」を待つ私たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と言う勧めが語られています。そしてルカによる福音書は私たちに「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とも教えているのです。この言葉は救い主イエスの誕生、つまりクリスマスの出来事に心を向けることのできなかった人々と同じ失敗を犯さないようにと教えているのです。そしてこの言葉は今から2000年以上前にイエス・キリストの誕生と言う喜びの出来事にあずかることができた羊飼いたちや占星術の学者たちと同じような恵みをキリストの再臨を待つ私たちも受けることができるようにと教えているのです。


2.恐れにとらわれる人々

 このルカの聖書箇所でもマルコの福音書と同じように世の終わりに伴う様々なしるしが知るさています。その中でも興味深いのはルカがこの出来事に対する人々の反応を詳しく記している点です。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」(25~26節)

 確かに人々はこれまで人類が誰も体験したことがない出来事を体験することになる訳ですから「不安に陥ったり、怯えたり、恐ろしさに捕らえられて気を失ってしまう」のは当たり前の反応かも知れません。しかし、彼らを恐怖に追い込むのはこれらの出来事だけではないようです。なぜなら聖書は続けてこう語ります。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(27節)。人々がなぜ恐怖に捕らえられておびえているのでしょうか。それは地上や宇宙に起こる驚くべき変化、いわゆる天変地異が起こるだけではありません。人々は人の子、つまりイエス・キリストが再び来られる姿を見て、恐怖に捕らわれ気を失うのです。それは彼らがイエス・キリストが自分たちに災いを下しに、自分たちを裁き、また滅ぼすためにやって来られたと考えているからです。

 ここで問題となるのは多くの人がイエス・キリストが何のためにこの地上に再び来られるのかと言うその目的を全く知らないことです。それは彼らが今までの人生の中でイエス・キリストに関心を一切示さず、またその方に心の目を向けることがなかったからであると言えます。ですからルカが語る「いつも目を覚まして祈りなさい」と言う勧めの言葉は、このような人々の犯した過ちに陥ることなく、私たちがキリストに心の目を向け、また私たちとキリストとの関係を知ることが大切であることを語っていると言えるのです。


3.解放のとき

 ルカは続けて私たちがこのような誤解に陥ることがないように次のような勧めの言葉を伝えています。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)。

 イエス・キリストは私たちを「解放」してくださるために再び私たちのところに来てくださるのです。それがイエス・キリストの再臨の目的です。決して私たちを滅ぼすために来られるのではありません。聖書がここで使う「解放」と言う言葉はギリシャ語原語では「贖う」と言う意味を持った言葉です。奴隷が自由になるためにはその主人にその奴隷を買い取るための代金が支払う必要があります。「贖う」とはそのことを意味する言葉であり、キリストは奴隷だった私たちを自由にしてくださるために来られると言うことを表しています。

 それでは私たちは何の奴隷であったのでしょうか。私たちを贖うためにどれだけの代金が支払われるのでしょうか。このことを知るためには私たちがクリスマスの日にこの地上に来てくださり、私たちのためにこの地上の生涯を送られた救い主イエスに目を向ける必要があります。なぜなら、主イエスはかつて罪と死の奴隷として生きなければならなかった私たちを自由にするために、十字架にかかってご自身の命をささげられたのです。つまり、私たちの命は高価なイエス・キリストの命と引き換えに贖われて、私たちは奴隷状態から自由にされたのです。

 それでは世の終わりにイエス・キリストがもう一度、私たちのところに来てくださると言うこと何を意味するのでしょうか。それは私たちを既にご自分のものとしてくださったイエス・キリストが実際に私たちと共に生きることができるためです。そしてそのとき、私たちは完全なイエス・キリストの愛の中に生きることができるようにされるのです。だから聖書はその時を「解放のとき」と私たちに教えているのです。


4.キリストに心を向けるとき

①恐れと不安に捕らわれる私たち

 神学生の時に、私は京都にある男山教会という場所に奉仕神学生として二年間、神戸の神学校から通ったことがありました。私たちのいた時にはまだ男山教会はアメリカ人の宣教師が働く伝道所でした。今でも思い出すのですがこの教会で婦人たちのリーダーともいえるようにいつも活発に奉仕する一人の婦人がおられました。その婦人が日曜日の礼拝になるとよく私の座っている席の隣にやって来て座り、こう言うのです。「櫻井さん。とっても不思議なんだけど私、スタッブ先生が説教し始めるとすぐに眠くなっちゃうのよ。すまないけど、そうなったら横から突っついて起こしてくれない」。つまり、当時の私は説教中に寝てしまいそうになるその婦人を起こす役目を申し付かった訳です。しかし必ずしも私はその役目を忠実に果たすことができた訳ではありませんでした。なぜなら、その婦人の隣に座っている私も、同じように先生の話を聞いて安心して眠ってしまうことがあったからです。

 ルカによる福音書はイエス・キリストがいつ、やって来られてもよいように私たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と勧めています。なぜなら、34節で「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とも述べられているからです。先日、YouTubeで北朝鮮から脱北した人が語る次のような発言を聞きました。「北朝鮮で庶民に出回っているのは25度以上の強い酒で、酒は味わいながら楽しむものではなく辛い毎日の現実を少しでも忘れるために飲むものだ」と。

 ルカによる福音書が伝えるように人々が「放縦や深酒」に陥ってしまうのは彼らがつらい「生活の煩い」から少しでも逃れるためなのかも知れません。しかしそれでは結局、目の前の現実は何も変わらないばかりか、ますます深刻になるばかりです。そこには何の解決策も見出すことができないからです。

 ここではキリストを信じている信仰者も同じ立場に立たされることが預言されています。なぜなら、キリストを信じている者もこの世の生活の中で様々な思い煩いに支配されることから決して免れることはできないからです。おまけに、立て続けに起こる自然災害、ましてや拡大していくばかりで決して解決しない戦争の危機の中でキリストを信じる者たちも何もできないばかりか、心配と恐怖に捕らえられてしまう恐れがあるからです。それではそのような私たちに「いつも目を覚まして祈りなさい」と聖書が教えているのはどうしてなのでしょうか。


②私たちの心の扉を叩くイエス

 今から百年くらい前にハレスビーと言うノルウェーの牧師が記した「祈りの世界」(旧訳では「祈り」)と言う本があります。祈りについて書かれた名著として有名で、日本でも長い間、何度も印刷されて多くの人の愛読書とされています。

 この本の冒頭にはヨハネの黙示録3章20節の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と言う言葉が引用されています。そしてハレスビーはこの聖書の言葉を使って、「祈るとは私たちの心の扉を開いて、私たちの心の中にイエス・キリストを迎えることだ」と繰り返し語っているのです。

 実はこのヨハネの黙示録の言葉はラオディキア教会の人々にイエス・キリストが語るメッセージの中に登場しています。当時のラオディキアは大変裕福な町で、この町の中にあった教会もその恩恵を受けて何不自由のない生活を送っていました。しかし、イエスはこの教会の人々の信仰を「熱くもなく、冷たくもない」と非難しています。なぜなら、彼らは今の自分たちの生活に満足していて、祈ることを忘れてしまっていたからです。しかし、彼らは、本当は神の前では自分たちがみじめな罪人でしかないことに気づいていません。そのような意味で彼らは深刻な信仰の病に陥っていたと言えるのです。

 しかし、驚くべきことにイエス・キリストはそのようなラオディキア教会の人々を決して見捨てることがありません。いつまでも彼らの心の扉の外に立ち続けて、その扉を叩き続けてくださると言うのです。そして彼らが心の扉を開けば、彼らの中に入り、彼を癒し、救い出そうと待っておられると聖書は語っているのです。

 ハレスビーは「祈りは私たちの心の扉を開いて、私たちの心の中にイエス・キリストを迎え入れることだ」と語っています。イエス・キリストは私たちが抱えているすべての問題をすぐにでも解決してくださるために、私たちの心の扉を今日も叩き続けてくださっていると言うのです。

 「イエス・キリストを信じる者はこの世の様々な問題からすべて免れることができる」。そのような都合のよいことを聖書は私たちに約束している訳ではありません。また、私たちはイエス・キリストを信じたとしても決してスーパーマンのような力を持つ存在に変わる訳ではありません。むしろ私たちは自分の抱える問題を自分では解決することのできないような無力な者たちでしかないのです。

 しかし、私たちのイエス・キリストはそのような私たちを救うためにこの地上にやって来てくださいました。それが私たちにとってのクリスマスの大切な意義です。そして十字架の御業を通して私たちを罪と死の呪いから解放してくださったイエス・キリストは今も私たちの心の扉を叩き続けてくださるのです。

 「いつも目を覚まして祈りなさい」。それは私たちがそのイエス・キリストを祈りをもって、私たちの心に迎え入れることを教える言葉だと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.ルカによる福音書が語るように諸国の民が「なすすべを知らず、不安に陥る」のは彼らがどのようなことを体験することになるからですか(25節)。

2.このような出来事を体験した人々は何のためにおびえ、恐ろしさのために気を失うことになると言われていますか(26~27節)。

3.ルカによる福音書はこのようなときを「何の時」と言っていますか。またそのときをどのような姿勢で待てと私たちに教えていますか(28節)。

4.このような時が近づいているとき、聖書はどのようなことに気をつけなさいと教えていますか(34節)。また、その時を待つ私たちに何を求めていますか(36節)。

2024.12.1「キリストを待つ」